#1-9 舞い降りる暴威
エレーナは不機嫌だった。
「もう! 心の底から信じられませんわ!
下等異界から来た平民に過ぎないと分かってはおりましたけれど、勇者があんなに野蛮だったなんて!
おまけにシャーロットを連れてマキウスへ出かけるだなんて! あの傷物をそんなに気に入っていたの? そんなお話、お父様からは聞いておりませんわ!」
可愛らしい白塗りの箱馬車は、王家が所有する森の小道を進む。
命の色に染まった春の森は豊かで、鳥が歌い、時折小道をリスなどが横切る。
木漏れ日が輝き差し込む車内にて、エレーナは景色を見ることもなく鬱憤をぶちまけていた。
「お陰で私はお世話係になるなり手が空いてしまいましたわ!
……ねえ、お母様。聞いていらっしゃいますの!?」
「まあまあ、エレーナ。よいではありませんの」
対面に座るノーラは、エレーナと対照的に悠々としたものだ。
ジョーゼフ王の正室であるノーラは既に40の歳も近いが、幼少のみぎりより今日に至るまで磨きに磨き続けた身体は衰えを見せることもなく、未だ目を見張るほどに美しかった。
緩くパーマを掛けた濃紫の髪は艶やかで、珠の肌は輝かしく、面立ちは蠱惑的でありながら媚びるような色が無い。
ノーラは、己の為すべき事をよく理解している女だった。
人は宝石のように、磨けば磨くほどに光るものであり、そのための時間と金は無限にあった。
下々の民は存外単純なもので、上に立つ者が美しければそれだけで喜んで付き従い、多少の不満は引っ込めるものだ。お家の領土を(今はこの国全てを)安んじるための代価と考えれば、これは極めて効率の良い取引だ。
貴き身分の男たちもそれに通じる部分があり、若い頃から美貌で名を馳せたノーラをジョーゼフは娶り妃とした。実家の侯爵家にとっても大変喜ばしいことだ。
美しさは外交にも力を発揮する。賓客をもてなすのは正室の役目なのだから。
詰まるところノーラは、その美しさによって国に奉仕し民草を導くことを己が使命と定めた女だった。
その哲学はそのまま娘たちにも引き継がれている。
「もし勇者様に本当に見る目があるのなら最後は貴方を選ぶことでしょうし、仮にそうでなかったとしたら、勇者様はその程度の御方に過ぎなかったということですわ」
「そう……ですわね」
「あの野良犬の娘のことなど考えて心を乱すのはおやめなさい。心穏やかであらねば、肌を損ないますよ」
実際のところノーラは、エレーナがエルテを虜にするものと思っていた。
魔王と戦う旅の中で世界の美女を見てきたであろうエルテにエレーナの美しさが通用するかと言われれば確かに容易くはなかろうが、少なくともシャーロットに負けることだけはあり得ないと。
許しがたきは野良犬の如き、美しくもなければ王子も産めなかった側室。
辺境の有力貴族を繋ぎ止めるためだけに迎えられた、身繕いもそこそこに書を(しかも学問ですらない物語本を!)嗜むばかりの分からず屋。
彼女が病没した時、国家のためにはかえって良かったとノーラは思ったものだ。
その忘れ形見であるシャーロットは……せめて娘はまともであれと諦めずノーラは教育した。だが彼女はノーラの教えを理解することもなく、あの日『傷物』となり、ノーラは彼女を見捨てた。野良犬の子はやはり、野良犬に過ぎなかったのだと。
嫌なことは意識から消し去るに限る。
悩みは美しさの敵なのだから。
「それよりも、この遠乗りを楽しみましょう。
美しい景色を見て、鳥たちの歌声を聞けば、嫌なことなど忘れ……」
言いかけた瞬間に馬車が大きく揺さぶられ、ノーラは舌を噛みそうになった。
「……何をしているのです、もっと慎重に馬車を操りなさい!
私やお母様の身体に傷が付くようなことがあれば……」
エレーナは即座に御者席との間にあるのぞき窓を開け、叱責した。
「……首を……」
力無く背もたれに身を預けた御者の服は鮮血にまみれ、首から上は存在しなかった。
皮膜の翼とクチバシのように張り出た口を持つ翼竜が鋭い爪で馬車に取り付き、御者の首を食いちぎっていた。
「き、きゃあああああっ!?」
エレーナの悲鳴に被せるように、にわか雨のような騒々しい音が天より降ってきた。
それは全て、強大な生物の羽ばたきの音だった。
「ドラゴン!?」
戦場を知らぬノーラにとっては、空を埋め尽くすほどに思われた。
大きさも形も様々。
ただ、とにかくそれは数が多かった。
コウモリのようなひょろりとしたものから、よく絵画に描かれる禍々しくも逞しいものまで。
大きな翼竜の背からは、二足歩行するトカゲのような小型の走竜が次々と飛び降りる。
遠乗りの護衛をしていた騎士たちが即座に剣を抜いて立ち向かうが、上空から次々と急降下して飛びかかってくる翼竜を切り払っているうち、走竜に蹴倒され、噛み裂かれる。
王族の警護を務める近衛騎士は精鋭揃い。皆、倒れるまでに四頭も五頭も竜を殺していたが、ただただ敵の数が多かった。
何が起こっているかも分からぬままに辺りは血の海になり、10人から居た護衛は全滅した。
ノーラは迫り来る死の予感に慄然としながらも、最適な行動を取った。
馬車ののぞき窓を閉じ、窓と扉に錠が下りていることを確認し、壁から離れて馬車の中央でエレーナと抱き合ったのだ。
「ゴアアアアアアア!!」
「ひっ……!」
竜の咆哮が天に轟き、衝撃が馬車を揺らす。
貴人を乗せる馬車はそう簡単に破壊されるようなチャチな造りではないのだが、竜の膂力を相手にどれだけ耐えられるかは不明だ。
翼竜が窓から馬車を覗き込み、鼻面を思いっきり窓に打ち付ける。窓ガラスには蜘蛛の巣のようなヒビが入った。
ミシ、ミシと嫌な音がして。
呑気な木漏れ日があり得ない場所から差し込み、ノーラははっと顔を上げる。
馬車の屋根がめくられている。鋭い爪が差し挟まれ、力尽くでこじ開けられているのだ。
「い、嫌……!」
蛇のようだが、それよりも数段凶悪な目が、めくられた天井の隙間から二人を見下ろした直後。
竜の首は刎ね飛ばされて、首の断面だけが二人を見下ろしていた。
◇
ひとっ飛びに馬車を飛び越えながら、取り付いていた竜を斬ったエルテは、着地するなり両足と片手で地面を削りながらブレーキを掛ける。無駄に巨大な胸部が揺れ、まだ慣れないスカートがマントのように翻った。
「王族狙いか……? だとしたら仕事が早いことだ。
どっから攻めてきたか、目的は何なのか聞きたいところだが、人語を理解するほど頭のいい種族は居なさそうだな」
「勇者様!! 助けに来てくださったのですね!」
エルテの存在を確認するなり、ノーラは馬車から飛び出してきた。
まず自分の姿を見せて感謝の念を示すことが大切だと判断したのかも知れないが、いくら屋根を失ったと言っても馬車の中に居た方が安全だと思うので、エルテとしてはじっとしていてほしかった。
「……ご無事でしたか。
今しばらく、そちらでじっとしていてくれますか。守りは俺が引き受けます」
ノーラを庇いながら、エルテは彼女を馬車に押し戻す。
それから馬車の残骸に飛び乗って聖剣を打ち振るい、包囲する竜たちを睨め回した。
「近衛騎士団は……」
「今、応援がこちらに向かっています。じき到着するでしょう」
人族の領域、魔族の領域、未開の領域、竜の勢力圏……
世界は割と綺麗に色分けされていて、このガンドラ王国は竜種の縄張りから近くも遠くもない。
こんな場所まで竜が飛んでくれば、道中で観測されるのも当然で、疾風の如き奇襲にも騎士団は即応した。
それさえ追い越して駆けつけたのが、隣国から帰ってきたところだったエルテと、もう一人。
「もっとも、応援は必要無いかも知れませんが」
「あれは……」
竜たちに対峙する、小柄な人影があった。
「制御術式刻印……【甲種剣兵】型式2.17.3」
赤銅色の髪と、歯車の錆みたいな色をした革のワンピースをなびかせて。
――『お姉様が腕を失ったのは10年前のことでしたわ』――
左手の指ぬき手袋から飛び出した三本の義指。
サンダルを脱ぎ捨て裸足の義足。
剥き出しの右腕は全体が作り物で、腹回りも露出があり、右脇腹は金属的に輝く。
二の腕の端子に突き刺さった記録媒体には『甲種剣兵』の文字。
彼女はそれを取り外し、ホルスターのような腰部のベルトポーチに収めた。
「……抜剣!」
シャーロットが声を上げると、彼女の右手肘から小指に掛けてが、細く帯のような青白い光を噴いた。
噴出する光は、シャーロットの指先を離れて三倍近い長さまで伸びていく。
――『使えもしない剣を手にして、魔物に立ち向かっていったのです』――
その姿はまるで、側腕に長大な光の刃を括り付けたようだった。