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赤いワンピースの少女〜メイ

作者: 松浦照葉

 神様は諦めてはいなかった。まだまだ、人間の「やさしさ」には期待できるはずだ。私たちが創造した人類という種は、愚かな行為も繰り返しはするが、きっと全人類の心の中には、きっと「やさしさ」が息づいているはずなのだ。神様は、そう信じていた。これまで数百年に渡り繰り返しメッセージを出し続け、時には苦難を投げかけてきたが、人類は少しずつ、愚かな行為を悟るようになり徐々に平和な生活ができる国々が増えてきていた。一方、一つの国の中を見てみるとまだまだ犯罪の発生は後を絶っていない。どうしても「自分」という個人のみのことを考えてしまい他人を傷つけてしまう人間のなんと多いことか。神様は嘆いていた。どんなに罪を犯した人間でも、心の奥底には「やさしさ」を持っているに違いないと。それで、天国に導かれていく前の少女を神様の使いとして幾度となく人間界に代理として降臨させ、悪事をしている人間の心の中を浄化しようと試みてきた。しかし、これまで試みた少女たちは生前に持っていた気持ちを抑えることができず、ことごとく神様の意に反し、悪事を働いた人間の命を表面だけで判断して奪い去っていたのだ。何度も何度も同じことを繰り返しているが、人間は、生まれそして死に、転生する、そうやって進化していくものだ。だから、神様はいつの時代でも、少女に心を癒やす行為を託し続けていた。


 今回神様が選んだ少女は、十七歳の日本人だった。生前は、上流家庭に生まれ優しい両親のもとで育っていた。しかし、生まれつきの病弱な体質から17年間という生涯のほとんど全てに匹敵する時間を病院の個室のベッドで過ごした経験の持ち主だった。最後は合併症を引き起こし肺炎が悪化して亡くなってしまった。十八歳の誕生日まであと少しと言う時に息を引き取ったのだ。両親の悲しみは相当なもので、父親は仕事が手につかず母親も無気力になっていた。そんな様子をこの少女は空の上から見て涙していたのである。少女は生まれた時から体が弱いことがわかっていたため、両親は鎖のように強く生き抜く命であってほしいと想いを込め、名前を「命鎖(めいさ)」と付けた。それからは、ずっと「メイ」の愛称で呼ばれて育っていったのである。


 メイは病院のベッドにいる時でも明るさを忘れない子だった。自分より年下で入院している子供たちを可愛がり、共に笑い、共に泣き、時には見送ると言った時間を過ごしていた。通常の子供とは違う経験をして育っていたのである。心の純真さを最後まで失わずに真っ直ぐに人生を生き抜いた少女だった。まるで、天使のような心を持っている少女だったのだ。


 神様は、寿命が尽きてやってきたメイと会って、清らかな心を強く感じ、自分の代理として人間界に行ってもらおうと考えていたのだ。一方で戦争が始まっていることを神様は憂えてはいたが、そちらは戦争の悲惨さを知っている子の方がいいだろうと思い、メイは日本の中で日々怒っている悪い心の持ち主の浄化に関わってもらおうと考えた。以前は、複数の国での対応を一人の少女に依頼してしまったことが、その時の少女に混乱を招いたかもしれないと反省をしていたのだ。最近は、日本でも悲しい事件が増加している。少しでも悲しい事件や傷ましい事件が減ることを神様は期待した。


 神様はまさに天国への道を進もうとしている少女「メイ」を呼び止めた。

「メイ、ちょっとこちらに来なさい」

「はい、神様、ご用ですか。私はこれから天国に行かなければなりませんが」

「うむ。天国への旅は少し延期しよう」

「えっ、どういうことですか。私は天国に召してもらえないのですか」

「いやいや、そうではない。今回のようにメイが死んだときは両親も深く悲しむものということを見たであろう」

「はい、私も悲しくなりました。両親とは別れたくありませんでしたから」

「うむ、そうだな。同じように悲しんでいる人はたくさんいるのだ。同時に一方では悪いことをしている人もたくさんいる。私は、そんな人たちを一人でも多く救いたいと思っている。もちろん、死んでしまった人を蘇らせることはできないが、生きている人の心に安らぎを与え、その後の生き方を変えてあげることはできると思っている。そこで、メイにお願いしたいのだ。私の代わりに、しばらく人間界に戻って癒さなければならない人を見つけて助けてあげてほしいのだ。もちろん、罰を与えなければならない人もいるかもしれない。どうだ、頼まれてくれるかい」

「分かりました。どれほどのことができるか分かりませんが、お手伝いしたいと思います」

「よく言ってくれた、ありがとう。それでは、メイには私からの贈り物として、二つの力をささげることにする。右手には、人々の心や傷を癒す力を与え、左手には、人々の命を奪い取ってしまう力を与える。これは神の力なので、人間には見えない。なので、肘から先の右手は眩しく、左手は漆黒の闇のように人間には見えることになる。そして、重要なことは、右手より左手を使った行為が多くなった瞬間にメイに与えた力は消えてなくなる。そのことをしっかりと頭に入れて、これから直面することに対応して多くの人間を救ってあげてほしい」

「神様、分かりました。精一杯頑張ってみます。これまで生きていた時間を振り返りながら」

「よし、では行ってきなさい」


 メイは人間界に送られた。赤いワンピース、白い靴下、白い靴といった格好である。どんな季節であっても変わらない格好である。もちろん、メイ自体は暑さも寒さも感じないので問題はないが、すれ違う人々は稀有な視線をメイに投げかける。右手は神々しい光で見ることができず、左手は漆黒の闇でやはり見ることができない。気がつくと、メイは、日暮れの江戸川沿いの東京都側の遊歩道をゆっくりと歩いていた。この辺りは下町で一戸建てが多くもあるが、小さな工場も多い場所である。すると、どこからともなく男性の罵声が聞こえてきた。どうやら近くの工場で働いている若者のようだった。


「お前たちが来るから、俺たちの仕事が減るんだぞ、この疫病神たちめ。早く自分の国に帰っちまえよ」

「わたし、もう少し技術、必要。覚えて帰って両親、助けたい」

「そんなこと知るか。俺たちだって生きていかなくちゃならないんだよ。なんでお前らばかり優遇されるんだよ。全く腹が立つなぁ。なぁ、みんな、そうだろう」

「あっ、あぁ、そ、そうだな。仕事が無くなると困る。車のローンもあるし」

「おぅ、俺も困る。子供が生まれたばかりだしな。金がかかるんだよ」

「でも、この人たちも大変なんじゃないかな」

「あーっ、なんだよ、真二。こいつの肩を持つのか」

「いや、そんなことじゃないけど。一緒に仕事すればいいじゃないか。光一。」

「うるさい。俺は嫌なんだよ。こいつと仕事するのは」


 話している内容からすると、外国から働きにきた研修生に対する嫌がらせをしているようだ。一人は擁護しようとしているが、その場の空気は、光一というリーダー格の男のペースになってしまっている。ちょっと離れたところから様子を見ていたメイは同じ日本人として恥ずかしいという感情が湧いていた。どうして国が違うだけでいじめるのだろうと心が痛くなった。そして、みんなの心を優しくしてあげるにはどうすればいいかなと考えながら集団に近づいて行き、声をかけた。


「あのー、何してるんですか」

「ん、どうしたのお嬢ちゃん。早く帰らないともうすぐ日が暮れるよ」

「私には、その人をいじめているように見えたんですけど」

「はぁ、いつ俺たちがいじめたっていうんだよ。おい、お前、いじめられたか、俺たちに。正直に言ってやれよ。このお嬢ちゃんに」

「い、いえ。わたし、いじめられてない。みんなで遊んでただけ」

「ほらな、遊んでただけだよ」

「そうなんですね。よかった。お兄さんたちが優しい人で」


 そう言って、メイはリーダー格の光一の手を取った。メイは無意識のうちに両手で触れていた。途端に不思議なことが起こっていた。光一の心の中では優しさが増幅し、(ねた)みや(いか)りや(ずる)さがほとんど消え去ってしまったのだ。メイの持っている相反する力が一つになって作用したようだった。右手の力をもって癒やすことにより本来持っていたやさしさが増幅されて大きくなり善の心が膨れ上がった。そして、左手の力はそれだけだと命を絶ってしまうのだが、右手が触れているので、善の心を妨げる心の部分を小さくする作用に変わったようだった。もしかすると、善ではない心の部分を消し去ったのかも知れない。メイが手を離した途端に光一の態度が変わった。


 「あれ、俺、なんでこんなことしてるんだ。おい、クオン。なんか、酷いこといったような気がするけど、本心じゃないからな。ごめんな。お前が羨ましかっただけなんだよ。おれにはもう両親もいないし、お前みたいに仕送りとかできないんだよな。だからちょっと当たってしまったんだ、ごめんな」

「光一さん、ありがと。わたし、うれしい。日本人、やっばりやさしい」

「あれ、光一、どうしたんだよ。さっきと全然違うじゃん」

「いいんだよ、違ったって。今が正しいんだよ。つべこべいうな。クオンと仲良くしてやれ。なぁ、真二」

「そうだね。国籍なんて関係ないよ。僕たちは仲間なんだから」


 一瞬にして、その場の雰囲気が一蹴されて、楽しく明るいものとなった。メイも気づかずに起こったことだったが、メイはこうすれば悪いことをしている人もある程度助けらるのかもしれないと感じていた。


「ところで、お嬢ちゃん。お嬢ちゃんの手、よく見えないんだけどどうしたの」

「少し、病気なんです、私。みんなからは手が見えにくいかもしれませんけどちゃんと付いているので大丈夫ですよ」

「へー、そうなんだ。まぁ、そんなことはどうでもいいけど。早く帰りな。暗くなっちまうぞ」

「はい、そうします。では、さようなら」


 メイはその場はもうこれで大丈夫だろうと思い、足早に立ち去っていった。そして、歩きながら考えていた。「今回初めて力を使ったわ。でもよく考えてみれば、何かが起きてから力を使ったのではなく、悪いことが起きる前に遭遇したから悪い結果になることを食い止められたんじゃないのかしら。これからもそうしたいな」メイは、最初の仕事をうまくやったという実感を味わっていた。


 それから四日後、江戸川で水死体が見つかった。暴行を受けて川に遺棄されたようだった。それはクオンの変わり果てた姿に他ならなかった。工場内は捜査員でごった返ししていて光一たちも事情聴取を受けていた。以前は、激しく罵っていたという情報もあり、殺人の候補として光一は警察からマークされていたようだ。街頭のニュースで事件を知ったメイは、自分が助けたと思っていた光一とクオンだっただけにショックを受けた。「一体何があったのかしら」メイは心の中で繰り返していた。


☆ ☆ ☆


 二日前、クオンはいつも通り、工場で働いていた。工場には、クオンの他にズン、フォンという名前の同じベトナムからきた研修生二人も働いていた。みんな実家に仕送りしながら、技術を身につけるために日本に来ていたのだ。この三人は常に日本人の社員からいじめられていた。そこで、クオンは考え、自分が代表していじめられてやるからその分の報酬を前金という形で他の二人から巻き上げていたのだった。しかし、メイの出現によって、いじめが解消され光一の言動が一変してしまったことを受け、ズンとフォンは、リーダーのクオンに対し前払していた「いじめの肩代わり料」を返せと迫った。しかし、クオンは「一度もらったものは返せない。今後もまたいじめがあるかもしれない。保険料だと思え」と説明していたようだ。しかし、一年分を前払していたので、二人にとってはそれなりに大きな金額だった。そして、それ以外にも、クオンに対する不満は募っていたようだった。


 仕事に対しても率先して対応するそぶりをクオンはいつも見せていた。自分達が習得しなければならない機械操作の技術はほとんどクオンが担当していたのだった。ズンとフォンはこのまま国に帰ったとしても、クオンから教えてもらわないと自分達だけでは何もできないかもしれないと思っていた。このことをクオンに何度も進言したが、「それはお前たちの問題だ」とだけ言われて変わることはなかった。こんなことが積み重なっている時に、光一の対応が変化したのだった。それで、ズンとフォンは頼る人もいないので光一に相談をしたのだった。相談を受けた光一は、優しさあふれる心の持ち主になっていたので、二人に言った。


「きっと、クオンにもなんらかの理由があるかもしれないな。同じ国の人間なんだから、もう少しお互いに歩み寄って話をしてみた方がいいよ。それにな、みんなに謝らないといけないことがあるんだよ。クオンから持ちかけられていじめていたふりをしてたんだよ。本当にごめん。クオンからもらったお金は、全部返しておいたよ。多分、二人からとってたんじゃないか、お金。だから、ちゃんと返してもらってくれ」


 予想外のことまで言われて、ズンとフオンの二人は、「もう、自分達でなんとかするしかない。頼れる人はいなくなってしまった。しかも、クオンは何てひどいやつなんだ。絶対許せない」と決意を固めるに至った。全ては祖国にいる家族のためだと言い聞かせることで自分達を正当化しようとしていた。


 翌日、ズンとフォンは、夕方仕事が終わってからクオンを江戸川の河川敷に呼び出した。夕暮れ時となり、人影もまばらになっていた。グランドの端っこには背の高い草が茂っていてちょっと見通しが悪くなっている場所があった。その近くで、ズンとフォンはクオンに詰め寄った。


「おい、クオン。今まで僕たちを騙していたな」ズンが詰め寄った。

「えっ、一体なんのことかさっぱりわからないんだけど」

「僕たちからとっていたお金は、光一さんと結託していただけじゃないか。いじめなんてなかったんだろ」

「ちっ、バレちまったのか。なんだかあの時から光一さんの様子がおかしかったから心配はしていたんだけど」

「光一さんからもお金を返してもらったんだろ。それを含めて僕たちから巻き上げたお金全部返せ」

「おいおい、光一さんからは返してもらってないし、お前たちからは報酬としてもらった金だから返せないね」

「もう、全てがわかってるんだよ。正直になれよ」フォンが切り出した。

「さぁ、分からないな。二人の思い違いじゃないの」


 思い詰めたズンとフォンは、怒りに任せてクオンに襲い掛かった。クオンの体は背の高い草むらの中に倒れ込んでいき周りからは見えなくなった。とっさに、ズンとフォンは、クオンに対し殴る蹴るの暴行を繰り返してしまった。そして、蹴った場所が悪かったのか、クオンはうずくまったまま動かなくなってしまった。それでも、執拗に吐口のない怒りをクオンにぶつけ続けた。お金を取られなければ国で暮らす家族はもう少し楽な生活を送ることができたと思うとどうしても許すことができなかった。その時は、怒りの感情の方が強すぎて、制御できなかった。しばらくして、うめき声もしなくなり、二人はことの重大さにやっと気づいた。


「まずい、死んでるよ。僕たちが殺してしまった。どうしよう、フォン」

「えっ、死んだ。そんなつもりじゃなかったのに。ちょっと懲らしめようと思っただけなのに。死んじゃった」

「仕方ない。そっと川に流してしまおう。海に流れていってくれるかもしれない」


 二人は、呆然としていたが、ふと我に返り周りを見渡した。クオンの死体を川に流した頃はすでに日が沈んであたりは薄暗くなってきていた。けたたましい音を立てて疾走する水上バイクも一台もいなくなっていた。誰も見ているような気配はない。二人は自分達がしたことを少し悔いていた。水の中に流したあと、しばらく手を合わせて工場の寮に何事もなかったかのように戻っていった。そして、翌日になって、クオンが外出したまま帰ってこないと工場の担当者に伝えた。工場側は夕方まで様子を見ていたが、帰る気配がないので捜索願いを警察に提出した。


 二人は怒りに任せてクオンに暴行を加え、死に至らしめてしまったが、この二人はクオンの家族のことは何も知らなかった。クオンの家族には肺の手術を受けないと死んでしまう小さな妹がいた。その手術代を捻出するために自分の生活はギリギリまで落として、手元のお金は全て家族に送金していたのである。もちろん、良からぬ悪巧みで稼いだ「いじめに対する報酬」も例外ではなかった。その甲斐があって、妹は無事手術で肺の悪い部分を切除して命を永らえることができたのだった。ズンとフォンはこのことを後になって知ることになる。


☆ ☆ ☆


 ニュースでは、社員によるいじめがあったのではないかということが取り沙汰されている。ベトナムから一緒に研修生としてやってきていた他の二人から、社員からのいじめが酷かったという証言がマスコミに流れていた。光一は、やらせだったにしろ、周りから見ればいじめに見えるように振る舞っていたので、「はい、いじめに見えるような行為を行っていました」と事実を話していた。しかし、光一が殺したという証拠が見つからず、状況証拠のみで検察側は立件しようとしていたのだ。その報道を耳にしたメイは、「おかしい」と直感で思った。


「怒りや妬みなどの心はものすごく小さくなっているはずなのに、あの後で殺人という残虐な行為を犯すなんてことはありえない。何か、私の知らない事実があるんだわ。もう一度訪ねてみようかしら。でも、私が余計なことをしたから光一という人は疑われてしまったのよね。どうしたらいいのかしら。どうすれば本当に人の心を助けることができるのかしら」メイは悩んだ。表面的なところばかりを見ていても人の心は救えないということを最初の仕事で知ってしまったのだった。


 人の行動と考えていることの違い、心の中の動きがこんなにも複雑なんだということをメイは感じていた。メイ自身は素直に成長した経験しか持っていないため、人を騙すとか恨むとかといった経験がなかった。メイの短い人生経験の中ではありえない出来事に遭遇しているわけである。しかし、それでもメイはなんとかして人々の心を助けなければと考えていた。心の中を読む力は神様から授かってはいない。ただ、癒すか奪うかの力だけを授かったのだ。メイは考えた。「少なくとも、右手で触れば善の心が増幅され、左手でさわれば悪の心が小さくなる。そして、両手で触った時は、善の増幅が最初に作用し悪の心を滅亡させる作用が働くみたいね。注意することは左手だけでさわったら、命を奪ってしまう結果になるということね。でも、通りすがりで状況を正しく判断して対処することはむずかしいわ。どうしたらいいんだろう」


 メイの陥った悩みはごく自然なことだった。今回の件も、メイの対応を見ている人がいたとしたら、称賛しているだろう。そのくらい、人の心は大人になるにつれ複雑になるのだった。真っ直ぐに生きてきたメイには理解できないし、想像もできないことだった。しかし、これまでの赤いワンピースの少女との違いは、左手だけを使おうという意志が全くないというところだった。これは、神様の思惑通りかもしれない。力を与えてもらったが、メイは単独で左手を使うことを全く想像すらしていなかった。どんな理由があるにせよ、人の命を奪うという行為のほうが愚かであると考えていたからだ。


 しかし、今回は助けたつもりだったのが、それが原因で死んでしまうことになったため、メイの頭は混乱していたのだ。「でも、あの時遭遇したなかでは、左手だけを使う相手はいなかった。それは間違いない。じゃあ、なぜこんなことになったの」


 メイははっとした。「先入観ね。病院にいた時学んだことがあったわ。偏った考え方で物事に対処してしまうと、ミスをまねくことがあると。あの時は、光一のみが悪いと無意識に思ってしまったわ。クオンに対しても右手を差し出すべきだったのね。そして、両手で包んであげていれば最悪の結果には繋がらなかったのかもしれない」メイが出した一つの結論だった。メイは、争いごとなどには必ず相手が存在していて、どちらの心も癒してあげることが必要なのだということを今回の件で学んだ。できることなら当事者全員を癒やしてあげられるのならば、それが一番いいのかもしれない。メイはもう少し警察の捜査を見守ることにした。


 数日経った時、クオンが勤めていた工場に一通の手紙が届いた。工場側はちょっと迷ったが、同僚だったズンとフォンに渡して内容を確認してくれるように依頼した。クオンの家族への連絡は、電話で既に済んでいたが、おそらくその電話の前に投函された手紙だったのだろう。消印を確認するとクオンが水死体となって見つかった日になっていた。手紙を受け取ったズンとフォンは、罪悪感を抱きながらも開封した。ズンとフォンはクオンの家庭環境をほとんど知らない。二人は静かに手紙に目を落とした。


「おにいちゃんへ 

 おにいちゃん、元気で働いてますか。わたしは、おにいちゃんが送ってくれたお金で手術をすることができました。手術は成功です。間に合いました。肺の悪かった部分は切り取られて激しい運動はできないけど普段の生活は問題なくできるようになるそうです。全部、お兄ちゃんのおかげです。遠いところに出稼ぎに行ってくれてありがとう。お父さんもお母さんも喜んでくれたわ。今度帰ってきたら私の作った料理をごちそうするから楽しみにしていてね。次はお兄ちゃんの希望を叶える番だね。こっちでお兄ちゃんが作る工場が楽しみだな。今一緒に働いているお友達と一緒につくるんでしょ。出稼ぎしなくてもいいようになるといいね。 チュン」


 読み終えた時、二人の後悔の気持ちはさらに大きくなった。クオンが妹の手術費用を送るために頑張っていたんだということを理解した。そして、手術の期限もありなんとか早くお金を工面しようとしていたんだということもわかった。それに加えて、自分達と一緒にベトナムに工場を作ろうとしていたということも初めて知った。二人は、妹からの手紙を持ったまま泣き崩れた。知らなかったとはいえ、お互いに知る努力もしなかったことを大きく後悔していた。そして、今頃ベトナムのクオンの家族は訃報を聞いて悲しみにくれていることを想像すると、更にたまらなくなり、ズンは「自首しよう」とフォンの腕を掴んで訴えた。「解った。自首しよう」とフォンも返した。このまま知らない顔で生きていたら一生後悔することになる。そう考えた二人は翌日、警察に出頭した。


 該当のテレビニュースでは、ベトナム研修生殺害の事件解決が報道されていた。参考人として調べられていた光一は解放され、ズンとフォンが自首したことにより、一気に解決となったことが伝えられていた。同時に、クオンの妹からの手紙も公開されていた。ニュースを見ている人の大半はクオンに同情していた。メイは思った。「クオンももっと自分の心に素直になれば変わっていたのに。もっと、みんなに打ち明けていればよかったのに。私がクオンに触っていればよかったのかしら。そうすれば変わっていたのかしら」


 メイは、少し考えた後、事件が起きた工場へと足を運んでみた。そこでは、工場の経営者らしき人と光一たちが集まって話をしていた。


「全くひどいことになったもんだな。こんなことなら研修生なんて受け入れなければよかったな。我々が悪いようなことまで言われてしまったしな」

「しかし、社長がもう少し給与を出していればよかったんじゃないですか」

「なんだと。その時は、お前たちの給与を下げることになるんだぞ。それでもよかったのか」

「我々も、そんなにもらっていないから、それはそれで困りますけど」

「今は、不況で金が回らないんだよ。雇ってやってるだけありがたく思えよ」

「そ、それは、一応感謝してますけど。俺たちみたいなものを雇ってくれて」


 少し離れたところで話を聞いていたメイは、この社長と呼ばれている人がもっと優しさを持っていてくれればよかったんじゃないかと考えていた。そもそもの発端はこの社長だったのかもしれないと思い始めた。働いている人たちに対する思いやりが少ないように見えた。安い給与で働かされていたクオン、ズン、フォンそれに光一たちも被害者だったのかも知れない。メイは今回は慎重になっていた。経営者の心の内をきちんと知ってから対応したいと考えていたのだ。その矢先、国税の調査官が経営者のところにやってきて質問していた。


「経営者の上内(あげない)さんですか」

「えっ、はい、そうですが。なんですか。私は今回ひどい目に合ったんですよ」

「えぇ、そうでしたね。ただ、少し確認をさせてください。海外からの研修生として受け入れられていたわけですが、基本賃金の安さと時間外手当の未払いがあるようなので、少し調べさせていただきたいと思います。また、雇用調整助成金も申請され受給されていますが、社員の方に確認したところ、研修などは一切受けていないと報告を受けています。この辺りも調べさせていただきたいと思います」

「あっ、いや、その、悪いことはしていません。本当です。設備とか光熱費とかが大変で資金繰りが厳しいんです」

「その割には、上内さんの個人資産は結構ありますよね」

「いや、それは一生懸命働いているわけですから」


 このやりとりを聞いていたメイは、ひとりでうなづいた。この経営者の強欲な心が結果的に複数の人々を追い込んでいったのだと確信した。国税の調査員が屋内に入りパソコンや帳簿類を調べ始めたのを確認して、メイは上内に近づいた。


「こんにちは」

「ん、誰だお前は。今、忙しいんだ。用がないならとっとと消えろ」

「言われなくても、消えます。あなたの心を癒やしたら」


 そう言って、上内の両手を掴んだ。「もし、この人に少しでも優しい心が残っていれば、命がなくなることは無いだろう」手を掴みながらメイは祈っていた。途端に、上内は地面に膝をついて崩れ落ちた。上内の心の中に僅かに残っていた良心が増幅され心の中がやさしさや思いやりで満たされた。同時に、これまで搾取しながら強欲にお金を着服していた行為を反省し、社員や研修生に辛く当たっていたことを認識し、自分で自分が許せない気持ちになっていた。メイは静かに声をかけた。


「上内さん、これまでの行いは決してやさしさの表れではありませんでしたね。でも、そのことをしっかり認識されたことだと思います。本当はどうすべきだったのかということも。でも、まだあなたにはたくさん時間があります。これから、社員の方々のためにあなたの時間と資産を使ってあげてくださいね」

「あぁ、私はいつからこんな強欲になってしまったんだろう。みんなに申し訳ない。本当に申し訳ない。自分の財産を積み上げることだけを考えてしまっていたな。まずは、今来ている国税の人に正直に話して綺麗な会社にしよう。そして、社員と共に生きていけるようにしていこう。研修生の家族にもなんとか支援をしていこう。もう一度、やり直してみることにするよ。お嬢さん、私の心を救ってくれてありがとう。本当にありがとう、やっと目が覚めたみたいだ」


 メイは、人々の心を救うことの難しさを知った。同時に権力を持っている人の心が優しさで満ち溢れることの大切さも知ることができた。神様は今回のことの成り行きを静かに見守っていた。そして、これまでのどの少女よりも丁寧な対応をしてくれていると感じていた。やはり、世間に出ることがないままに亡くなってしまったことが、人々の心を素直に受け止められるのだろう。神様は、大いに満足し期待以上の行いをしてくれたメイの活動をもう少しの間見守ることにした。きっと、いろんな場所で良い癒やしを施してくれることだろう。


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