#3-5 悪夢
マイクロバスは蛇行しながら異常な速度で走行していた。
運転免許を持っていない高校生にだって、異常な運転がなされていることは窓の外を見れば分かる。
「きゃああっ!」
車内は大きく揺さぶられ、荷物の崩れる音と共に全体的に甲高い悲鳴が上がった。
「やばいやばいやばい!」
「蛇行してる! 蛇行してるよ!」
「運転手どうかしてない!?」
砂片二高の吹奏楽部員たちが乗ったマイクロバスは暴走状態だった。
運転手の男は大きなハンドルにぐったりと頭を預けている。体重はしっかりとアクセルに乗っていて、必然的にバスはぐんぐん加速していた。
止めどないお喋りは悲鳴に転じ、食べかけのお菓子が床に散る。
「警察! 救急車!」
「け、警察何番だっけ」
「スマホスマホ!」
てんやわんやのパニック状態になった車内で、運転手に一番近い補助席に座っていた亞留斗は……もちろん自身も『死』の可能性をまじまじと感じて全身こわばっていくように感じていたが、幸いにも『バスをどうにか止める』という解決策に思い至ることができた。
――ブレーキ!
運転経験はゼロだが、アクセルの隣にブレーキがある事くらい流石に知っている。
脱力した運転手の巨体を無理やり引き起こし、その足下にあるペダルを確認した亞留斗は、まずアクセルをべた踏みしている足を横から蹴っ飛ばしてどかした。
そして、ブレーキを踏もうとした時だった。
――トラックが……!?
大きなフロントガラス目がけ、巨大な壁が迫ってくる。
左側車線に路上駐車して休憩している長距離トラック。
田舎や郊外の車線が多い道路ではよく見る光景だ。
その巨体に、この小さなマイクロバスが猛スピードでぶつかればどんな目に遭うかなんて、火を見るより明らかだ。
――ダメだ、このままじゃ……!
必死だった。
余計なことを考えている余裕なんて無かった。
ブレーキを踏んだ。
スピードが落ちかけた瞬間、想像以上に身体を揺さぶられて亞留斗は運転席脇に身体をぶつける。
ハンドルに齧り付いて身体を支える。
余裕が無い。トラックが迫る。
ブレーキを踏みながら亞留斗はハンドルを切る。
その瞬間、背筋が冷たくなった。
この後どうなるか、亞留斗は覚えている。
「う、うわああああっ!」
強烈な遠心力、そして衝撃。
亞留斗は横方向に吹っ飛ばされて助手席の背もたれに叩き付けられた。
何か大きな音がして、それからバスはまた揺れ、完全に止まった。
「い、いててて……」
肩を押さえながら亞留斗は立ち上がる。
打ち付けてしまった場所が深く響くように痛んだ。
停車中のトラックを回避したバスは、何かにぶつかった後、低速で中央分離帯に頭を突っ込んで止まっていた。
衝撃で薙ぎ倒された部員たちは、こわごわ身を起こす。
「助かったあ……」
「私生きてるよね?」
「すごい、すごかった! 結城君が運転席に飛びついて!」
「命の恩人だわ」
「運転手大丈夫?」
皆、まだ震えている声で、先程までの死の恐怖を引きずって興奮気味だ。
そんな中、亞留斗は一人焦燥に焼かれていた。
「みんな大丈夫か? ……叔母さんは?」
亞留斗は体に鞭打って手動で扉を開け、マイクロバスを飛び出した。
そこに何があるか、亞留斗は覚えている。
急ハンドルを切ったマイクロバスは、隣の車線を走っていた乗用車の側面にタックルをぶちかまし、横転させつつ反対車線まで弾き飛ばしていた。
そこに対向車線を走っていたトラックが突っ込んだのだ。
ひしゃげた車内には押し潰されて血まみれの女が……
「亞留斗」
居なかった。
車は対向車線に押し出されているが無事だった。
積まれていた荷物はどうなっているか分からないが、運転者は無事だった。
スクラップ化した車を既に這い出していた彼女は、亞留斗を出迎える。
30代半ばほどの女性だ。
ほっそりとした身体つきで、どこかスタイリッシュな印象だが、濃緑のジャージがなんか色々とぶち壊している。休日の部活などに参加する時、彼女はいつもこのスタイルだった。
峰浦巴。亞留斗の叔母。
亞留斗を自分の所有物としか思っていない実母から引き離し、小学五年生の時から母親代わりとして亞留斗を預かっている。
今現在、亞留斗が通っている高校の教諭であり、亞留斗が所属する吹奏楽部の顧問であり、彼女はこの日……
「よくやったわね。叔母さん、見直しちゃった」
「違う」
心臓が冷たく脈打つのを感じながら亞留斗は言った。
「叔母さんは死んだはずだ。この事故で死んだんだ」
霧が晴れるように、記憶と記憶が結びつき、亞留斗は状況を理解し始めていた。
これはあり得ざる過去の幻影。
都合の良すぎる夢……
「……お前か、フリーダ」
世界が色褪せた。
目に映る景色の全てが芝居の書き割りのように現実感を喪失していく。
CGのテクスチャが剥げ落ちるかのように巴の姿は消えていき、代わりにその場所に立っていたのは金髪ロングに前髪パッツン、黒縁眼鏡に黒スーツのサキュバスだった。
サキュバスは性的な側面ばかりが語られるが(そしてそれは間違いではないのだが)、元はと言えば『眠っている男性と交わる魔物』だ。彼女らは夢を操る力があり、夢の中で犠牲者と交わるのだという。
エルテはあの地獄のような会議が終わった後、晩餐会に参加して、そして超豪華なベッドに潜り込んだはずだ。
そして、その後、どうも繋がりが曖昧なままこんな場所にいるとなれば、まあポアロやホームズでなくてもフリーダの関与は想像が付く。
「ごめんなさい。少し、邪魔が入らない場所で話したかったんです。
これはあなたの夢に侵入するための方便でした」
「方便?」
「……サキュバスは夢魔とも呼ばれ、理想の異性の姿となって夢に忍び込む力を持ちます。
本来それは夢の中で交わることで精気を奪い、快楽で骨抜きにしたり衰弱させて殺すことを目的とするためですが……」
弁明しながらもフリーダは、どこか腑に落ちぬような顔をしていた。
「これはどういうことですか。
私はあなたにこの夢しか見せられず、この姿にしかなれなかった」
「理想の異性……? 叔母さんが?」
「まさか違うでしょう。
もちろん年上趣味の男も居ますが、色気の欠片も無いこの夢は違います」
この最悪の記憶をグロテスクな改変とともに再現したのは何のつもりかとエルテは思ったのだが、どうも彼女の意図ではないらしい。
フリーダは眼鏡を掛け直し、寄せた眉根に力を込める。
「この惨状を見ては一介のサキュバスとして看過できません。
……勇者エルテ。あなたは恋だの愛だのという感情を自ら縛っている。単に余裕が無いのか、罪の意識からか。
そして救われぬ過去の亡霊を救おうと、彼女……叔母と言っていましたか。彼女を他の者に重ねている。『助けること』が、あなたの中で『愛』とすり替わっている」
焼け火箸で胸を突き刺されたような気分だった。
その言葉は叱責だった。
エルテはほんの一瞬、言い返そうとした。
それから、徐々に彼女の言葉が的を射ているのだと納得した。
わけの分からないモヤモヤした気持ちがエルテの中に渦巻いていた。
あんまりな指摘に腹が立ったりして、しかしそれが正鵠であるために反発すること自体躊躇われたり。何故それが分かったのかという戸惑いがフリーダに対して存在したり。自分が子どもじみた意地を張っているだけの小さなものに思われたり。
「専門家を甘く見てはいけませんよ。
『愛とは何か』……理論、感情、芸術、科学。あらゆる観点から私たちは研究し、世代を経ても知識を積み重ね、その全てを知ろうとしています。
私とて愛の真理には遠い修行中の身ではありますが、私からしてもあなたなど、羽ばたくことすらできない生まれたてのヒヨコです」
「そんなことやってんのか、サキュバスは……」
エルテがそちらの方面に疎いことは紛う方無き事実であった。
何万というサキュバスが歴史的に積み上げてきた『愛』の知識が相手では丸裸も同然だ。
フリーダの言葉は確信に満ちていて、やりきれない想いが滲んでもいた。
「今のあなたは良くない状態だとは思いませんか」
「余計なお世話なんじゃないか、そういうの。
人なんてみんなどっかしか歪んでるもんだろ。
それのどこまでが病理で、どこまでが個性かなんて便宜的なもんでしかないと俺は思うなー!
俺は俺の考えで、助けられる人を助ける。それだけだ」
「このままではあなた自身が救われません。
『勇者がハーレムパーティーを目指している』という話を聞いた時はどういうことかと思いましたが……
蓋を開けてみれば、なんとも勇者らしい話でしたね」
「上等じゃんか。俺は勇者業継続するんだから、勇者らしくて悪いこたないだろ」
意地だと言われようがエルテは構わなかった。
その意地は、一度は世界すら救った。
母親代わりだった叔母と引き換えに生き延び、多くの人を救ったという負い目。罪悪感。
それを捨てて脳天気に生きるだなんて考えられない。
そんなのエルテにとって巴を捨てることと同じだ。
日々のささやかな幸せも、恩も、無かったことにして踏み躙るなんてできない。
エルテは、かつての愛の分だけ不幸であるべきで、その償いを為すべきなのだ。
「強情な……」
フリーダは疲れた様子で首を振った。
そして彼女は、鋭く指を鳴らす。
「うっ……!?」
突然、エルテの手が後ろに回って拘束された。硬い手枷らしきものがエルテの手を固めている。
さらに全身、艶めかしい黒革のベルトが巻き付いて縛り上げる。
直立不動で硬直していること以外、もはやエルテにはできない状況だ。
反射的に力尽くで拘束を解こうとしたものの、全くビクともしない。
妙だった。こんなオモチャで勇者の力を封じられるはずがない。
そう……現実世界でなら。
いつの間にやらフリーダはスーツを脱いで、いつか見たのと同じ、露出狂そのものの革鎧姿となっていた。つやりとした肩と脇も、柔らかく豊かな胸も、引き締まりくびれた腰も、尻から足先への完璧なラインも丸見えの格好だ。何故か野暮ったい黒眼鏡はそのままだが。
「聞き分けの無いお子様にはお仕置きを致しましょう。
与えるばかりの愛など片腹痛い。
愛のなんたるかをほんの少しでも教えて差し上げます。サキュバスらしいやり方で」
彼女の眼鏡が、その奥の碧眼が射るように光る。
瑞々しく官能的な己の唇を、フリーダはべろりと舐めた。




