二話
朱鷺乃は、三日後にも桜梅中将の君――平維盛卿の邸を訪れていた。
中将の君の隣には先日の中年の殿方ではなく、若い殿方がいた。たぶん、朱鷺乃より三つくらいは上だろうか。ちなみに朱鷺乃は十八になっている。
「緋乃御前、よく来てくれました。今日も頼みますよ」
「御意に」
朱鷺乃は深々と手をつく。立ち上がると、扇を持って始まった楽に合わせて舞を舞う。鼓や太鼓などが奏でられる中、優美な動きで指先を動かす。中将の君はいつかのように、また酒盃を持ってそれを見ていた。
「……やはり、見事でしょう。重衡殿」
「ええ、そうですね」
「あなたはあまり、白拍子には興味がなかったのでしたね」
「あまり、興味はないですね」
「父上にそこはよく似ている」
中将の君はそう言って、酒を呑み干した。重衡卿と呼ばれた殿方も同様にする。
「重衡殿、平家は今が盛りと言える。だが、物事には始まりがあれば。終わりもあります」
「それは言えています、いずれは平家にも来るのでしょうか」
「わかりません、肯定も否定も私にはできませんが」
「まあ、不吉な事は言わないでおきましょう」
「そうですね」
中将の君は頷いてまた、舞を舞う緋乃御前を眺めた。重衡卿も食い入るように見つめる。二人は、無言で酒盃を傾けた。
楽が終わり、朱鷺乃は再び手をつく。丁寧に頭を下げると、廂の間を去った。簀子縁へ出て息をついた。
(……ふう、やっと終わったわ)
酷く疲れていた。朱鷺乃は、重い足を引きずりながらも歩き出す。だが、背後から声をかけられた。
「……あの、少しよろしいでしょうか?」
「何かご入用でしょうか?」
「ええ、確か。緋乃御前でしたね。あなたの舞を見て、ちょっと言いたい事がありまして」
朱鷺乃は、不思議に思って首を傾げる。声をかけてきたのは、先程に中将の君と共にいた殿方だ。
「……私は三位中将、平重衡です。緋乃御前、今宵は頼めませんか?」
「はあ」
「いや、あなたは枕席には侍らないんでしたね」
朱鷺乃はどうしたもんやらと考えあぐねた。重衡卿は、答えを待っているらしくじっとこちらを見つめる。
「……三位中将様、私でよろしければ」
「そうですか、では。早速、私の邸に行きましょう」
「分かりました」
朱鷺乃が頷くと、重衡卿はにっこりと笑う。この時にはっきりと彼の顔を見た。切れ長の涼しげな瞳にすっと通った鼻筋、薄い唇、すっきりとした顎。なかなかに端正な容貌の公達だ。朱鷺乃は少しの間、見惚れてしまう。
重衡卿は、朱鷺乃の側を通り抜ける。後を追いかけたのだった。
重衡卿は牛車を門前に停めさせ、朱鷺乃に乗るように勧めた。先に乗った朱鷺乃の履物は、従者が預かる。後から遅れて重衡卿も乗り込んだ。前簾が下げられると榻がどけられて、牛車が動き出す。ゆっくりと車輪が回り出した。
「……緋乃御前、こうやって誘いはしましたが。あなたに手は出しませんから」
「そうですか」
「ただ、私に舞や歌を聴かせてくれたら。それで構いません」
朱鷺乃は、あまりの事に呆気に取られた。重衡卿は苦笑いする。
「私はあなたの声に惚れました。けど、色めいた感情はありませんよ」
「左用ですか」
「ええ、あなたには身内に当たる人はいますか?」
「いますが」
「名を教えてください」
朱鷺乃は少し考えてから、答えた。
「清野と申します」
「そうですか、後で家人を遣わせて迎えに行かせます」
「はあ」
朱鷺乃は驚きのあまり目を開いた。重衡卿は穏やかに笑いながら、朱鷺乃を見つめた。戸惑いながらも彼を朱鷺乃も見つめるのだった。
重衡卿の邸に着くと、月が西の方角に傾きかけていた。先に重衡卿が降りると朱鷺乃が降りやすいように、手を差し伸べる。また、驚きながらも朱鷺乃は従者が台の上に置いてくれた草履を履く。そうして、立ち上がるとおずおずと重衡卿の手に自身のそれを重ねる。きゅっと握られた。力強く引き上げられて、台から降りる。
「さ、中へ入りましょう」
「……わかりました」
重衡卿は朱鷺乃の手を引いて邸の中へ誘う。あまりの急な事に朱鷺乃は付いていけない。それでも、重衡卿に従うしかなかった。
中に入ると、今は春のせいかどことなくひんやりとしている。重衡卿は朱鷺乃にまずはお湯殿に行くように言った。頷いて、一人で行こうとしたが。重衡卿は女房を呼んで案内をするように命じた。女房は言葉少なに頷いて、朱鷺乃に付いてくるように言う。お湯殿に向かうと女房は朱鷺乃に告げた。
「……御館様は優しい方ではありますが、自惚れないように。あなたはあくまで側女だという事を忘れないでください」
「自身の身分はわきまえています」
「なら、よろしい。お湯殿はこちらです」
女房はつんとそっぽを向きながらも、朱鷺乃にこちらで待つように言った。そのまま、姿を消してしまう。しばらく経って女房が戻ってきた。その手には湯帷子や麻布などかある。
「さ、行きますよ」
「わかりました」
お湯殿の中に入った。湯帷子を身に纏い、蒸気を浴びる。しばらくいたら、外に出て木の浴槽からお湯を汲む。先程の女房や他に四人の女房がいる。無言で髪や体を洗われたのだった。
湯浴みが終わると、小袖だけではなくて上等な衵と呼ばれる肌着や白い小袖、緋袴などが用意される。女房達はてきぱきと着付けていく。いつの間にか、貴族の姫君が着るような格好になっていた。
「よし、身支度はできました。今から御館様の寝所へ行きますよ」
「はあ」
朱鷺乃は複雑な気分で女房の後を追いかけた。重たい裾を引きずりながらもため息をついたのだった。