#3-1 勇者の記憶:サキュバス軍団 ガンドラ王宮急襲
二年前……
王権の象徴たるべき定めを背負い、威容を誇るべき王城に、淫猥な雰囲気を醸す桃色の灯火が灯されていた。
毒々しい香水と花の香りが混じったような、奇妙に気分を高揚させる匂いが満ちている。
女の嬌声が発信源を特定できぬほどいくつもいくつも立ち上っていた。
サキュバス。
魔王に連なる者ら、言うなれば人型魔物である、『魔族』の一種。
外見は例外なく美しい女の姿であり、その美貌と魔力で人族の男を誘惑し、堕落させ、精気を吸い尽くして殺すという。
その夜、ガンドラ王国の王宮は千を超える数のサキュバスに急襲された。
城を守るべき騎士団は言うまでもなくほとんどが男であり、サキュバス相手に為す術無く無力化され、その肉体を貪られた(性的な意味で)。
サキュバスの誘惑の魔力が及ぶのは老若を問わず、特に魔法的防御を固めていた一部の者と女性だけがその難を免れたが、しかし無事ではなかった。
サキュバスたちは誘惑ばかりが能ではなく戦闘訓練も受けており、僅かに残った防衛戦力を全く真っ当な戦闘によって制圧してしまったのだ。
駆けつけた周辺領の騎士団や、城下の冒険者たちも手を出しようがなく、不夜城を眺めていることしかできなかった。
一人を除いて。
「きゃあ!」
「あぐっ……」
「あああっ!」
勇者は疾走する。
庭園を廊下を談話室を訓練場を。
無敵の荒野を駆け抜ける。
サキュバスたちは立ち塞がろうとして『あっ、こいつは無理』という絶望的な顔で武器を手にして立ち向かい、あっさり聖剣によって斬り倒されて行く。
やはりサキュバスたちの主武装は誘惑の力。それが封じられれば雑兵同然だった。
女性(しかも、あられもない姿の)を手にかけるのは一介のオスとして気が引けるエルテだったが、戦場で敵として出会った以上は男女平等だ。
「エルテに付いていけば俺らは安全だ。さすが勇者の呪い!」
「これだけサキュバスが居て、エルテを誘惑できる奴が一匹も居ないとはな!」
「お前ら褒めてるのかけなしてるのかどっちだ!?」
白銀の鎧の騎士グレンと、弁髪道着姿の武僧ジルイは、エルテを盾にするように後に続いた。
城内で骨抜きになっていない男は、おそらくこの三人だけだ。
「王様助けんぞ! 搾られて干物にされちまう前に!」
「リア充爆発しろぉ! ≪爆破≫!!」
王城の奥へ、奥へ。
発見したサキュバスは可能な限り倒し、襲われている者を助け出したが、アフターケアをしている余裕は無い。
何よりもまず王と二人の王子を助けなければガンドラ王国はお終いだ。今、この国が王や王位継承者を失えば、ようやく形になり始めた人族同盟は空中分解しかねない。このピンク色に染まった王城を勇者が攻略できるかどうかに世界の運命が掛かっていた。
「んおっと……」
突撃が止まったのは城の二階に当たるアーチ天井の部屋。
王族の居住領域の入り口だった。
宗教画の天使が見下ろす下に、彼女は立っていた。
実物を見た事があるわけでもないのに『ハリウッド女優』という言葉がエルテの脳裏をよぎる。
身長はエルテと並ぶほど。付くべき所に肉が付き、引き締めるべき所が引き締まった理想美の極致と言うべき肉体に、スリングショット水着のような極めて性的な革鎧を纏っている。
磨き上げたように白い肌、黄金そのもののように美しいストレートの金髪、海のように深い碧眼。
たおやかな桜の色をした唇がほころび、蠱惑的に彼女は微笑みかけてくる。
――なんか知らないけどめっちゃ良いニオイする……
あのサキュバス、俺を見てる……?
何か、彼女は他の有象無象のサキュバスと格が違うという気がした。
頭の芯が痺れたように感じ、エルテはだんだんと、彼女のことしか考えられなくなっていく。
「憂つし世は夢の続き。一夜の夢こそ真理……」
「うっ……」
「さあ、蕩けるような夢を見ましょう、勇者様」
吐息。目つき。柔らかな声音。その肢体。
全てが美しくふしだらで、何もかも吸い寄せられていくようにエルテは錯覚する。
――マジで、俺を……?
こちらの世界へ来て六年。呪いに苛まれ女が寄り付きもしなかったエルテ。
淫乱の代名詞たるサキュバスですら寄りつかぬかと思ったが、彼女ただ一人は……
「うふふ……」
「うふふふふ……」
踊るような動きで更に二匹のサキュバスが現れ、こちらはエルテを無視して背後のグレンとジルイの方へ向かって行った。
「よ、寄るな!」
「私は惑わされぬぞ……!」
二人は抵抗の声を上げる。
それはエルテにとってどうでもいいことだった。
「そんな重そうな服はお脱ぎになって」
「あ……う……」
「剣など要りませんわ。そんなものは捨てて、その手で私に触れて……優しく触れてくださいまし……」
言われるがままにエルテは、覚束ない手つきで戦装束を脱ぎ、聖剣を放り捨てた。
彼女と溶け合いたい、抱き合って一つになりたいという欲求はそれほどに強かった。
そこには全てがあった。エルテの手に入れるべきもの全てが。
彼女さえ居れば他には何も要らエルテは何かに頭部を強打した。
「痛ったあ!?」
「何っ!?」
頭部に衝撃が走り、冷たくて草くさい何かがエルテに降りかかる。
陶器の欠片と、水に濡れた切り花が辺りに飛び散った。
察するに、それは花瓶だった。中身入りの花瓶が降ってきてエルテの頭にぶち当たったのだ。
「勇者様、気をしっかり!」
「おのれ、小娘! いつの間に……!」
この部屋は二階から三階までの二階層をぶち抜く構造で、エルテたちが居る二階部分の上に、テラス構造になった三階部分がある。
そこから花瓶が投げ落とされた。
エルテが出かけている間、『鏡の離宮』から王城に戻っていたシャーロットによって。
怨嗟の声を上げて見上げるサキュバス。
「はっ!?」
彼女は自分に向かって振るわれた剣を間一髪で躱し、忍者のように身軽なバックステップからの後ろ宙返りで距離を取った。豊満な胸部が揺れる。
「俺はゴリラだ……俺は怒り狂うゴリラになる……
竜巻のようなサメになる……アフリカ最強のキング・オブ・カバになる……」
「な、何だ? 何を……」
「誘惑して……まずさせることが武装解除かよ。分かってたさ。分かってたけどなあ……」
放り捨てたはずの聖剣は既にエルテの手の中に戻っていた。
血の涙がエルテの頬を濡らす。
花瓶の一撃によってエルテは正気に戻った。そしてすぐ、当然のことに気が付いた。
彼女がエルテを誘惑したのは、エルテを愛おしく思ったためではないのだということに。
「叶わないと分かっている夢を見させられることほど! 残酷なことはねえと思うんだよなああ!!
残酷すぎて天使がダース単位でテーゼを歌うぜ!?」
「こいつは何を言っているんだ!? 気が触れたか!?」
エルテはドラミングで威嚇した後、聖剣を手にサキュバスに襲いかかった。
彼女は長い鞭のように刃を連ねた武器……蛇腹剣をどこからか取り出して構え、迎え撃つ。
「ウホ!」
「くっ!」
「ウホ! ウホウホホウホウホウッホー!!」
弾幕を張るように振り回される変幻自在の白刃をことごとく打ち返しながらエルテは肉薄する。
サキュバスは鞭状に伸びた刃を即座に引き戻し、単なるギザギザの剣として致命的な一撃を受け止めた。
しかし、カラクリ仕掛けの蛇腹剣はいかに魔法的加工を施しても脆さを克服しきれない。対して勇者の力の結晶である聖剣は、破邪の力を抜きにしても至上の武器だ。
剣形態で二合打ち合うと、蛇腹剣は小気味良い音と共に砕けて半分の長さになった。
「強い……」
「悪いな。人の命が懸かってるとあっては、女相手でも容赦はできねえ。
ところでサメってなんて鳴くんだ?」
「知らぬ!」
「カバは?」
「知るか!!」
なおエルテは、カバがピンクの汗をかくという雑学だけは知っている。
「退け! ……もはや勝ちの目は失せた!」
蛇腹剣のサキュバスが命じるや、グレンとジルイに組み付いていたサキュバスもコウモリの如き羽を広げて後退する。
ピンヒールキックでステンドグラスをぶち抜くと、彼女らはジェット戦闘機のような勢いで夜空を切り裂き飛び去っていった。
「た、助かったぜエルテ……」
「危うく俺たちもサキュバスの餌食だ」
「お前ら早くパンツ履け」
すっかり裸に剥かれていた二人が起き上がった。
「勇者様、ご無事ですか? ……きゃああああっ!?」
「わああっ、殿下!?」
「お前ら早く服着ろ!!」
そこに降りてきたシャーロットが裸の二人に気が付いて悲鳴を上げた。
顔を覆うシャーロットだったが指に隙間があって目が隠れていない。
エルテは(呪いがあるのだから関係無いとは言え一応)戦装束を羽織り、グレンとジルイは慌てて身体に服を巻き付けた。
「……すみません、勇者様。
落石を頭で粉砕したというお話を伺っていたので平気かと思ったのですが、お怪我はございませんでしたでしょうか」
「いや、全然大丈夫です。助かりました」
あわやというところだった。
シャーロットの機転と勇気ある行動が無ければ、エルテはここでゲームオーバーだったかも知れない。
『非モテの呪い』はサキュバス相手にもしっかり効いていた。
お陰で助かったが、だとしたらエルテを誘惑したあのサキュバスは何だったのだろうか。
所詮彼女もエルテを、対処すべき脅威として扱っていたに過ぎない。しかし、だとしても……他のサキュバスと違ったのだとしたら、彼女にとってエルテは特別なのか。エルテにとって彼女は特別なのか。
「まさか俺を誘惑するサキュバスが居るとは……」
退却命令は既に城を襲った部隊全体に通知が行き届いている様子で、周囲から感じる邪なる者の気配は急速に数を減らしている。
サキュバスが飛び去った窓を見てエルテは、ほんの数十秒だった泡沫の夢に想いを馳せていた。




