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四話

 今様を書きつけていたら、いつの間にか夕刻になっていた。


 女房に声を掛けられる。


「……緋乃様、もう夕餉の刻限ですよ!」


「あ、もうそんな刻限なの?」


「そうです、あまり無理はなさいますな」


 女房は眉をしかめながらも朱鷺乃から筆を取り上げた。仕方ないので、今様を書きつけるのは中断する。女房は片付けを手早く済ませた。


「では、夕餉をもらって来ますね」


「ええ」


 頷くと、女房は部屋を退出する。それを見届けた。足音が遠のくと、ごろんと横になる。はっきり言ってまだ、重衡卿の邸に来て一日しか経っていない。ほうと息をついたのだった。


 女房が夕餉のお膳を持ってくる。昨夜や朝などよりは、簡素だが。それでも湯漬けのご飯に茸の汁物、焼き魚に大根のにらぎと庶民として暮らしていた時よりはちゃんとした食事だ。ゆっくりと味を噛みしめる。朱鷺乃は最後に大根のにらぎをぽりぽりと食べたのだった。


 夜もとっぷりと暮れて、朱鷺乃は寝る事にする。ふと、姉様と慕う清野が気になった。元気にしているだろうか。確か、重衡卿が家人を迎えに行かせると言っていたが。朱鷺乃はごろりと寝返りを打った。清野の事が気になって、眠気が来ない。仕方ないので御帳台から出てみた。寝所からも出て、なんとはなしに簀子縁に行く。今はまだ、春だから夜中は冷える。朱鷺乃はまた、ぶるりと震え上がりながらも空を見上げた。ぽっかりと浮かぶ望月もとい、満月にしばし見入った。


(やはり、綺麗ね。お月様、姉様を見守っていてください)


 そう思いながら、朱鷺乃は満月に手を合わせて祈る。寝巻用の小袖だけでいたから、寒い。朱鷺乃は急いで中に戻った。御帳台に向かおうとしたら、不意に後ろから声をかけられる。


緋乃(あかの)、そんな薄着で何をしているんですか」


「……あ、重衡様」


「このように端近に出ては、駄目ですよ。誰に見られるかわかったものではない」


 重衡卿が満月を背に、簀子縁に佇んでいた。朱鷺乃は驚いて目を開いた。


「あの、姉様が心配で眠れなくて」


「姉様?」


「私と一緒に暮らしていた遊び女です。幼い頃から、世話になっていて。名を清野と言います」


「……ああ、あなたが共に暮らしていたという女人ですね」


「そうです、確か。重衡様が迎えに行かせると以前に仰っていたのは、覚えているんですけど」


 朱鷺乃が言うと、重衡卿はこちらに近づいてくる。一歩二歩と来るたびに朱鷺乃は何故か、胸騒ぎを覚えた。


「し、重衡様?」


「清野はいませんでした。あなたが暮らしていたという辺りを探させもしましたが。小屋は焼かれていて、跡形もなかった」


「えっ、嘘でしょう?!」


「嘘ではありません、清野の亡骸は見つかりました。明日には寺に運ばせて、弔いをさせます。緋乃、共に来ますか?」


 朱鷺乃は清野の亡骸と聞いて、全身から力が抜けてしまう。唯一の身寄りで自身の幼い頃をよく知る実姉とも慕う人。その清野がまさか、こんな末路を辿るとは。ぺたんと床にへたり込んでしまった。重衡卿がさらに近づいて、跪く。朱鷺乃は気がついたら泣いていた。声も上げずに黙って静かに涙だけが流れる。重衡卿はそっと彼女の肩に腕を回す。


「緋乃、あなたの名を教えてください」


「名を?」


「本当の名を、です」


 重衡卿は朱鷺乃を優しく抱きしめながら、背中を撫でる。低い声で言われたが。朱鷺乃は言葉の意味がわからない。


「あなたは清野殿から、普段はなんと呼ばれていたのですか?」


「……と、朱鷺乃と」


「ときの、ですか。良い名です」


 重衡卿はそう言いながら、朱鷺乃が泣き止むまで辛抱強く待ってくれた。しかも、抱きしめて背中を撫でながらだが。朱鷺乃はしばし、重衡卿の薫衣香(くのえこう)や温もりに包まれながら、泣き続けた。


 やっと、半刻程して朱鷺乃は泣き止んだ。重衡卿の着ていた直衣の胸元やら袖は朱鷺乃の涙やらで濡れてしまっている。何だか、いたたまれない。


「あ、あの。何というか、申し訳ないです」


「ああ、気にしないでください。女人に胸を貸すのはやぶさかではないですから」


「はあ」


 重衡卿はにっこりと笑いながら、なんとはなしに言う。朱鷺乃はまだ、重衡卿の腕の中だ。離れてほしいのだが。はっきり言って、今の体勢はかなり恥ずかしい。清野にいかに守られていたかを今更ながらに、痛感した。


「朱鷺乃、今日は私が添い寝しましょう。一人だと眠りにくいでしょうから」


「い、いえ。大丈夫ですから」


「本当に?」


「……お願いします」


「なら、決まりですね」


 重衡卿はじっと見つめてきた。根負けした朱鷺乃は、仕方なく頷く。途端に、重衡卿は一気に機嫌が良くなる。その理由は彼女にはわからない。色恋には人一倍疎い朱鷺乃だった。


 御帳台に入り、先に朱鷺乃が横になる。重衡卿は直衣や指貫などを脱いだらしい。寝巻の白い小袖姿になると、朱鷺乃の側に入り込む。横向きになって彼女を抱き込んだ。


「え、重衡様?」


「これくらいはいいでしょう、寝ますよ」


「はい」   


 頷いて瞼を閉じた。だが、重衡卿の温もりやらがやけに気になって眠れそうにない。それでも、重衡卿に向かって寝返りを打つ。ぽすんと何か固いながらに温かな物にぶつかる。不思議とそれに頬を当てていたら、安心できた。何か、良い香りもする。


(……ん?良い香り?)


 朱鷺乃は体が硬直するのがわかった。頭の上から低いながらも優しげな声が響く。


「落ち着きましたか、朱鷺乃」


「は、はい」


 そう、朱鷺乃は重衡卿に添い寝もとい、抱き寝をされていた。てことは、先程に自身の頬に当たっていたのは重衡卿のいわゆる胸板か。それに思い至った朱鷺乃は、姉様にこっそりと詫びたのだった。

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