初めて美容室で髪を切った。夏休み明け、気付いたのは隣の席の女子だけだった
誰にでも初めてってあると思う。
高一の夏休み、僕にとっての初めては、美容室に行くことだった。
入ったのは、近所にたまたまあった男性用の美容室。
家からの距離で言えば、普段通っている床屋とそう変わらない。
でも、店内の雰囲気が違い過ぎて、僕はガチガチに緊張した。
床屋は親しみやすかったけど、美容室は僕にはオシャレ過ぎたのだ。
本日はどうなさいますか、と美容師さんに尋ねられた。
僕はしどろもどろになりながらも、スマホの画面を見せた。
初心者はオーダーで苦戦すると聞いたから、ヘアカタログを予め見て、気に入った髪をピックアップしていたのだ。
でも、そこにはとんでもない罠が待ち構えていた。
「お客さま……こちらの髪型は、パーマをかける必要があります」
「えっ!?」
パーマ!? この髪型が?
このモデルさんの髪の、一体どこにパーマがかかってるんだ?
それとも髪型に疎すぎて、パーマかそうでないかの識別すらつかなかったのか?
「あっ、そうですか……。ええっと、そしたら……」
やばい、どうしよう。
想定外の事態に頭が真っ白になり、言葉が出てこなくなる。
混乱する僕を助けてくれたのは、目の前の美容師さんだった。
30代後半から40代前半くらいに見えるダンディな雰囲気のその人が、慈愛に満ちた微笑みを僕に向ける。
「パーマなしでも、こちらの髪型に近づけることはできますよ。そういう方向性にいたしましょうか?」
「は、はい! それでお願いします!」
藁にもすがる思いで、僕は首をぶんぶん縦に振った。
その結果——。
「多少はマシになった……よな?」
夏休み明けの始業式当日。
洗面所の鏡を前に、僕は顔の向きを変え、様々な角度から髪型を確認していた。
ワックスも付けてある。ベタベタにやると夏休みデビュー感がして嫌だったから、本当に目立たない程度だけど。
「……あんた、さっきから何やってんの? 早く行かないと遅刻するわよ?」
洗面所に来た母さんが、そんな僕を見て呆れていた。
「……うるさいなー。全然間に合うって」
急に恥ずかしくなった僕は、捨て台詞を残して家を出た。
* * *
高校までは、家から自転車で20分ほどかかる。
いつも通り自転車を漕いでいると、途中でクラスメイトの酒井と合流した。
浅黒い肌はいかにも運動部っぽいけど、事実、酒井は陸上部だ。
「よう、齋藤。元気してたか?」
斎藤というのは僕のことだ。
片手を挙げる酒井に、僕も右手を挙げる。
もうちょっとで学校なうえ、時間にはまだ余裕があった。
僕らは自転車を降りると、並んで歩き始めた。
「まあ、ぼちぼちかな。酒井は?」
「ぼちぼちどころか、バテバテよ。部活のせいで全然休みないし、女子とプール行くとか夏祭り行くとか、そういうイベントは最後まで一度もなかったし」
「夏祭りなら、2週間くらい前に行ったじゃないか」
「あのなあ……俺は『女子と』って言ったんだぞ? 野郎と行くのとは話が違うだろ。それとも、齋藤は女子だったのか?」
「そんなわけないだろ……でも、祭り中にうちの高校の女子は見かけたけどな。しかも、ばっちり浴衣姿だったし」
「見かけるのと一緒に行くのとじゃ、次元が違うだろ次元が! そこにはあまりに大きな壁がある!」
「……ああ、そう」
くだらない会話を交わしつつ、正門を抜ける。
酒井が僕の髪型の変化に気付く様子はない。
まあ、そんなもんだよな。
モブみたいな立ち位置の僕が少し変わったところで、普通は誰も気付かない。
前髪を切ったら見違えるようにかっこよくなり……なんて漫画みたいな展開は、現実じゃ起きないものだ。
特にがっかりすることもなく、駐輪場に自転車を停め、校舎に入る。
教室に入る時は流石に緊張したけど、やっぱり誰も僕の変化になど気付かない。
僕の席は教室中央の列の一番後ろ。
机の横にあるフックに鞄をかけたところで、左隣から鈴の鳴るような声がした。
「久しぶり、齋藤」
「……久しぶり、千歳」
僕は左隣を向いて挨拶した。
ぱっちりとした目が特徴的な、大人しそうな子が視界に入る。
ボブカットの黒髪を、前髪だけ眉の上で綺麗に切り揃えていた。
彼女が僕の隣人、千歳真穂だ。
千歳は夏休み前とほとんど変わりない感じだった。
気持ち表情が明るくなったくらいか。
なんとなく安心していると、千歳が首を傾げつつ尋ねてきた。
「齋藤、ちょっと雰囲気変わった?」
「……え?」
心臓が早鐘を打ち始めた。
* * *
今更だけど、白状しよう。
僕が美容室に行こうなどと血迷ったのは、千歳が原因だった。
きっかけは、8月中旬のことだ。
酒井たちと夏祭りに行った僕は、千歳たち数人の女子とばったり会った。
女子は千歳も含め皆浴衣姿で、大してこちらは僕だけが甚平だった。
てっきりみんな甚平で来るものと思ってたから、梯子を外された僕はかなり恥ずかしい思いをした。
千歳の浴衣は、濃青の地に、薄い青の紫陽花をあしらったものだった。
腰元の真っ赤な帯が目に鮮やかで、自然と目を引かれる。
他の女子の浴衣姿は覚えていない。
そもそも、見もしなかったから。世界から音が消え、千歳と僕だけが無音の静けさに取り残されたような気がした。
「へえ……千歳って、実はけっこうかわいかったんだな」
ぼそりと漏れ出た酒井の言葉で、僕は現実に引き戻された。
遠のいていた祭囃子の音が戻ってくる。
「『実は』って何よ、『実は』って」
「真穂は元からかわいいでしょ。何言ってんの酒井は」
千歳以外の女子から袋叩きに遭う酒井を、庇う余裕は僕になかった。
脳内では、本能が盛んに警鐘を鳴らしていた。
ついに千歳のかわいさが、他の連中にばれてしまった。
失礼を承知で言うと、彼女はクラスでは目立たない方だったのに。
このままじゃ、僕なんか相手にされなくなってしまう。
——だったら、僕も何かアピールする必要があるんじゃないか。
改めて千歳を見る。
彼女はかわいいという言葉に慣れてないのか、照れたように顔を伏せていた。
僕の視線に気付いたのか、千歳が顔を上げてこちらを見る。
首をこてんと傾げた。僕は慌てて目を逸らした。
「そう言えば、そっちは齋藤だけ甚平なんだね」
不意に女子グループの方から、そんな言葉が聞こえた。
別の女子が重ねて言う。
「意外と似合ってるじゃん、齋藤。なんか文豪っぽいかも」
「……ど、どうも?」
文豪が褒め言葉なのかどうかは微妙なところだ。
僕が曖昧に返事をすると、今度は千歳の方から視線を感じた。
そっちを見ると、千歳はぷいと視線を逸らす。
「『意外と』ってなんだ、『意外と』って」
「そうだそうだ! 齋藤は元からかっこ……よくはないな、うん。かっこ悪いってほどでもないけど」
今度は酒井たちが女子を責め……ているようで、僕に言葉の刃が向かってるな。
女子に比べてこちらの結束が緩いのか、それとも単に、千歳と僕の差なのか。
後者だとしたら悲しいので、前者だと思うことにする。
……まあ、ともかくこんな経緯で、僕は人生初の美容室行きを決意した。
* * *
だから、本当は教室に入った瞬間から、僕は千歳の存在を意識していた。
千歳の方ばかり見たら不審者扱いされそうなので、あえて見ないようにしてたけど。
その張本人に「齋藤、ちょっと雰囲気変わった?」などと言われて、ドキドキしないはずがない。どくどくと脈打つ心臓をなんとか落ち着けつつ、僕は言った。
「そう、見える?」
「うん。なんだろう……あっ」
千歳は目を見開くと、思わずといった様子で僕の頭を指差した。
「あっ、ごめん」とすぐさま指を引っ込め、頬を赤らめる。
かわいい。じゃなくて、別に謝ることないのに。
「いいよ、そのくらい。でも、よく気付いたね。実は、この間初めて美容室に行ったんだ。……まあ、そんなに大した話じゃないんだけど」
種明かしをする最中、今更ながらそんな大層なネタじゃないと気付いた。
僕にとっては大きな一歩でも、美容室くらい誰でも行く。
女の子からすれば特にそうだろう。
大体、もっと大胆にイメチェンしたならともかく、髪型が少し変わっただけだ。
何を僕は意気込んでいたのだろう。
自信がなくなり、自然と声が小さくなったその時だった。
「……大したこと、あると思う。何かを変えるって、勇気いることだと思うから」
珍しく、千歳がちょっと声を張り上げた。
僕らの近くにいたクラスメイト数人がこちらに注目すると、蝋燭の火が灯るようにぼっと顔を赤くした千歳が俯く。
そんな千歳が、僕には愛しく思えて。
「……ありがとう」
僕がしみじみそう言うと、千歳は俯いたまま「う、うん」と応じた。
注目を浴びることに、お互いに慣れてないからだろう。
話はそこで、一度途切れた。鞄から筆記具やらノートやらを取り出しつつ、横目で千歳の様子を窺っていると、ふとあることに気付く。
夏祭り以来久しぶりに、千歳と顔を合わせた時。
僕は彼女の表情が、明るくなったのだと思っていた。
でも、それは微妙に違った。
千歳の表情は、以前とさほど変わらない。
表情が明るく見えるような、何かが施されていたのだ。
「……千歳、もしかして化粧してる?」
僕の言葉に、千歳がバッとこちらを振り向いた。
やばい、失言だったかな。
こういうのって、興味ない異性に指摘されても、キモいだけって聞くし。千歳は誰にも気付かれたくなくて、あえて薄く化粧したのかもしれないし。
「ごめん。なんかそう見えたような気がして、でも、気のせいだったかも……」
失態をカバーしようと言葉を重ねかけ、途中でやめた。
ほんのり頬を赤らめながら、「し、してるよ。化粧」と千歳が言ったから。
「あ、そうなんだ。……似合ってると思う、うん」
「ありがとう。……齋藤もその、髪、似合ってる」
「ど、どうも」
僕はお互いにしどろもどろになりながら、お互いを褒め合った。
なんだこの空間。幸せだけど、同時に「うぎゃあー!」と叫んで逃げ出してしまいたいような、恥ずかしさを孕んでもいた。
……でも、千歳が化粧、か。
「化粧したのは……何か、心境の変化があったり?」
千歳はこくりと頷いた。
「それってもしかして……好きな人、とか?」
千歳は一瞬固まってから、またこくりと頷いた。
——そっかー、好きな人かー。
遠い目をして現実逃避する僕に、今度は千歳が尋ねてくる。
「齋藤は……なんで美容室に行こうと思ったの?」
「……千歳と、同じ理由」
「……あ、そうなんだ」
千歳はそう言ったきり、それ以上僕に話しかけてこなかった。
僕も千歳に話しかけなかった。
* * *
始業式が終わった後。
まだ午前中ながら放課後を迎えた僕は、駐輪場に向かっていた。
酒井は部活があるらしく、帰りは一人になった。
自転車の前で鍵を出そうとポケットの中を探り、鍵がないことに気付いた。
どこかで落としたのだろうか。
探すのは少々面倒だけど、幸いにも今日は教室と体育館にしか行ってない。
そこまで大した手間じゃないはず。
とはいえ面倒なものは面倒だ。
少し気を落としてとぼとぼ歩き、教室に向かう。
道中、「それってもしかして……好きな人、とか?」と尋ねた時の千歳の顔を思い出した。更なるダメージを受けていると、教室の方から何やら女子の話し声が聞こえてくる。
「——ほ〜。さっきの——よ〜。もう——ちゃえば——そうなのに!」
「でも、——は、——な人いるって……」
「そんなの、———ことに——ってるでしょ! ——ぶだって!」
それほど大きな声じゃなかったので、肝心な部分はよく聞こえなかった。
考えごとをしてたせいか、誰が話しているのかにも気が回らず、遠慮なく教室の扉を開ける。
予想外なことに、そこには千歳がいた。
他にはクラスメイトの女子が二人、いずれも千歳の席周辺に固まっている。
僕の顔を見た千歳は、ぱっちりとした目を丸くした。
刹那の沈黙の後、完熟トマトのように顔を真っ赤にする。
千歳を囲んでいた女子たちが悲鳴のような声をあげ、教室を出て行った。
去り際、女子の片方が、「上手くやんなよ」と僕の肩を叩く。
……うん、流石にこれは気付く。
とはいえ、こんな形で知ることになろうとは。
まあ、ありがちっちゃありがちなのかもしれないけど。
しかし、千歳の好きな人って、そういうことだったのか。
だとしたら、今日のメイクも……。
「いやー、なんか、自転車の鍵を忘れちゃってさあ」
白々しく言いつつ、僕は自分の机に向かった。
必然的に、千歳に近づくことにもなる。
自然と心臓の音が、ばくばくと大きくなった。
努めて千歳を気にしないようにして、机の周辺をガサゴソ探していた。
すると、千歳が僕の脇腹をちょんちょん突いた。
そちらを向くと、彼女が涙目で僕を睨んでいる。
「……聞いてたでしょ、さっきの話」
「……聞こえなかったよ」
嘘は言ってない。でも、本当のことも言ってない。
確かに話は聞こえなかったが、中身は大体察してしまったからだ。
教室に入った時の、3人の反応で。
「……嘘。沙耶香たちの声、大きかったから、聞こえないわけない」
僕の答えなど求めてなかったのだろう。
千歳は拗ねるように言うと、机の上に突っ伏した。
まだガサゴソとやりながら、僕は言った。
「……今、鍵探してるからさ。ちょっと、待っててくれないかな?」
「……え?」
千歳が、みじろぎしたのが分かった。
僕はそれを横目で確認しつつ、こう続けた。
「いや、その、つまり……一緒に帰らないかってこと。もちろん、千歳が良ければだけど」
「……じゃあ、待ってる」
千歳は机に突っ伏したまま答えた。
表情は見えなかったけど、僕の勘違いじゃなければ——。
千歳の声は、いつもよりほんの少しだけ、跳ねているような気がした。
ジリジリと鳴く蝉の声が、遠くに聴こえる教室の中。
探し物はまもなく見つかった。
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