第2話 第1節 彼女との出会い
電車で5駅、自転車なら20分位のところにあるスイミングクラブに、小学二年生の頃から通っている。親にとって「泳ぐ」は必要なことだったのだろう。自分自身でも嫌いではないし、地区大会で表彰台に上がったり上がれなかったり程度の才能はあったので、優越感や喜びもあった。
このスイミングクラブが、僕の全てをかける存在になったのは、7月生まれの僕が14歳になった中二の夏、赤に近い茶色の髪をポニーテールにした、薄茶色い瞳を持った20歳の彼女がコーチとしてやってきた時からだった。
僕の意思とは関係なく、押し付けるように流れて来る「毎日」は、僕自身が手足を動かし「なにか」に向かって泳ぎ続けていく「毎日」に変わった。そんな日々は時に苦しかったり、強い流れに「もみくちゃ」にされたりしながらも、あの日に出逢えた20歳の彼女は、僕の全てに理由を生み出す存在となった。
それなりに泳ぐのが速かった僕は、コーチの推薦により選手コースに属していた。「水泳教室」の生徒の中から、大会などで活躍できそうな生徒に「競泳」を教えるのが「選手コース」である。
週5日の選手コースではあったが、毎日泳ぐのは嫌だったので僕は週3日通っていた。
そんなある日、いつものようにクラブの受付に行くと、20代後半だけど149センチと人より小さい身体に、人の3倍元気を詰め込んだ高田晴美コーチの隣で、初めて見る女性が受付のやり方を教えてもらっていた。
僕は高田コーチに負けないような元気さで声をかける。「おはようございます!!!」
高田コーチもいつものように、明るく元気に「おはよう!!」と返してくれた。
「高田コーチ、今月の月謝」お金が入った封筒を高田コーチに渡した。
「ありがとうね。今封筒にハンコ押すね。林葉さん、生徒さんによっては現金で月謝を持ってくるので、封筒にこのハンコを押してあげるの。やってみてくれる?」
「はい。ここでいいですか?」
「そうそう」
そこにいる背が高くて、茶色い髪の毛をポニーテールにしている林葉さんという名前の女性は、少したどたどしく僕が持ってきた封筒にハンコを押した。
髪の毛と同じような薄茶色の眼をした林葉さんが僕に聞いた。「じゃあこれ、返していいのかな?」
「うん、ありがとう」
「選手コースの安田くんだね。私は林葉と言います。よろしくね」八重歯の林葉さんの笑った顔にドキッとした。
「みんな悠太って呼んでいるから、林葉さんも悠太でいいよ」僕はなんだか恥ずかしくなって、林葉さんから顔をそらすようにカウンターテーブルに目線を下げて言った。林葉さんから受け取った封筒をカバンに入れて顔を上げると、林葉さんの茶色く透き通った眼と僕の目が合った。なんか胸の辺りがギュッてなった。
「悠太、響子コーチ初めてじゃん?」
気が付くと隣には僕と同じく平均的な身長の篤がいた。その後ろには僕らより背が低い真理雄もいた。みんな同じ歳だけど学校はそれぞれ違う。
「バタフライがヤバい響子コーチだよ。そして怖いぞぉ、響子コーチは」
林葉さんは顔を少し赤くして言った。「ちょっと篤君、やめなさいよね。誰が怖いのよ」
僕の中で篤が林葉さんの事を響子コーチと呼んだ事が、何かモヤモヤさせている。
「林葉さん、僕も響子って呼んでいいの?」それを聞いた林葉さんは八重歯の笑顔で言った。
「私を響子って呼ぶにはまだ早いかな?響子コーチならいいけどね」響子コーチは笑顔で言った。僕は響子コーチを呼び捨てしたことに気付いて、顔がカーッと熱くなった。
着替え終わりプールに出ると「みんな集合」という坊主頭の一番若い三橋コーチの声が響いて選手コースの全員が集まった。
響子コーチが三橋コーチの隣に移動して声を出した。「はじめましての人は初めまして。これからよろしくお願いします。大学2年生でバタフライを担当する林葉響子です。どちらかといえば長距離のほうが得意です」
さっと頭を下げて挨拶をする響子コーチを見ながら、篤がコソッとつぶやいた。
「響子コーチって三橋コーチと同じ大学なんだってさ」なんだか僕は響子コーチのことになると心がモヤモヤする。
僕は自分の希望で平泳ぎの選手をしているが、タイムが良いのは自由形、つまりクロールだ。バタフライは少し苦手で、水泳教室時代に溺れていると勘違いされて助けられたこともある。背泳ぎもタイムは良い。選手コースは自分の希望とコーチの意見で、自分の泳ぎ方や距離を決める。僕は短距離のほうが速い。長距離はちょっと苦手だ。
「じゃあいつも通り、まずは準備運動から、前半は自分のメイン泳いで、後半は個別メニューに沿って進めてください」三橋コーチが言うとみんなは距離をとって準備運動を始めた。




