第23話 第1節 僕は本当にあんぐりと口を開いた
僕の毎日は、学校と水泳だ。夏休み中は、海水浴場の響子ライフセーバーとスイミングクラブの響子コーチ。二つの場面で会えていたので、なんだかすごく関係が近くなった気がしていた。今はスイミングクラブだけなので、僕の中で響子コーチとの関係が、すごく遠くなった気がしている。振り出しに戻っただけなんだけれど。
競泳の地区大会では、自由形全距離で良い成績が出ていて、古岡コーチや他のコーチから褒められることが多い。あまり感情を見せない百瀬コーチから指導を受けている時に、僕はいつも通り百瀬コーチの顔を見てうなずきながら聞いていたら、突然百瀬コーチが笑顔で僕の頭をなでてくれた。「お前はホント……」と言われたけれど、ホント何なのかは言ってくれなかった。
今の僕は、ただただ社会人になったら響子コーチと結婚してもらえる男になりたいと思っているだけだし、冴子店長やみっちゃんのように、目の前の誰かを大切にして、その誰かに正直でありたいと思っているだけだ。
ずっと前に、百瀬コーチから「お前はどう生きるんだ?」と怒られたことがあって、その時はちょっと百瀬コーチが何を言いたいのかわからなかったけれど、今は少しわかる気がしている。だから僕は、どんな時も面倒くさがらずに、ちゃんと生きたいって思っている。
ある日いつものようにクラブに行って、ロッカーで着替えていると真理雄がやってきた。
「悠太君おはよう」
「さっきまで学校で一緒だったのに。なんか変だよ」僕は笑った。
「ははは。癖かね?そんなことよりも、響子コーチのこと聞いた?」
僕は今までの経験から、このパターンはやばいと感じて、心がギュッとなった。「な……なに?」
「冴子さんから聞いたんだけど、響子コーチ入院したらしい」
「え?!どこか悪いってこと!?」
「なんか心臓が苦しい時があるから検査したら、問題が見つかったからしばらく検査入院になるってことみたい」
「えぇ!!?」僕は居ても立っても居られない気持ちになった。
「どこの病院に入院しているの?今からでも行けるかなぁ?!!」僕は真理雄の両肩をつかんで聞いた。
「落ち着いてよ悠太君。痛いよ。病院は冴子さんから聞いているよ。でも今夜これからは、もう面会時間が過ぎるから無理だよ。今日はちゃんと泳いでさ、明日、学校帰りに行けばいいよ」真理雄は僕を諭すように言った。
「そうだな。わかった。ところで真理雄。なんで冴子さんがそんなこと知っているの?」
「なんだか響子コーチが、冴子さんにいろいろ相談したりしているみたいだよ。冴子さんが言うには末っ子気質かしらね。って言ってたけど」
「それに真理雄は海の家から4か月経って、もう今年も終わろうとしているけれど、今でも冴子店長とそんなにつながっているの?」
「へへへ。週末は泊りで民宿手伝ってる」真理雄らしからぬ健治っぽい笑顔を見せた。
次の日僕は、学校帰りに響子コーチが入院しているという病院に行った。駅のそばの花屋さんで花を買った。
受付で響子コーチが入院している部屋を聞いて、その階の廊下の一番奥にある病室の扉の前に立った。扉の横には4人の入院している人の名前が書いてあり、その中に「林葉響子」という名前を見つけた。
軽い深呼吸をして部屋に入ると、奥の窓際のベッドに響子コーチがいた。僕は思わず走り出した。響子コーチは僕に気が付くと言った。「走らない。病院は走っちゃダメ」僕は慌てて早歩きに切り替えた。
「真理雄から、冴子さん経由で聞きました。驚きました。大丈夫ですか?」
「ごめんね、心配かけて。わざわざありがとうね」病院で貸し出す格好悪いパジャマでも、響子コーチが着るとすごく可愛い。僕は勝手に顔を赤くして、買ってきた花を渡した。
「これ」
「病気になったわけじゃないんだから、よかったのに。まあ病気が見つかったといえるのかな?検査入院だからさ。私は別に元気なんだよ。ほら、この通り」響子コーチは両腕を上に伸ばして、肘を90度曲げて体操のようなポーズをとった。
「元気ならよかったです。でも、僕の大切な大切な、本当に大切な響子コーチなんですから、無理はしないでくださいね」僕は言った。
「うん、ありがとう。先生もそれほど心配することは無いと思うけれど、ちゃんと知っておくことは大切だからって言ってたしね」響子コーチは僕を見て言った。毛布の上に無造作に置かれた、響子コーチの手を握りたくてしかたなかったけれど、心臓の検査をする状況なのに、僕が手を握って驚かせたりするわけにはいかないと考えて思いとどまった。
僕はそれから、学校とクラブの間の時間に、毎日響子コーチの病院に行った。あまり長い時間だと迷惑になるから、30分と決めていた。なんで30分かというと、病院の受付の壁に「患者様の負担軽減のため、お見舞いは30分程度を目安に」と書いてあったから。僕は甘えて、上限いっぱい響子コーチと一緒にいることにした。
お父さんには、お世話になっている、僕が大好きな響子コーチが入院している事を話した。僕は毎日、もちろん負担軽減のため、30分だけお見舞いに行くから、掃除とかできないって伝えてあった。
響子コーチがいないクラブでは、ジムトレの時間は他のコーチが付いてくれた。響子コーチが居なくても、僕はちゃんと泳いで、ちゃんとジムトレやって、ちゃんと過ごした。
一週間くらいの検査入院と言っていたけど、そろそろ退院かなと思っている日曜日。朝からずっと行っていたかったけれど、響子コーチの負担軽減のため、30分をどこで行くか考えた結果、いつものように夕方行くことにした。
いつものように響子コーチの病室に入ると、枕もとの台には、花瓶に入った綺麗な花が二つあった。
「響子コーチ。今日も元気ですか?」僕は言った。
「うん、ありがとうね。もう退屈で死にそうだよ」
僕は花瓶の花をちらっと見て、頭に三橋さんが浮かんだけれど、それをかき消して言った。「綺麗な花ですね。誰かお見舞いに来たんですか?」
「うん。百瀬コーチともう一人驚く人が来た」僕は百瀬コーチの名前を聞いて安心して、驚く人と聞いて、また三橋さんの顔が浮かんだ。
「もしかして、三橋さんですか?」僕は響子コーチの顔を見て聞いた。
「ははは。正直に言えば前に一度来たよ。でもあれは花なんて持ってこないよ。悠太君、あれとはもう本当に終わっているから。流されちゃうことも、今後もうないよ。それは断言できる」響子コーチは何か強い確信を持った顔をして言った。僕は何か、ずっと引っかかっていたことの一つが流れていく気がした。
「……よかった」僕は思わず口走った。
「ははは。いろいろゴメンね。嫌な思いもさせたからね。ごめん」ベッドわきの椅子に座る僕の頭を、響子コーチが撫でた。僕の心臓はドキドキしながら、とても穏やかな気持ちになった。響子コーチの手はとても温かい。僕はずっとこの手を握っていたい。
「でもじゃあ、驚く人って。僕が知っている人ですか?」僕は心配そうに尋ねた。
「知ってる知ってる。すっごい知っている人だよ」響子コーチは僕の頭にのせた手を、さらに動かしながら笑顔で言った。
「誰だろう?誰なんだ?……」
「悠太君のお父さんが来てくれたんだよ」僕は口が「ガバッ」と開いた。漫画とかでは見たことあるけれど、突然すごく驚くと、本当に口が開くことにも驚いた。
「え!?僕のお父さん!?」
「そう。イケメン紳士が来たから、病院の人かな?って思ったのよ。そうしたらそっちの、右側の豪華な花束を持って言うの。『初めまして、いつもお世話になっている安田悠太の父、安田幸太郎です』って。もう驚いたなんてもんじゃなかったわよ」多分きっと、僕の方が驚いている。
大切なお時間を割いていただきありがとうございました。わかりにくいところやご意見ご感想などいただければ幸いです。