5 侮辱されたから怒り心頭なわけではありませんわ!
完璧な令嬢らしくもなく婚約者の前から逃げ出してしまったヒロイン。
だが、逃げ出したところで、ゴロツキにからまれてしまう! あやうし!
ヒロインはどうなってしまうのか!?
どう見ても、怪我のケの字もしていませんわね。
それに体つきからして、単なる素人の破落戸ですわ。
「報せても構いませんわよ。
マレーネ――いえ御主人様は奉公人だからと言って、言い分を聞かない人ではありませんわ。
あなたの怪我が本当かどうかもきちんとお調べになる方ですわよ」
事実ですわ。
彼女はいい加減で乱暴に見えて、その辺は公平ですの。
しかも、同郷の奉公人達を家族も同然と思っていますのよ。
たまに疑念はもちますが、彼女はわたくしの大切な友ですもの。
「制圧します?」
耳元から声がしましたわ。影の方ですわ。
わたくしは小さく首を振りました。
この程度の小物、対処できますわ。
「このペチャパイが! 人が下手にでりゃいい気になりやがって!
どっちが悪いか判らせてやる! おらっこっちへ来やがれ!」
破落戸はこちらへ腕を伸ばして来ましたわ。
手首を掴む気ですわね。随分と隙だらけで緩慢な動きですわ。
関節を決めてやろうかしら、それとも腕を掴んで放り投げてやろうかしら。
どれが一番効果的に痛みを与えられますかしら?
胸を侮辱されたから、怒り心頭なわけではありませんのよ?
「うっ、うあぁぁぁぁぁ!」
裏返り気味の情けない叫びが響き、
「うがぁぁぁっっ。なななにしやがるっ」
男の体が横に吹っ飛びましたわ。
「で、殿下っ」
殿下が、あの殿下が、体ごと男にぶつかってよろめかしましたわ。
こんなに必死なお姿を見たのは初めてですわ。
というか、転ばずに走れることもあるんですのね。
「こ、こっちへ!」
いきなり手を掴まれましたわ。
わたくしの手より大きいんですわね。
引っ張られるままに、わたくしもその場から逃げ出しましたわ。
正面から出るのかと思いきや。入り口とは反対の方角へ走って行きますわ。
行き止まりですわ!
ああ、やっぱり殿下はどこか抜けてますわ。
でも、あの程度の相手、わたくしなら、どうとでも処理できますが。
いきなり。目の前の壁が開きましたわ。
棚の一部が扉になっていたんですわね。
「「え?」」
殿下とわたくしは同時に驚きの声をあげましたわ。
わたくしはともかく、殿下はこれを知ってて走り出したのではないのですか?
わたくしは、予想外の事が起こってフリーズしているらしき殿下を促して、そこをくぐります。
殿下も気を取り直して走り出します。わたくしの事を引っ張っていきますわ。
わたくしは、引っ張られるままに、短い廊下を駆け抜け、もうひとつの扉を抜けて、狭い路地裏へ出ましたわ。
狭い路地から路地へ、わたくしは殿下に手を引かれて走って行きますわ。
走り慣れてないのか、殿下はひどく苦しそうな息で、何度もつまづいたり転びそうになりながら走り続けますわ。
転びそうになる寸前で、不自然に態勢を立て直すのは、多分、向こうの影の方が助けてくれているのでしょう。
さっき壁に隠れた扉が不意に開いたのも、同じ方の働きだったのですわね。
殿下に任せていたら、扉を開けるのに手間取ったかもしれませんから。
きっと、わたくしの知らないところで、殿下の身には何度も死の危険が迫っていたのでしょう。
そのたびに、殿下の影の方がお助けしていたのでしょうね……。
街の喧騒が徐々に遠ざかり。路地に響くのは、わたくし達の足音と呼吸だけ。
殿下とふたりで走ってますわ。
しかも、殿下の方が、わたくしより先を行っているなんて。
嘘みたいな光景ですわ。
明らかにわたくしの方が速く走れますけど……でも悪い気はしませんわ。
それに、社交で踊る以外、殿方に手を握られたのは初めてですわね。
こんなに不意打ちで手を握られたら。
普通なら、礼儀正しくかつ断固としてはねつけるところですわ。
凄い汗。
それに大した鍛えた感じがしない手ですわ。
それなのに妙に硬いペンだこが出来てますのね。
でも……不快じゃありませんわ。不思議ですわね。
そのまま幾つもの角を曲がって、裏通りを抜けると。
いきなり景色が開けましたわ。
「墓地……?」
な、なんで墓地ですの!?
というわけで第五話です。
まだ続きます。