#1-1 結城亞留斗
八月某日。
都立砂片第二高等学校の、吹奏楽部員23人の乗ったマイクロバスが、合宿地に向かう途中で事故を起こした。
走行中に運転手が意識を失ったのだ。
不幸中の幸いは、運転手近くの席に座っていた一年生部員・結城亞留斗が、咄嗟の判断でブレーキを掛け、バスを止めたこと。
不幸中の幸い中の不幸は、左側車線に路上駐車して休憩していたトラックに暴走するバスが突っ込みかけ、それを避けるべく急ハンドルを切ったことで、併走していた軽乗用車を跳ね飛ばして反対車線に弾き出し、別のトラックと正面衝突させたこと。
マイクロバスに乗っていた生徒たちは、軽症を負う者もあったが無事。バス運転手も病院に運ばれたが一命を取り留めた。
事故の唯一の犠牲者は、軽乗用車に乗っていた吹奏楽部顧問、峰浦巴。
砂片二高の教諭であり、マイクロバスを止めた亞留斗の叔母であり、実母の元から彼を保護して女手一つで育てていた養い親だった。
* * *
『トロッコ問題』と呼ばれるものがある。
暴走するトロッコ。
レールの先には五人が居て、このままでは五人とも死んでしまう。
しかしポイントを切り替えて脇道に入れば、そこには一人しか居ない。轢かれて死ぬのは一人で済む。
さあ、どうする?
……というのが概要。
解が存在しない問いを提示して、どんな思考過程を経てどんな答えを出すか見ていく、一種の思考実験だ。
まあ、その意義や解釈については哲学者とSNS暇人に任せておけばいい。
実際には、こんな事態に直面したら考えるまでもなくポイントを切り替えざるを得ないのが現実だろうと亞留斗は思う。
それが、意図的な選択であるかどうかは別として。
十二月某日。
夕陽の赤さも通さない曇り空の下、河川敷の野球場は墨汁を溶かしたような闇の中に沈みつつあった。風は刺すように冷たい。
亞留斗は自分以外誰も居ない、土埃にまみれたベンチに座っていた。
――『勇気ある』結城亞留斗、ってか……マスコミにもネタにされたっけ。
勇気ある行動だったのかは、もう分からないけれど……本当に、あれで良かったんだろうか。
あの事故によって亞留斗は育ての親だった叔母を喪い、あまり母親だと思いたくない実母の下へ戻った。部下の女性にセクハラとパワハラと浮気を同時にかまして離婚した父は母以上に頼りたくないし、今はどうしているかも分からない。
声優崩れである亞留斗の母は自分の夢を息子に託したのか、小学生の頃はボイトレだのオーディションだのと色々と亞留斗を引っ張り回していたが、五年の時を経て実家に出戻った今は、ほとんど亞留斗への関心を無くした状態だった。
まあオーディションに落ちる度ヒステリックに叱られるよりは無関心の方が遥かに良い。
亞留斗という名はアニメソングを何より愛する母の憧憬から出たものであるらしく、いつしか亞留斗は自分の名前が嫌いになっていた。
『男ならアルトじゃなくてバスとかテノールでは?』という至極当然のツッコミも思い浮かぶが、おそらく名字と合わせたシャレを優先したのだろう。この名前を思いついた瞬間の母のドヤ顔が、見てもいないのに容易に想像されて時々ムカつく。
母方の祖父はどこか田舎の、歴史だけはある名家らしい。
半ば勘当状態の母にも多少の援助をしつつ素行を監視しているとかで、お陰で亞留斗は飢えずに済んでいるし学校にも通えている。
とは言え既に雲行きが怪しくなり始めており、亞留斗は今月分の給食費が学校に振り込まれていない件を近いうち母に問いたださなければならなかった。気が重い。
転校してきた実家近くの高校は、どうも治安が悪い。『目つきが生意気だった』という理由で竹刀で袋叩きにされた背中がまだ痛い。亞留斗は駆けつけた剣道部の顧問に救出されたが、彼がなぜ亞留斗にも『ごめんなさい』を言わせたのかは未だに分からなかった。
亞留斗は暮れていく曇り空をぼうっと見ていた。
帰りたくないし、明日なんてこの地球に来なくていい。ただ今の時間が永遠に続いてほしかった。
こんな気分になる日は、時々ある。
とは言え、夜中に街をうろついていても見回る先生や警官に捕まるだけなので、普段は真っ暗になる前に帰るのだが、その日に限っては何もかもが違った。
突如、全てが白い閃光に包まれる。
「っ……!?」
ナイター照明の誤作動かと一瞬思ったが、雨が降れば水没する河川敷の野球場にそんなシャレた物は無い。
いつまでも消え去らぬ光に、亞留斗は手で庇を作りながらそっと目を開けた。
確かに辺りは眩しかったが、それは目を開けていられないほどではなかった。
周囲の景色は一変していた。
光に包まれた真っ白い空間に、亞留斗の座っていた座席だけが浮かんでいる。
マウンドも、打球を止めるネットも、流れていた川も消え去って。
代わりに、古代ローマのトーガみたいな服を着ていて白い羽の生えた、ものすごく天使っぽい美丈夫が亞留斗と向かい合っていた。
『……このような形でのお呼び立てとなり、ご無礼をお許し下さい。結城亞留斗様』
オペラ歌手めいた深みのあるテノールで天使(仮)は言って、折り目正しく礼をした。
『私どもの世界を救ってはいただけませんか』
「……はい?」
亞留斗は目をこすり、ほっぺをつねってみたが、天使(仮)は消えなかった。
* * *
天使の話を要約すると、彼は、魔王の侵略によって人が滅びかけている異世界からの使者。
勇者を召喚する魔法をどこかの王国が使ったとかで、その該当者を探すべく時空を超えてスカウトに来たと言う話だ。
ベッタベタな設定だが、この不思議空間を見る限りはドッキリとかじゃなさそうだ。
「なんで、それが俺なんです?
特別な血筋を引いているとか、眠れる才能があるとか……?」
『いえ、貴方は特別な資質などを持たない完全な一般人です』
完膚なきまでにキッパリと言い切られ、亞留斗は脱力して宙に浮かんだ椅子から滑り落ちそうになった。
『勇者としての力は召喚術式に付随するものですので、この術式で異世界から人を呼び出せば誰でも勇者になれます』
「じゃあなんで俺なわけ!?」
『貴方でしたら87%の確率で世界を救えますので』
冗談か本気か理解しがたい、慇懃無礼と紙一重の役人スマイルで天使は言った。
「なんですかその妙に具体的な数字は」
『貴方という存在を遺伝子の一欠片に至るまでデータ化して計算した結果です。
勇敢であるために失敗する者も、卑怯であるために成功する者も居りますので、具体的にあなたのどのような点が勇者として適していると言うことはできません。
これはただ、貴方が召喚された場合に世界がどうなるのか……機械化文明の住人である貴方に分かりやすく言うと、スーパーコンピュータで数千万回のシミュレーションを行ったようなものです』
どうやら異世界の神様に、プライバシーとか個人情報保護の概念は無いらしかった。
『私は神の計算能力によって、召喚術式が繋がった付近から最も勇者適性が高い方を探し出して、召喚に応じて頂けるようお願いするのが仕事なんです。
まあ、貴方の他にも適性がある方はおりますので、貴方がお断りするのであれば私との会話の記憶を失って頂き、次の方にお願いするだけですが』
――さらっと怖いこと言いやがりましたよコイツ。
天使は、呆れつつ警戒する亞留斗の視線を受け流す。
「その召喚に応じたら俺はどうなります?」
『私どもの世界へ来ていただき、命懸けで戦うこととなります。
通常ならこちらの世界へ帰る道はありませんが、もし世界の危機を回避できた場合、あなたはこちらの世界へ帰ることも可能です。
その際には何らかの加護や、貴方が望むのであればより即物的な財宝など、働きに応じた何らかの報酬もお渡しします』
「……死んだ人を、生き返らせたりとかは?」
仄かな希望を抱いて亞留斗は聞いた。
しかし、天使は少し考えて首を振る。
『こちらの世界は管轄外となりますので、生き死にの命運に関しては如何とも。向こうで死んだ者であれば勇者への報酬として生き返らせることもできましょうが』
「そう、ですか……」
では勇者としての戦いを完遂しても、死んだ叔母を生き返らせることはできないということになる。
亞留斗は落胆したが、それは元からどうにもならないことだ。
『埋め合わせ』とか『償い』と言うのは少し違うけれど、問題はこれから亞留斗がどうするのかということ。
「元の世界に帰らなかったとしたら?」
『私どもの世界への永住も可能です。
……世界の危機が去れば、勇者には何の義務もありません。悠々自適の生活を送れることでしょう』
亞留斗はいよいよ本気で悩む。
この世界に未練は無く、自分の命が惜しいという感覚も特にない。
戦いを終えた後の報酬もどうでもいい。
それよりも。もし自分が世界を守るために戦えるのだとしたら、どれほど救われるだろうか。
もしこの天使の言う事が本当なら、運命というものだろうと亞留斗には思われた。
『ただ……申し上げにくいのですが、勇者の力には代償が伴います。少なくとも貴方が勇者である間は、この呪いから逃れることはできません』
実際は特に申し上げにくそうでもなく、事務的に天使は述べた。
「ええ? なんでそんな仕組みなんです?」
『勇者とは、人が本来持っている『運命の力』の一部を、破邪の力に転化した存在です。
人を超えた力を不自然に得るためには、何かを失わなければならないのです。
力の代償は召喚術式によって規定されます』
「な、何をさせる気ですか。俺はどうなるんですか」
『此度の召喚によって規定された代償は……』
天使は金色の目で、刺すように亞留斗を見据えて告げる。
『『非モテ』の呪いです。あなたは異性から、性的魅力が完全に欠如した存在と見做されます』
「………………は?」
あまりにアホらしい呪いに呆然としながらも、『それなら今と変わらないな』と亞留斗は思った。
* * *
かくして結城亞留斗は召喚勇者となった。