#2-5 天寿天命
パンの焼ける香りが、その通りにはどこからか風に乗って漂っていた。
煉瓦のような石畳で舗装された坂道を歩く少女が一人。
艶めかしい真っ白な髪をして、夏の初めに咲く紫陽花のような紫色のドレス風ワンピースを着ている。
道行く人々は誰も彼女に気が付いていない。
ただ、それでも不思議と、彼女にぶつからないよう無意識に避けて歩いている様子だった。
ふと少女は立ち止まる。
道脇の花壇に花が植えてあった。春の日差しを受けて瑞々しく育ちながらも、花壇に並んだその花たちは未だ蕾を結んでいる。
少女がそれを一瞥すると、途端、変化が起こった。
ふわりとつぼみが綻んで、花たちは艶やかな姿を見せる。薄紅色や淡黄色の花びらをいっぱいに広げて、空を見上げた。
人々は、白髪の少女に気付かないのと同じように、いきなり早回しのように開いていく花にも気付かない。
ただ、いつの間にやら咲いていた花には、道行く子どもが気付いた。
「みて、おかあさん! やっとさいた!」
「あら、本当ね。良かったわね」
小さな女の子が春の訪れを喜び、自らも花のように笑って、うきうきと弾んだ足取りで駆けて行く。
買い物の包みを持った母親がそれをのんびり追いかけた。
自然の草木を根こそぎにして街を築き、そこに移り住んだ人々が何かの埋め合わせのように並べた街路樹、整えた花壇……
そこにもムルエリ山の春の輝きは等しく訪れていた。
「……エリが見えてるですか。流石勇者」
ふと、白髪の少女が振り返った。
『モブ化フード』で雑踏に紛れるエルテの方を振り返る。
そして彼女は意地悪く笑った。
「どうですー。自分の無力を思い知った気分は」
「こうなるって分かってたのかよ」
「分かってたわけじゃないですが、そう簡単に上手く行くわけないとは思っていたです。
『神殿』の粘っこいやり方を7年間見てきたですから」
事の顛末は承知しているらしい。
彼女の力の源泉となる神事を妨害するため『神殿』が打ってきたえげつない謀略も、驚くには値しないのだと言うかのように。
「むしろ『神殿』にどっぷり関わってるはずの勇者がそれを理解してなかったことに驚きです。
踏みつける側だったからです?」
棘のある言い方だった。
その棘はエルテにしっかり突き刺さった。
エルテは言い返せない。
世界を守るという大義名分の下で『神殿』がどういう事をしているのか、こうして目の当たりにしているところだ。
エルテは勇者として、そんな『神殿』のバックアップを受けてずっと戦ってきた。
なら、今までもこれからも、エルテの戦いの足下でこういうことが起こっていないという保証は無い。
エリは歩く。
エルテは付いていく。
二人の存在は不思議なほど周囲から意識されず、皆が無意識に避けて通っていく。
かつて存在したムルエリ村は、山中の日の当たる斜面に畑と家並みがある静かな村で、人々は農林業を行い、山の恵みを頂いて暮らしを立てていた。
今やここは、ちょっとした都会と言ってもいい。真新しい街並みはゼロから計画しただけあって整っており、何より全てが真新しくて輝いているかのようだ。
「始まりがあるものには終わりがある。神だけ例外なんてことはないです」
「人はいつか死ぬけれど、それが殺人を許す理由にはならないだろ」
「人と同じ尺度で神を語るんじゃないです。
……住む者が居なくなった家は壊され、戦に負けた国は滅び、語る者無き言葉は忘れられる。
不要なものは捨てられて、より求められているものに置き換わるです。
世界も同じこと。概念と信仰は新陳代謝で塗り替えられていくです。
ただの懐古趣味で神を一柱飼っていられるのです?」
エリは一欠片の容赦も無く己の滅びを語る。
古いものをそれでも残そうと尽力する人々は、少なくとも地球には居たしこの世界にも居るのだろう。
エルテはそう言い返そうとしたけれど、しかし言葉が出なかった。
特に考古学を学んでいたわけでもないエルテだが、貴重な古書が図書館の大掃除で廃棄されたり、保存する金が無くて文化財級建築が更地になったり、なんてニュースは聞いた覚えがある。
残すべきものを残そうとしても、そこから零れ落ちてしまうもののなんと多いことか。
昨日と同じ明日など永遠に来ない。世界は塗り変わっていくし、その時に発生する取捨選択は、『当座の需要』という身も蓋もないものによって行われる。
エリを大切に思い、守ろうとする人はあまりにも少ない。
圧倒的多数を占める人々の都合と無関心によって、女神ムルエリは葬られようとしている……
「そんな理屈……俺は認めたくない」
「お前が認めても認めなくても結果は変わらないのです」
エリはぴしゃりと一言でエルテを切って捨てる。
詰るようでも、諭すようでもあった。
エルテは如何なる強敵にも立ち向かい、遂には魔王すらも打ち破った。
だが……これは剣を取って戦ったからといって解決する問題ではないのだ。
無力だった。
「……悪足掻きは適当なところで切り上げてお前のするべき仕事をするのです。こんなつまらない街で油売ってる場合じゃないのです」
エリは歩く。
エルテは立ち尽くす。
灰色の人波の中、刻を隔てる雑踏の中で立ち尽くす。
「まだだ」
それでもエルテは、去りゆく背中に声を振り絞った。
「祭りを決行できれば、エリは力を取り戻せるはずだ」
「状況分かってるです? 祭りをやる人が居ないです。
『異端狩り』に目を付けられると分かってて手を上げるバカは居ないです。勇者にそれを防ぐ力が無いこともはっきりしたです」
「いや、だからさ」
結局エルテは立ち向かうことしかできない。
「居なくなった巫女の代わり、俺じゃダメかな?」
だから、そうするだけだ。
エリは弾かれたように振り返る。
ルビーみたいな目をまん丸く見開いて。
「ちょっと待つです……そんな無茶苦茶な」
「無理な要素ってなんかある?」
「立場として勇者は『神殿』側なのにそんなことして許されるんです?」
「世界のシステム的には問題無いと思うんだけど。
勇者の力とコレが競合しなかったんだから大丈夫でしょ」
そう言ってエルテは水晶の塊を『インベントリバッグ』から取り出した。
二十面体ダイスのようにカットされた水晶は、清流の水のように透明で不思議な輝きを湛えている。
かつてエルテが勇者として戦い、ムルエリ山を魔物の手から解放した際に、お礼として受け取ったものだ。
「こんなのまだ持ってたですか」
「もう加護も薄れてほとんど消えちゃったけれど、貰ったばっかりの頃はちゃんと効いてたから。食い合わせが悪いってことはないと思うんだ」
女神ムルエリの加護が込められたこの水晶は、エルテに守りの力をもたらした。
要するに防御力アップとか属性防御強化とか、なんかそういうパワーだ。
込められた加護の力は使い減りするものだったらしく、激しい戦いを経た今となってはただ綺麗なだけの水晶みたいなものだけれど。
これを身につけていても彼女の神様パワーにエルテの勇者パワーが妨げられるようなことは無かったのだから、干渉し合う存在だとか反対属性だとか、そういう面倒は無い筈だ。多分。
「でも、儀式をやる巫女は純潔の乙女でなくばならないのですよ?」
「……男としても女としても純潔で、少なくとも現在、生物学的に女ではありますが」
エリは、奇妙な顔をした。
それは喩えるなら、リンゴを口に入れたら辛子明太子の味がしたかのようだった。
「マジです? お前、元・男の筈だし歳いくつです?」
「エリちゃん。それ俺が居た世界だとセクハラって言うんだぞ」




