第28話 第6節 ファーストキス
響子コーチは甘酒を飲みながら僕に言った。
「まだしばらくは、練習もキツくなるし、大変だね」
「響子コーチがストレッチしてくれるし。問題ないです」
「そっか。家族連れが多いところとか、私が悠太君が嫌だと思うところに誘ったり、いやだと思う会話をし始めたら、ちゃんと教えてね」
「ぜんぜんですよ。気にしないでください。本当に僕はもう何ともないので。気にされちゃうと逆に気にするようになっちゃいますよ」僕が言った。
「悠太君。私は悠太君を傷つけてばかりいて、悠太君に何にも出来ていないね」
「ちょっと、テンションがおかしいですよ。まさかスイミングクラブやめるとかじゃないですよね?」
「やめないよ。悠太君は本当にすごくってさ、真面目で、一生懸命な気持ちと、それを実行できる身体と。なんで?」
「なんでって?何がなんで?」僕は聞き返した。
「なんでこんな悠太君が、私を好きでいてくれるのかしら?私に好きって言ってくれるのかしら?」
「前にも言ったじゃないですか。神様のファンファーレが聞こえて、まあお父さんが好きな曲ですけど、それで……」
同じベンチの隣に座っている響子コーチが、突然僕の方を向いたと思ったら、両手を僕の頭に回して、ぎゅっと響子コーチの胸に押し当ててきた。
僕は腰を曲げて、響子コーチの胸に抱かれた。
「……悠太君、大きくなったね。いつの間に私より大きくなったの?」響子コーチは小さな声で言った。
「やだなぁ。高1の夏……思い出した。響子コーチに、めちゃくちゃ泣かされた、冴子さんの海の家の初めてのアルバイトの時には、僕の方が高かったですよ」
響子コーチはさらに力を込めて、僕の頭を抱いた。僕の大好きな響子コーチの匂い。寒いけどわかる、響子コーチの体温。厚着しているけどわかる、響子コーチの鼓動、呼吸。僕はこの人が大好きだ。響子コーチが大好きだ。
僕は頭を響子コーチに抱かれたまま言った。「僕は響子コーチが大好きです。もう……他に言葉はないのかなって、いっつも考えるんですけど、見当たらないので、大好きって言葉を繰り返すことになっちゃう。僕は響子コーチが大好きです」
響子コーチは突然僕の頭を開放したと思ったら、僕の顔を両手で挟んだ。
僕の目の前には、僕が大好きな響子コーチの顔がある。僕は一瞬で心臓の動きが5倍くらいの速さになった。
中学校2年生の夏に初めて会った響子コーチに、こんなに近い距離でこんな風に見つめられたのは初めてだ。薄い茶色の響子コーチの眼の色。その目が僕の目をじっと見ている。僕ははじめて見えた、響子コーチの眼の放射状の虹彩をじっと見ていた。
5年間も響子コーチをあんなにたくさん見ているのに、響子コーチの虹彩に目を奪われたのは初めてだ。
「キレイ……」僕は響子コーチの虹彩に気を取られていて、無意識につぶやいた。その瞬間、響子コーチの唇が僕の唇に触れた。
僕は響子コーチの虹彩から目を離すことが出来ずにいる。もっと他にするべきことがあるだろ!僕は僕に叫んでいるけれど、ただただ響子コーチの虹彩から目が離せずにいる。
「……悠太君……もっと唇の力を抜いて……」僕の大好きな響子コーチから指示が飛んだ。僕は言われるがままに、唇の力を抜いた。
響子コーチの唇は、僕の人生で食べたことがある、あらゆるものより柔らかい。
「もっと力を抜いて……もっと唇の力を抜いて」僕は生まれて初めてのキスだったので、唇の力だけを抜くやり方がわからなかった。
響子コーチの指示に従う為に、みっともない表情になっても構わないから、顔中の全筋肉を脱力させた。顔面麻痺のように、唇も口角もほっぺたも、全部「ダラーン」とさせた。
響子コーチは、柔らかい唇を僕の唇に這わせながら言った。「うん、上手になってきた……」
柔らかい響子コーチの唇が、僕の唇の上を這っていく。左右に、上下に這っていく。唇の隙間から、歯が当たったり、さらに柔らかい舌が僕の唇の上を縦横無尽に這っていく。
凄く柔らかな響子コーチの唇の後、期待を裏切るように響子コーチの硬い歯が僕の唇を刺激すると、すぐに響子コーチの歯茎の温かさを僕の唇は察知する。その直後、響子コーチの舌の表面が、響子コーチの液体と、体温より熱い温度を僕の唇に届けて来る。
次の瞬間には、響子コーチの舌の裏側が、最高に繊細な感覚を与えて来る。僕は無意識に、響子コーチの口の中に舌を入れた。響子コーチは唇を離して言う。「力を抜いて。ダメよ。力を抜いて」そう言って、また唇を合わせた。
僕はさっきより顔の力を抜いた。唇や舌を動かすのではなく、首を使って頭全体を動かして、柔らかくした唇や舌は、スライムのように隙間なく響子コーチの唇を覆った這わせた。
今までも色々あったけれど、本当に何にも考えられなくなる時間だ。何にも考えられない。そうだ。泳いでいるのと同じだ。無意識に手が水をつかんで、脚が水を蹴るのと同じだ。
僕は無意識に響子コーチの唇の上を泳いだ。全神経を集中して柔らかくした、僕の唇や舌を重ねて這わせている。響子コーチは僕の頭の後ろに手を回して、その手を使って、這わせる圧力を僕に指示しているように感じる。
僕は響子コーチの動きの全部を感じながら、響子コーチの指示を逃さないように従った。
響子コーチの口が、ほんの1センチくらい開いた。これは僕に入ってくるように指示をしている1センチだ。僕は舌に力を入れないように、形を維持するのが困難なくらい柔らかい、ポッテっとしたわらび餅のようにした舌を、響子コーチの唇に当てた。
響子コーチの体の中に、僕の舌がズルっと引き込まれた。
僕のわらび餅のように柔らかくした舌を吸い込んだ響子コーチは、唇で挟み込んだ。
漏れる唾液を吸う、ジュルジュルという音。
顔じゅう性感帯になった様な感覚。
みっともないとか、格好悪いとか、恥ずかしいとか、嫌われちゃうとか、そういうスイッチを切ったような、完全に思考を停止した行動になっていた。
僕の柔らかくした舌を、響子コーチの極上に柔らかい舌が絡み合う。舌と舌が密着したり、触れるか触れないかまで離れたり、追いかけっこをしたり、待ち伏せをしたり。
口の中でダンスを踊っているようだ。僕はさらに何にも考えられなくなっている。
僕は響子コーチが欲しい。全部何もかもどうでも良いから、一つになりたい。僕は感じた事がないくらい下腹部が熱くなっている。
多分響子コーチも僕を欲しがってくれている。僕の頭を押さえる手の力が強くなっている。力ずくで僕と響子コーチを一つにしようとしているように。
響子コーチの口は僕とキスをしてふさがっているけれど、響子コーチが僕を欲しがってくれている小さな声が漏れる。
響子コーチは僕とのキスで感じてくれている。僕はどうにかなりそうだ。
顔の力を完全に脱力させて、唾液が口から零れ落ちるレロレロのキスを、多分白目をむくようなバカな顔で僕はしている。好きな人との特別な時間は、こんなにも本能任せになることを知った。
大切なお時間を割いていただきありがとうございました。わかりにくいところやご意見ご感想などいただければ幸いです。