三話
髪を整えて、お化粧を軽く施す。
そうされてから、朱鷺乃は重衡卿の寝所に案内された。女房はつんけんしながらも通してはくれる。確か、三位中将様曰く、手は出さないんじゃなかったか。約束が違うとは思うけど。
「……身支度はできたようですね」
「中将様」
「私の事は重衡と」
朱鷺乃はほぼ初対面の公達を名前呼びするのに、躊躇いを感じる。が、彼はお客人だ。仕方ないと思い直す。
「わかりました、では。重衡様」
「ええ」
「失礼します」
朱鷺乃は舞を舞う際のように手をついた。深々と頭を下げる。寝所に入り、朱鷺乃は御帳台の近くで眠ろうとした。だが、重衡卿は不服そうな表情で言う。
「緋乃、そんな所で寝ていては風邪になりますよ」
「はあ、それはそうですね」
「こちらに来なさい」
重衡卿は御帳台の中から手招きをした。朱鷺乃はため息をつきながら、そちらに近づく。几帳の隙間をすり抜けて御帳台に入る。
「……重衡様、夜伽をしましょうか?」
「いや、それは頼みませんよ。ただ、添い寝だけで構いませんので」
「わかりました」
頷いて褥の中に入った。重衡卿とは距離を取りながらだが。
「そんなに警戒しなくとも、取って食いやしませんよ」
「それはそうなんですけど」
「……男慣れしていないんですね」
「今まで、枕席に侍らずに来ましたから」
「ああ、都では有名なようですね。『侍らずの白拍子』と言う名で」
重衡卿はそう言いながら、くすりと笑った。朱鷺乃は堪らずに紅くなる。
「そんな二つ名がついていたんですね」
「ええ、だから。あなたに興味を持ったんです」
重衡卿は朱鷺乃をまた、じっと見つめた。
「あの、そんなに見られると。恥ずかしいのですけど」
「あ、すみません。つい、癖で」
「癖ですか」
朱鷺乃はふっと肩の力が抜けたように思った。先程までは、凄く緊張のせいでがちがちになっていたのに。重衡卿の照れたような表情を見て安心してしまう。年上ではあるが、こういう所もあるんだなとわかると親近感が増した。
「では、そろそろ寝ましょうか」
「そうですね」
「おやすみ、緋乃」
重衡卿はそう言って、瞼を閉じた。朱鷺乃もつられて眠りについた。
翌日の明け方近くに朱鷺乃は目が覚めた。まだ、休んでいるらしい重衡卿を起こさないようにそっと褥から出る。御帳台からも出ると、昨夜に脱いでいた単衣や袿をかき集めた。それらを羽織り直してから、急いで寝所を出る。重衡卿と一夜を共にしたが。本当に何も起きなかった。
(……残念というべきか、それとも。良かったと言うべきなのかしら)
複雑な気分を持て余しながらも重衡卿の部屋を出る。まだ、明け方なので辺りは薄暗い。空も白み始めてはいた。が、やはりまだまだ寒い。ぶるりと震え上がりながらも簀子縁を進んだ。春の今は三月の下旬くらいにはなっていた。朱鷺乃はそれを思い出してもう、春も終わりだと気がついた。来月から夏に入る。そんな事を考えつつ、自身に宛てがわれた部屋に戻った。
女房がしばらくしてから、やってきた。持って来てくれた角盥に張ってある水で洗顔をする。髪を整えたりもしてもらう。着替えもしたら、女房は朝餉を持ってくると言って一旦、出ていく。暇を持て余してしまう。以前は自身でやっていた事も他の人がやってくれるから、やる事がない。仕方ないから、立ち上がりうろうろと部屋を歩き回る。だが、なかなか女房は戻って来ない。朱鷺乃はふと御簾を上げて前栽を眺めた。やはり、見事だなと思う。しばらくはぼんやりと庭を眺めたのだった。
朱鷺乃が庭を眺めるのも飽きた頃に女房は戻って来た。手には朝餉が盛り付けられたお膳がある。
「御前、朝餉をお持ちしました」
「あ、ありがとうございます」
「……私共に敬語は必要ありません」
女房はそう言って、朱鷺乃の前にお膳を置く。湯漬けのご飯に鹿肉や筍が入った汁物、焼き蛸の干物、大根のにらぎに唐菓子と豪勢な内容だ。朱鷺乃は秘かに目を瞠った。けれど、表情には出さない。お箸を取ってまずは、汁物を啜った。鹿肉のおだしがよく効いている。干物は固いが噛めば噛む程に、味わいがあった。朱鷺乃はしばし、味わうのだった。
朝餉を終えると、女房がお膳を持ってまた部屋を出ていく。朱鷺乃は自身で文机やらを探す。部屋の隅にあったので両手で持ち上げて運んだ。次に硯や筆、石墨も用意する。置いた文机の上に並べたら最後は紙だ。が、これだけは場所がわからない。朱鷺乃は部屋を出て女房や女童を探した。偶然、簀子縁を歩いていた女房を呼び止める。
「あの、ちょっといいかしら」
「何でしょうか?」
「御料紙を探しているのだけど、なかなか無くて。場所を教えてもらえない?」
「ああ、御料紙ですか。ちょっと待っていてください」
女房は部屋に入ると、厨子棚から何枚かの紙を取り出す。見事な薄様の紙だ。朱鷺乃は見惚れてしまう。
「こちらになります、何枚使うのですか?」
「そうね、十枚くらいは使うかしら」
「わかりました、では。文机に置いておきますね」
朱鷺乃は礼を述べる。女房はにっこりと笑いながらも部屋を去っていく。正直、助かったと思う。硯に水を入れ、石墨を擦る。何回かやると真っ黒になった。筆を取り、先を浸す。さらさらと頭に浮かんだ今様を書きつけたのだった。