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第1話 プロローグ

 36歳になった安田翔子(やすだ しょうこ)は不機嫌そうな顔をして、「安田美咲(やすだ みさき)」と名札がかけられている、病室のドアの前に立っていた。


「ふぅ」彼女は息を吐き、ドアをノックし病室に入り、不機嫌そうな顔を笑顔に変えて言った。

「おはよう、お母さん。調子はどう?」


 電動ベッドの背中を起こして本を読んでいる女性は、老眼鏡を外してこちらを見た。

 

「寝不足なの?機嫌悪そうね」母親である美咲にはお見通しだ。


 翔子は何かを言いかけたが、ぐっとこらえてベッド脇までズンズンと歩み寄り、折り畳み椅子を広げて座った。


 ベッド上の美咲は、読んでいた本をオーバーテーブルのペットボトルとハンドタオルに並べて置いて、両手を体の前に揃えて翔子を見た。

「さて、私は何を怒られるのかしら?」


 翔子は一冊の古いノートをカバンから取り出して、美咲の揃えた手の上に乗せた。

「なによ、これ?」


 36年間の付き合いである自分の母親が、見たことのない慈悲深い笑顔でそのノートを見つめた。

「あらあらあら」


 翔子は両目をつぶって、覚悟を決めたように強い口調で言った。

「お母さん。悪いとは思ったけれど、全部読んじゃったわ。一緒にまとめてあったノート、全部読んじゃったわよ!いったい……いったいどういうことなの!?」


 美咲はノートのページをめくりながら言った。「これはね、お父さんだけが失くした、お父さんの時間よ」


「上手いこと言ってうやむやにしないでよ……お父さんの日記でしょ?夜通し読んじゃったわよ。小さい頃からお父さんの言っていることが、おかしいなって思うことがあったけれど、全部つながっちゃったじゃない……」翔子は不安な気持ちを持て余すように言った。

 

 ――トントン

 

 ドアをノックする音が部屋に響いた。

 

「どうぞ」ベッド上の美咲が声をかけた。

 ドアが開くと、そこには美咲と同じくらい、60代中盤くらいで身長は165センチくらいの、小柄だが自信が全身から溢れ出ているような男性医師が立っていた。


「おや、娘さんも来ていたんですね」医師が笑顔で言った。医師が着る白衣の胸には「院長 神波真理雄(かんなみ まりお)」という名札がつけられている。


「真理雄君。これ見て」美咲は満面の笑顔で、ノートを真理雄に見せた。


「あ!悠太君の日記?懐かしいなぁ……」真理雄も笑顔になって、翔子とは反対側のベッド脇に歩み寄った。


「見ていいの?」真理雄は美咲に聞くと、美咲はウンウンと首を縦に振った。真理雄は白衣の胸ポケットから取り出した老眼鏡をかけて、ノートを丁寧に開いた。


「ああ……悠太君の字だ……色々……色々あったよねぇ」真理雄は感慨深げに言った。

「ねぇ真理雄君。私たちの人生は、とっても、とっても素敵な人生だったわよね?」美咲は真理雄に優しい表情で問いかけた。


 真理雄は窓の外を眺めながら言った。「過去形にするのはまだ早いよ。もう大変なところ終わって、一段上からのご発言には賛同しかねますね。医療的にシンドイのこれからでしょ」

 美咲は鼻を鳴らして、立てた親指を地面に向けた。


 真理雄は美咲に笑顔を送ってから、椅子に座った翔子に顔を向けた。「翔子さん。美咲さんが転院するホスピスはね、この病院の系列で医療体制も万全だから、安心していいからね。美咲さんが育てたような看護師や医師ばかりだから、現地の皆は戦々恐々かもしれないけれど。怖かったんだよ。現役の医者時代のあなたのお母さん。美咲さんが生まれ育った町の近くにある、海の音が聞こえる、環境が良いところだ。翔子さんも遊びに行くにはちょうど良い距離だろうし」


 話を遮るようにベッド上の美咲が言った。「悠太君と初めて言葉を交わして、初めて想いを告げて、届かなかったけれど二人を強く結んだ大切な場所だわ。私のわがままで順番を割り込ませてもらって。真理雄君の政治力を使わせちゃったわね。ありがとう」


 真理雄は肩をすくめて言った。「僕に政治力なんてないよ。たまたま総理大臣の命をつないだり、たまたま皇室関係者の命をつないだ結果として、ちょっとしたお願いを聞いてくれる人が増えただけさ」


 椅子に座ったままで翔子は真理雄に聞いた。「院長先生は、お父さんと若いころからの知り合いなんですよね?」


 真理雄はクロールの手ぶりをして言った。「僕と悠太君は、小学生の頃はスイマー仲間。中学の頃から親友になって、高校の時から、そうだね、戦友になった。僕と悠太君はお互いの背中を任せられる。そんな関係だったね」


 噛みつくように翔子が言った。「響子さん。響子さんって知ってますよね?お父さんは私が小さい頃、お母さんのことを競泳のコーチだった、って言ったり、海外留学していた、って言ったり、大人になってからおかしいなって感じることが色々あったんですけど、それってお母さんじゃなくって、響子さんって人のことじゃないですか?」


 真理雄はチラッとベッドの美咲を見るとクスクスっと笑っている。真理雄は翔子の顔を見て言った。「人間はわからないことを怖がるから、穴が開いている記憶を、模造記憶で埋めてわかるように変えていくんだ。記憶って結構適当なものなんだ。適当って字の通り、自分に適した形に当てはめていくんだよ。勘違いとか思い違いとか。翔子さんも経験あるでしょ?あなたのお母さんはね、悠太君の記憶の穴を全部ひとりで埋めたんだ。僕だったら5つくらいでヒザを折ってしまうような、とても苦しい作業をひとりで何百回も何千回もやってのけた。とんでもない頭の良さと、とんでもない心のスタミナを持っていないとできない作業だよ。色々な意味で、心から尊敬していますよ。僕はね」


「じゃあ院長先生は、その日記に書かれている事実も、全部知っているってことですか?母はお父さんだけが失くした、お父さんの時間って言ってたけれど……」

「さすが美咲ちゃん。上手いこと言うね。そう、悠太君だけが失くした、僕らの中には強く刻まれた悠太君の時間。翔子さんのおじいさん、つまり悠太君のお父さんがね、悠太君が失くした時間を持つ権利があるのは、美咲ちゃんだけだって、この日記を渡したんだよ」


 翔子は美咲に言った。「他の女との記憶を、お母さんとの記憶に入れ替えるなんて、それを納得してるなんて、お父さんもお母さんもおかしいよ。全然理解できない。私こんな気持ちのままじゃ……」


 美咲はさらにクスクス笑いながら言った。「翔子には悪いけれど、私は悠太君のいないこの世界に、未練も興味もないの。だからホスピスで、海の音を聞きながら、少ない痛みで死にたいの。翔子がおかしいって言うことに関しては、悠太君が過ごした時間のすべてが私のものになったのよ?悠太君はすべての記憶を、私との記憶に書き換えてくれたんだもん。私にとっては願ったりかなったりなのよ。私ね、高校生の時に悠太君に言ったの。長い時間をかけて私で満たしてみせるって。宣言通りになったわ。私の悠太君に対する愛の勝利ね」美咲は満足げに笑った。


 ――トントントン

 

 また部屋にノックの音が響いた。

「失礼しま~す」ドアを開けた看護師は、病室内の美咲と真理雄を見て緊張した表情になった。

「失礼しました。安田先生、神波院長。また出直します」看護師は身体の向きをひるがえして、ドアの外に出た。

 

 真理雄は翔子に言った。「ほらね?僕は院長なのに、先に安田先生って言ってたでしょ?ホント怖かったんだよ。あなたのお母さん」


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