第10話 第4節 河原での響子コーチ
そのあとも、クラブでの練習は幸せな時間が続いた。古岡コーチは響子コーチの言葉を受けて、持久訓練は響子コーチを担当につけてくれていた。泳ぎの時間は主に向上コーチになった。気分転換や身体のバランスを考えて、野球を続けることは古岡コーチにも勧められていたので、日曜日の野球は続けていた。
ある日曜日の野球のあと、みんなで河原の近くにあるバッティングセンターに行くことになった。バッティングセンターでの打撃練習が終わった夕方、あたりが薄暗くなり始めた河原のサイクリングコースをみんなで自転車で走っていると、何人かの不良っぽい若い男性グループと、響子コーチと三橋コーチが電車の橋の下にいた。男性グループの大きな声がしたので気が付いて、気が付いた瞬間に僕は自転車を放り出して土手を走り下りていた。
「響子コーチ!!」大きな声で叫びながら土手を走り降りていくと、男性グループがこちらを見て何かしら大声で言いながら、歩き去った。
「響子コーチ、どうしたの?」
「悠太君こそ。どうしたの?こんなところで?」
「野球練習の後でバッティングセンターに寄ったんだ。その帰りだよ。そんなことより大丈夫?」
「久しぶりだな、悠太。自由形1本に切り替えたんだって?」三橋コーチが話しかけてきたけど、僕はそれよりも響子コーチに話し続けた。
「大丈夫?変なことになっていない?」振り向くと野球チームのエースで四番の身長185センチの高橋を筆頭に、チームの17名がケースから出したバットを肩に担いでいた。多分これを見て、さっきのグループは去っていったんだと考えた。
「ごめんね。三橋コーチから相談があるって言われたから話していたら、変な連中にからまれて」
「何もなきゃそれでいいけど。本当に響子コーチは大丈夫?」そういうと少し微妙な顔をして言った。
「うん問題ないよ。ありがとうね。私ももう帰るね」
「じゃあ駅まで一緒に帰ろうよ。僕たち全員で送るよ。また変な奴らにからまれたら困るからさ」
「わかったよ」そういうと響子コーチは僕らのほうに向かって歩き出した。
「じゃあまたな響子。悠太も自由形頑張れよ」そういうと軽く手を挙げて、三橋コーチは先ほどの男性グループとは反対方向に歩いて行った。
野球チームのみんなに響子コーチを紹介して、商店街を17人で送るのは迷惑ではないかとなったので、僕一人で響子コーチを駅まで送る事になった。僕は自転車を押して響子コーチと駅に向かって歩き出した。高橋はすでにケースにしまったバットをかざして、変な連中にからまれそうになったら、フェニックス2番バッターの抜群なバットコントロールでボールの代わりに相手の頭を打っちゃえよ!そう言って笑いながら自転車をこぎだした。
僕は響子コーチの隣を、自転車を押して歩いていた。
「本当に暴力とかされていない?」
「絡まれ始めてすぐに悠太君たちが助けてくれたから、大丈夫だよ。ありがとうね」
「三橋コーチにも変なことされていない?強く腕つかまれたりされてない?響子コーチが嫌なこと言われたり、されたりしていない?」一瞬だけ顔が変わったが、響子コーチはすぐにこちらを見て言った。
「大丈夫だよ。もう彼氏じゃないんだから、何かあったらあんな奴、警察に突き出してやるよ」そう言った。
「付き合ってないのに何で相談になんか乗るの?」
「あら、だって悠太君だって付き合ってないけれど、真理雄君とか篤君が相談あるって言ったら乗るでしょ?」
「それは男だからだよ。僕は女子に相談があるって言われても行かないもん」
「何?悠太君は私にヤキモチを焼いてくれるのかな?」
「僕はまだヤキモチがどういう気持ちなのかわからないけれど、響子コーチが嫌な目に合うのは絶対に許せない」
「ありがとうね。もしかしたら悠太君は私の白馬に乗った王子様なのかもしれないね」
「そうなりたい。響子コーチだけの王子様になりたい。どうしたらなれるのかわからないけれど」
「自由形も頑張ってくれているし。私と同級生だったらよかったのにね」
「僕が年下だから王子様にはなれない?」
「今はまだ悠太君は中学生だもん。いくらなんでも早いよね。これから私の王子様がどんな男になっていくか、楽しませてもらうよ」
「何歳になったら王子様として見てくれる?高校生?大学生?社会人?僕はいつまで響子コーチにとって子供扱いなの?僕が今だけって呪文を唱えるのはいつまで?」
「なあにその呪文って?」
「僕が響子コーチの事で頭がおかしくなりそうだった時に、真理雄が教えてくれたんだ。僕が響子コーチを幸せにできるようになるまで、守れるようになるまで、今は、今だけは響子コーチを守るのが僕じゃなくても仕方ないっていう呪文だよ」立ち止まって響子コーチは僕の顔をすごく真剣な表情でじっと見た。
「真理雄君も悠太君も大人だね。私より大人かもしれないな。ねえ悠太君、どうしてそんなに私を幸せにしたいって、守りたいって思ってくれるの?私は悠太君が思っているような女じゃないかもしれないよ?悠太君はまだ私の事を全然知らないじゃん」真剣な顔のままで、僕の目をじっと見て少し怒ったように言った。
「僕は今でもあの日、初めて受付カウンターで響子コーチを見た時のことを忘れない。初めて響子コーチを見た時に頭の中に音楽が流れ始めたんだ。お父さんが好きでよく聞いている音楽がずっと流れていたんだ」
「ふふふ。どうして私を?の答えにはなっていないね」
「理由はわからない。でも響子コーチに幸せになってもらいたいし、響子コーチが嫌だって感じる全てを僕がなくしたいんだ。死ぬまでずっと変わらないよ」
「そう思ってくれ始めてから1年弱だね。お互いを知っていく道は長いぞ少年よ。クラブ以外で悠太君と話すことすら今日が初めてなんだから」
「うん、僕は響子コーチが水着とジャージ以外の姿でいるのを初めて見た」
「そうだよね。そうかぁ。まだお互い知らないことだらけだね。悠太君の野球のユニフォーム姿を見るの、私も初めてだね」
「僕、野球ではセカンドで打順は2番なんだよ。背番号が2番なのは、前はキャッチャーだったんだけど、本気で水泳やり始めてから怪我するの嫌だったから、キャッチャーはやめさせてもらったんだ」
「え?水泳の為にキャッチャーやめるのは嫌じゃなかった?私のせいかな?」
「う~ん、キャッチャーは楽しかったけど、どのポジションでも野球は楽しいし、それに僕が水泳を選んだんだから、響子コーチのせいではないよ」そう言いながら、前に百瀬コーチに言われたことがつながった気がした。「まずは自分の分を自分でちゃんと背負え。響子コーチに背負わせてんじゃねえよ」ってのはこういう事なんだ。だから僕が自分の意思で選ばなければならないんだ。
僕の意思で選んだ道を、今日中にもう一歩前に進みたい。そんな気持ちになった。
「ねえ響子コーチ」
「ん?」
「キスしてください」そういうと響子コーチは驚いた顔をして、何かを思い出した顔になり言った。
「キスはダメだよ。今日はダメ。今日の私の唇はダメ。でも助けてもらったしね」そういうと僕より少し背の高い響子コーチは、自転車を支えている僕の前に立ち、僕の頭を響子コーチの胸に強く抱きしめてくれた。そして耳元で小さい声で言った。
「私の王子様、ありがとう。私も王子様にふさわしい生き方をしなきゃね」
大切なお時間を割いていただきありがとうございました。わかりにくいところやご意見ご感想などいただければ幸いです。




