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キャバ嬢・裕子。

作者: marusato


「こんな私でも結婚して幸せになれるのかな…」



 佐々木裕子。

 お店で常に成績がトップ3に入っているキャバ嬢である。キャバ嬢の中には源氏名を名乗っているもいるが、裕子は本名を名乗っていた。源氏名を名乗る娘は身元を知られるのを心配しているからだが、裕子の場合は親兄弟や親せきが東京にいるわけではないので心配は無用だった。

 

 裕子はマンションの一室にいた。裕子にプロポーズをした男のマンションである。男の名前は白川隼人という。隼人は裕子にプロポーズをしたのだが、実は前の奥さんと正式に離婚しているわけではない。ただ、かれこれ1年くらい別居生活を続けていると話していた。

 

 その隼人から「妻と離婚が成立しそうなので婚約指輪を渡したい」と言われた。そして、今日待ち合わせているのだが、正直に言うと「迷う」というか「揺れている」気持ちもある。心のどこかで「キャバ嬢の自分が結婚などできるわけはない」という思いがあるからだ。

  

 裕子がこのマンションに来るのは初めてではない。これまでに3回ほど来たことがある。マンションと言っても生活をするための場所ではない。仕事用である。隼人はフリーランスでデザイナー兼システムエンジニアをしていた。もうすぐ法人にするそうだ。個人事業主よりも法人のほうが信用度が高まるからだ。


 マンションの間取りは3LDKで、4~5人くらいの家族が暮らせる広さになっている。裕子が座っている場所はリビングである。10畳ほどあるだろうか。ソファの前にはテーブルが置かれていた。

 

 本来は生活の場として作られている間取りだが、隼人は仕事場として使っている。生活の場と仕事の場で一番の違いは空気である。このリビングには普通の家庭にあるような生活感が流れていなかった。

 

 例えば、一般家庭のリビングには必ず置いてある大画面のテレビがない。家庭の必需品ともいえる家電である。また、おしゃれな奥様が飾っていそうなインテリア類が全くない。見渡す限り白い壁という、いわゆる殺風景という風景だ。ソファとテーブル以外に置いてあるのはドアのそばに備えてある椅子と机だけである。その机の上にはファックス機能つき電話が置いてあった。


 隼人が言うにはファックスは重要な仕事道具だそうだ。個人で仕事を受けている人間にとって留守電とファックスは重要な部下となる。大げさにいうなら秘書の役割を果たしてくれる。今のデジタルの時代に固定電話とファックスは時代遅れのように思う人もいそうだが、まだまだ留守電とファックスは十分に仕事に使える道具である。隼人が出先から戻ったときに真っ先にやることは留守電のチェックだ。


 裕子が座っている位置から隼人が作業用に使っている部屋の中が見えた。ドアが半分開いていたからだが、見るともなく部屋の中に目をやると、パソコンの電源が点滅しておりモニターが2台並んでいた。前に聞いた話では作業用の部屋の広さは8畳あり、残りの2部屋は6畳だそうだ。結婚した暁には一つの部屋を寝室してあと一つは裕子専用にすると話していた。

 

 

 

 

 普通の人の感覚からするとキャバ嬢という職業はあまり品のよろしくない仕事である。かなり自虐的な考えだが、キャバ嬢は「いろいろな男性とつき合う」のが仕事だ。しかも、かなりきわどい接客もする。中には身体を触ってくるお客もいるし、ストーカーまがいの行動をとるお客もいる。

 

 下品な言い方をするなら手垢がついた女と好き好んで結婚する男は変わり者だ。普通の社会人ならキャバ嬢との結婚など願い下げだろう。キャバ嬢の経験を隠して結婚して、なにかのきっかけでばれて離婚になった女の子もいる。今のお店にもいる。それほどキャバ嬢という仕事は特殊な仕事なのである。

 

 裕子のキャバ嬢歴は長い。かれこれ9年になる。東京から電車で2時間半かかる地方から上京してきた。当初の目的は専門学校に入学するためだった。しかし、仕送りがなかったので生活費を稼ぐためにアルバイトをする必要があった。最初の頃は週に数日、短時間の仕事をしていた。しかし、当然のごとくその程度の労働時間ではお給料もたかがしれている。お給料を増やすためにはもっとアルバイトの時間を増やす必要があった。そして、徐々に学校に行く時間が少なくなり、いつしかアルバイトに明け暮れるようになり、行きついた先がキャバ嬢である。地方から出てきた女の子によくあるパターンだが、若い女の子がそれなりの高収入を稼ごうと考えたとき、最初に思い浮かぶ仕事がキャバ嬢である。


 しかし、実はキャバ嬢になる女の子は「自分から探して」というよりも「知り合いに誘われて」というきっかけではじめる子が意外に多い。裕子の一番の親友である真由美もそうだった。真由美は知り合いから誘われてキャバ嬢をはじめたのだが、その知り合いはとっくに辞めていた。理由は、ノルマが厳しいからである。


 キャバ嬢は一部の若い女子の間では人気のある職業のように報じられている。しかし、この情報は正しくない。今流行りの言い方で言うならフェイクニュースだ。キャバ嬢はお気楽にできる仕事ではない。お客様に気に入られて得意客を持たなければ続けられない厳しい仕事である。


 そんな世界で成績上位を維持している裕子はやはり努力家なのだ。真由美が裕子と親友になったのは裕子の日ごろの努力を知っているからだった。真由美は裕子に対して、一流のスポーツ選手に憧れるファン心理のような気持ちを抱いていた。


 裕子たちの始業時間は一応の決まりでは19時となっている。お店によって違いはあるが、基本的なキャバ嬢の仕事はそのあたりが開始時刻だ。しかし、同伴をするときはもっと早くなる。つまり早出出勤というわけだが、裕子のような成績上位に入っているキャバ嬢は同伴が普通のことなので19時が仕事開始ということはほとんどない。キャバ嬢にとって同伴やアフターはお給料に直結する重要な業務の一つである。


 反対に、同伴やアフターが取れずに退職に追い込まれるキャバ嬢もいる。しかも少なからずいる。最初から厳しさを自覚して入店する女の子なら大丈夫だが、甘い気持ちで入店する女の子は続けることが困難だ。お店からのプレッシャーに耐え切れなくなる。キャバ嬢は一見するとおしゃれな洋服を着て派手なお化粧をして華やかなイメージがあるが、実際にはきついノルマを課せられる厳しい仕事である。





 ある日、裕子が控室にいると、真由美が入ってきた。

「裕子。この前教えてくれた“なみラブ”、よかったぁ。最高のバラードだった。誰から教わったの?」

「ほら、私のお客さんでアベちゃんでいるでしょ。アベちゃんのおすすめなの」

「へぇ。あのおじさん、見かけに寄らずロマンティストなんだね。ハゲてるのに」

 と真由美は笑った。

「ハゲとロマンティストは関係ないんじゃない」

 裕子も笑いながら返した。

「あの歌、ギターの前奏からサックスに入るところがたまんない。あたしあそこでズキューンときた」

「ああ、そうなんだ。…真由美、怒らないで聞いてほしいんだけど…」

「なあに?」

「あのね、ハゲのアベちゃんと同じこと言ってる」

「ええ、ショックー!。あたしアベちゃんと感性一緒なんだぁ」

 二人は大笑いをした。



 アベちゃんは心優しいおじさんだった。いつもエッチな話ばかりをしているが決して手は出さなかった。本当かどうかわからないが、資産家の家に生まれたのでお金に不自由をしたことはないそうだ。お金の使い方を見ていると満更うそでもなさそうである。とにかく明るくていつも指名してくれる素敵なおじさんだった。そのアベちゃんが教えてくれたのが“なみラブ”である




 裕子はキャバ嬢として普通のOL以上に収入を得ている。しかも裕子は堅実である。きちんと貯金をして将来に備えることも考えている。場合によっては独立して自分で店を構えることも選択肢の一つとしている。

 

 そんな裕子なので結婚など考えたこともなかった。しかし、たまたまのタイミングが裕子の心を揺さぶった。タイミングとは「別れ」と「プロポーズ」がちょうど入れ替わるように訪れたのだ。






 ある日、裕子が接客をしていると、指名が入った。裕子は売れっ子なので珍しくはないのだが、今回の指名は「わけあり」そうだった。

 

 裕子がテーブルに行くと、そこには同年代の青年が座っていた。なんとなく見覚えがないでもなかったが、それ以上はわからなかった。ただ、その青年はほかのお客さんとはどこか雰囲気が違っていた。 

 

 

 

 キャバ嬢というのは、高度な接客術が求められる。以前、真由美に質問されたことがあるのだが、裕子が常にお店で上位にいられるのはその接客術が優れているからだ。しかもこの接客術というのは一朝一夕に身につけられるものではない。単に笑顔で横に座っているだけなら素人でもできる。しかし、プロは相手に合わせる技を持ち合わせていなければならない。その技の一つは時事ニュースだ。世の中で起きていることを深くなくてもいいから広く知っていることが大切だ。

 

 それが素人、もっと突っ込んで言うなら普通のキャバ嬢にはできない接客術だ。簡単に言ってしまえば、新聞に書いてあることを政治から経済のことまで一通りは知っている必要がある。20代の女子に簡単にできることではない。

 

 もちろん男性がキャバ嬢に会いにくる一番の目的は若くてきれいでスタイルがいい女の子と会話を楽しむことだ。なので、時事ニュースなど役に立たない場面も多々ある。それでも、相手によって話を合わせられる技は大切な接客術だ。

 

 

 

 裕子が席に着くと青年はどこかはにかむというか、懐かし気な視線を裕子に投げかけてきた。

「裕子ちゃん、僕、覚えてる?」

 突然の挨拶である。裕子はまじまじと青年の顔を見た。

「えーっと、どこかでお会いましたっけ?」

 裕子がいぶかしげに尋ねると、青年は相好を崩した。裕子はにこやかな笑顔を見せながらも、頭の中ではこれまでに出会った男性の顔をハイスピードで順繰りに思い出していた。すると、裕子の頭の中を見透かすかのように青年が答えた。

「落合健一。通称、オチケン。まだ思い出さない?」

 その言葉で裕子の記憶が中学校時代に飛んだ。小学校から中学校で同級生だったオチケンだった。

「ああ、オチケン君!」

「よかったぁ。思い出してくれたんだ」

 二人は手を取り合って喜んだ。

「どうしたの。今日は?」

「うん。僕の知り合いがたまたまこのお店に来てて、裕子ちゃんと仲良くなったんだ。それでいろいろ話を聞いているうちに僕の知っている裕子ちゃんじゃないかなって思って」

「うっそー。驚き。その友だち誰?」

「白井陽太っていうんだけど、わかるかな?」

「ああ、わかる白井さん。白井さんには御贔屓にしてもらってる」

「よかったぁ。今日は確認っていうか、本当に本人か知りたくて来ちゃった。迷惑じゃないかな?」

「ううん。うれしい。こんなとこで幼馴染と会えるなんて、楽しんで行ってね」




 結局、裕子はキャバ嬢としてではなくプライベートで健介とアフターをすることになった。

 

 お店を出る前に真由美が声をかけてきた。

「裕子、大丈夫だと思うけど気をつけてね。幼馴染と言っても10年以上会っていないんだから」

「うん。でも、今日の感じだとそれほど昔と変わってないみたいだし。もちろん、気をつけることはつけるけど。ありがと」



 待ち合わせのレストランに入ると健介が軽く手を上げた。

「お待たせ。だいぶ待った?」

「大丈夫」

「その『大丈夫』。…懐かしい。昔、それ口癖だったよね」

「ああ、そうか。そういえば、よくからかわれたよな」

「全然、変わってないね」

「そうでもないけど。だってあれから13年だから」

「中学卒業してからだから、そうか13年。速いね。お互いいろんなことがあって」

「裕子ちゃん。苦労したんだろうね」

 裕子は健介の言葉にちょっと違和感を覚えた。突然、出てきた「苦労」という言葉がひっかかったのだ。おそらく今の裕子の職業を慮っているのだろう。しかし、裕子はその言葉を聞き逃すことにした。

 

「でも、どうして東京にいるの?」

「実は、俺こっちに出向しててそれでたまたま裕子ちゃんのこと知って…」

 久しぶりに会う男女の会話はどうしてもぎこちなくなる。しかもキャバ嬢という特殊な仕事をしている裕子と向き合っている健介は緊張しているようでもあった。

 

 裕子はこのとき健介に好感していた。緊張している感じがわかったからだが、これは「女慣れ」していないことの裏返しになる。つまり、「遊び慣れ」していない真面目な男性ということだ。

 

 裕子は自分でも驚いたのだが、これをきっかけにして二人はつき合い始めた。しかし、裕子にはにちょっと気になっていることがあった。それは、つき合い始めてからも健介が裕子に「仕事を変えてほしい」と言わないことだった。それどころかどこか尊敬しているふうな感じを見せることさえあった。

 

 

 

 

 裕子は新しくできた彼氏のことをアベちゃんに話した。相談ともいえるものだったが、やはり裕子からするとキャバ嬢という仕事に引け目を感じているので真正面から恋愛に向き合えないものがあった。

「ねぇ、アベちゃん。わたしの恋、どう思う?」

「そうだなぁ。たぶん、その彼氏はまだ世の中のことをよくわかってないんじゃないかなぁ。裕子ちゃん、悪いけど、その恋終わるよ」

「ええ!?」

 裕子が大げさに驚いて見せると、アベちゃんがすかさず顔を近づけてきて

「裕子ちゃん。そんな頼りない男よりアベちゃんのほうがつき合うには楽しいよぉ」

 と声を上げて笑った。アベちゃんはいつもこうやって場を盛り上げてくれるのだった。

 

 

 

 悲しいことにアベちゃんの予想は的中した。健介の出向期間が終わりに近づいてきたある日。

「実は、親に裕子ちゃんのこと、話したんだ。そしたら結婚認められないって」

 健介は申し訳なさそうにうつむいた。アベちゃんから言われていたので少しばかりの心構えは持っていたが、それでもやはり落ち込んだ。

 

 しばらく沈黙が続いたあと裕子は気持ちを整理する意味を込めて口を開いた。

 「うん。大丈夫」

 裕子の言葉に健介はなにも答えず、ただお辞儀をするように頭を少し下げた。

 裕子は明るく続けた。

「健介、ここは笑うとこなんだよ。『大丈夫』っていう健介の十八番をとったんだから」

「ああ、そうか」

 そういうと健介は力なく笑った。

 

 

  

 

 結局、こうやって裕子の恋愛は終わった。ちょうどその頃に知り合ったのが隼人だった。隼人は健介とは違い、自分の足で立っていた。健介のように親に言われるままにしか生きられない男とは違っていた。たくましく野心に満ちていた。

 

  

 隼人はキャバ嬢という仕事を理解していた。接客の重要性や厳しい競争の中で裕子が努力していることもわかっていた。裕子は隼人と一緒にいると気持ちが穏やかになり落ち着いた気分でいられた。

 

 間違いなく隼人は魅力的な男性だったが、そもそも裕子は結婚など考えたこともなかった。その裕子が隼人のプロポーズを受け入れる気持ちになったのは、健介と別れたことが影響している。あのとき健介には「大丈夫」と答えたが、心の中では傷ついていた。「健介があきらめた理由」に納得できないものがあったからだ。ちょうどそのタイミングで隼人と出会いつき合いはじめた。プロポーズを受け入れる気持ちになったのも、健介に対する意趣返しという意味合いがなくもないかもしれない。そのあたりはなんとも微妙だが、元来人間とは自分のことはわからないものだ。

 

 それをさておくなら、あと一つプロポーズを受け入れる気持ちになった出来事がある。それは隼人の奥さんと会ったことだ。奥さんが素敵な人だったことも関係しているかもしれない。考えようによっては、隼人の奥さんが背中を押したともいえる。

 

  

 隼人には妻と5歳になる女の子がいた。隼人の話では「妻とは性格が合わない」とのことだったが、そうした感情は年数を重ねた夫婦にはよくあることだ。裕子はできるだけ隼人夫婦の諍いについてはかかわらないようにしていた。「うまくいってない」とはいえ、まだ二人は戸籍上は夫婦である。その二人の間にキャバ嬢の裕子が入るのはトラブルが大きくなる要因でしかない。また、マナー違反とも考えていた。

 

 

 

 ある日、隼人の奥さんからお店に電話があった。

 「一度会ってお話がしたい」

 裕子は夫婦の諍いに巻き込まれるのは気が進まなかったが、けじめをつける意味で会ったほうがよいと思った。



 隼人の奥さんは想像していたよりもきれいな人だった。「性格がきつい」と隼人は話していたが、実際に会ってみると話し方も穏やかで優しい感じの人だった。裕子は隼人の奥さんをいい意味で「面白い人」だと思った。一般的に、夜の仕事とか水商売を知らない女性はキャバ嬢のような仕事をしている女性に対して偏見を持っているのが普通だ。もっと言うなら「蔑視する」と言ってもいい。しかし、隼人の奥さんはそのような雰囲気を微塵も感じさせなかった。

 

 隼人の奥さんが「会いたい」と思ったのも、「けじめをつけること」が目的だったようだ。奥さんは裕子と話をして納得したようだった。最後に席を立つときの言葉がそれを示していた。奥さんはこう言ったのだ。

 

 「それでは隼人をよろしくお願いします」。

 

 

 

 

 裕子はプロポーズを受け入れることを決めたとき、キャバ嬢を辞めることも決めていた。最後の勤務の日、真由美とお別れの言葉を交わした。

「裕子とも今日で最後なんだね」

「真由美、これまで仲良くしてくれてありがとね」」

「こっちこそ、わたし裕子がいたから続けられたと思ってる。でも、裕子が幸せになるんだったらそのほうがいいから。幸せになってね」

「うん」

「裕子、わかってると思うけど歌舞伎町に戻ってきたらだめだよ」

 裕子は大きくうなづいた。真由美は最後まで親友であった。

 

 

 

 

 

 裕子はソファに座りながら、これまでのことを思い返していた。もし、タイミングが少しでもずれていたなら、このソファにこうして座っていることもなかったろう。おそらくキャバ嬢を続けていたはずだ。裕子は人生の機微を思わずにはいられなかった。

 

 

 

 留守番電話がなった。3回コールしたあと応答がはじまった。

 

「ただ今、電話に出ることができません。ファックスの方はそのまま送信してください。御用のある方はピーっとなったあとにご用件をお話しください」


 …ピー。

 

「あ、お父さん? あたし。しばらく会ってないからどうしてるかなぁって思って。大人の世界はいろいろあると思うけど、あたしは男の人の中ではお父さんが一番好きだから。また、遊びに行こうね~。それじゃ、バイバ~イ」


 かわいらしい女の子の声だった。父親を慕う気持ちが伝わってくる愛くるしい話し方だった。




 電話が切れたあと、裕子は留守電の点滅する赤い光をずっと眺めていた。暗い部屋の中で赤い光だけが点滅していた。


「…バイバ~イ、か…」

 

 裕子は声にならない声でつぶやいた。

 

 裕子は顔を上げ視線を仄暗い天井に向けた。それから、視線をテーブルに落とした。

 

 

 …ふぅー。

 

 

 裕子は大きなため息をついた。組んでいた足をほどき、ゆっくりと立ち上がった。バッグを手にして玄関に向かい、ハイヒールを履きドアの外に出て鍵をかけた。廊下は静まり返っていた。裕子のハイヒールの足音だけが響いた。

 

 カツーン、カツーン、カツーン…。


 エレベーターで1階に降り、エントランスを通り過ぎ、道路に出た。春になったとはいえ夜になると外気は冷たい。裕子はコートに首をすくめ歩き出した。しばらく歩いていると、後方から車のライトが照らした。振り返ると空車のタクシーが向かってきていた。裕子は手を挙げた。

 

 60才は越えていそうな運転手さんがハンドルを握っていた。ドアが開き座席に座ると運転手さんが首だけをうしろに向けて尋ねた。

「どちらまで」


 裕子が窓の外を見たまま答えないでいると、運転手さんはルームミラーで後部座席をチラッと見た。そして今度は上半身全体をうしろに向けて尋ねた。

「どちらまで行きましょうか?」


 裕子は一呼吸置いてから答えた。

 

「歌舞伎町までお願いします」


 タクシーは裕子を乗せて走り去った。




おわり。

最後までお読みいただきありがとうございました。

♪挿入歌「涙のシークレットラブ」ダウンタウン・ブギウギバンド

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