前編
夏南視点です。
人を好きになるということが、こんなに嬉しさをもたらすものとは知らなかった。
恋愛と縁遠かった自分が初めて付き合うことになった上司、君島堅一は、始まり方こそ人に言えるようなエピソードではないが、自分をとても大切にしてくれている。夏南のペースに合わせ、夏南のしてほしいことを一緒にし、楽しんでくれている、と思う。
そんな堅一に、何か返せないだろうかと言うことが、遠藤夏南の最近の悩みごとだった。
「夏南、彼氏でもできた?」
「ばふぁっ!」
飲んでいた水が気管に入ったのか、盛大にむせる。
「ちょっと大丈夫?あー正面にいなくてよかった」
夏南を心配しているようで、自分のことを一番心配しているのは花岡真子、夏南の同期の1人である。
今日は一緒に、ランチに来ていた。
「花ちゃん?急に何言うの!」
「だってあんた、最近変わったもん。何て言うか、雰囲気?だから彼氏でもできたかなーって」
どうなのよと詰め寄られて、夏南はとっさに何も言えなくなる。
こういうとき、どうかわしていいか分からない。
ただでさえ相手は、勘の鋭い真子なのだ。
「お・・・お察しの通りです・・・」
「あーやっぱり。で、相手は?いつから?どっちから?あ、そりゃ相手よね」
「う・・・」
答えに詰まる。
絶対に隠しておこうと決めたわけではないが、夏南が勝手にばらして堅一に迷惑がかかったら困る。
「相手に関しては、ノーコメントでお願いします・・・」
絶対に突っ込まれると思ったが、意外にも真子は「ふうん」の一言でスルーし、注文していたランチセットを受け取って食べ始める。
夏南が注文していたメンチカツセットも来た。サクサクの衣がおいしそうだ。
「いつから?」
「先月の中頃」
「あら、私としたことが1ヶ月以上も放置してたなんて」
そういう真子の声は少し悔しそうだ。
「何て言って告白されたの?」
「あー・・・うー・・・」
「なんだ、お前らもこの店だったのか」
答えに窮する質問に返答できずに声をかけてきたのは、森田雄輔だった。
「森田、1人ならこっち来なよ。面白い話が聞けるから」
「お、何?」
森田はさっさと夏南の隣に座る。夏南は2人に挟まれる形になった。
「夏南に彼氏できたって」
「ちょっと花ちゃん!」
「何!?うわー先越されたー!」
森田は会社の先輩にずっと片想いしている。
それは本人から暴露済みで、夏南と真子は「だから協力しろ」と無理難題を要求されている。
「どこの誰だよ?」
「それがねぇ、ノーコメントなんだって」
「・・・ふうん」
「2人して同じ反応って、なんか怖いんですけど」
「まあまあ。相談とかあったら話聞いてあげるからさー」
「相談・・・」
夏南が食べる手を止める。
「お、その様子じゃああるな。何?お姉さんに言ってごらん?」
「お前、絶対楽しんでるだろ」
森田は的確に真子の心情を言い当てる。
「あのね、何ていうかね、私ばっかりもらってばっかりだなぁって・・・」
「何?貢がせてるの?」
「違うよ!そうじゃなくて!・・・甘えてばっかりっていうか。向こうが年上ってこともあるんだろうけど、全部私に合わせてくれてるんだよね。たまには、何か、相手に返すことができないかなって」
「はー幸せな悩みだねー」
真子はわざとらしくため息をついて見せた。
「プレゼントとかは?」
「それは・・・誕生日とかにとっておきたい・・・」
「それもそうだね。んー。森田、男の意見は?」
いつの間に注文していたのか、唐揚げ定食を食べている森田に話を振る。
「最近付き合い始めたんだろ?彼女が何してもうれしいんじゃねぇの?」
「参考にならない!もう少し具体的には?」
何故か真子の方が熱心に聞き出してくれている。
「そうだなー・・・してもらってうれしいことを返す、とかは?」
「ああなるほど。そういう手もあるか。夏南、どう?何かない?」
「おいしいご飯作ってくれる」
夏南の答えに、両脇の2人は「だよね」と即答する。
「え、何で分かるの?」
「夏南落とすのに、料理は不可欠でしょ」
「遠藤を落とすほどの料理上手な男か。会ってみたいもんだ」
「とりあえず、相手の好物でも聞いてみれば?さりげなく」
「うん、そうする」
これ以降、同期3人で、夏南の恋愛相談会を時折開くことになったのだ。
10月に入ったある金曜日。
今日も3人は、ランチに来ている。
「花ちゃーん!どうしよう!好きな物、お寿司だって!」
「寿司ぃ!そりゃまたハードルが高いな・・・」
先日、堅一に聞いた成果を報告する夏南に、真子は頭を悩ませた。
「なんかこう、もっと手作りって感じの物聞いてこれなかったの?」
「私の腕では、これが精いっぱいでした・・・」
「寿司ねぇ・・・寿司なんて、弟子入りして年単位の修行が必要じゃない?」
「そうだよね・・・」
それは夏南も考えたことだ。どうしたらいいだろうか。
「あ、そうだ!手巻き寿司は?」
「あんまり手料理って感じがしないかなって」
「確かにねー」
それまで黙っていた森田が、口を開いた。
「ちらし寿司は?」
「ちらし寿司?」
「そう。具とか飾りによっては結構華やかだろ。俺が通ってる料理教室で、ちょうど今日やるんだよ。来る?」
「え、そんなに突然で行けるの?」
「体験教室ってことにすれば大丈夫。連絡してこようか?」
森田に後光が差して見える。夏南はつい、祈りをささげてしまった。
「森田様・・・!」
「おー森田、すごいじゃん。じゃあ、そこでしっかり学んでおいで」
「あ・・・でも今夜、デートの予定だった・・・」
堅一との約束を思い出す。今日は一緒にご飯を食べようと言っていたのだ。
「そうか。じゃあ俺が学んできたことをレクチャーしようか?」
「でも・・・私、あまり料理できないから、自分でちゃんと先生に習った方がいいかも。うん、今日のデートは、うまく断るよ」
「大丈夫?あんた、嘘とか苦手でしょ?」
「う・・・頑張る・・・」
その場でスマホを取り出し、うんうん悩みながらメールを打つ夏南を、2人はほほえましく見守るのだった。
終業後、森田のもとに慌てて行き、一緒に料理教室に連れて行ってもらった。
4人一組でちらし寿司を作ったのだが、教え方がうまいのか、とてもいい出来だった。
(これなら、主任も喜んでくれるに違いない!)
あまりの出来に、夏南は興奮した。
まずはこれを、1人で作れるようにならなくては。
明日は友人の結婚式で、作ることができない。
リゾート地での結婚式のため、小旅行気分で1泊2日にしたのだが、少し早めに帰り、ちらし寿司を作ることにしよう。
友人の結婚式は、とても素敵なものだった。
夏南は、結婚式というものに初めて参列したが、友人の幸せそうな笑顔に、思わず涙ぐんでしまった。
(好きな人と一緒にいて、それをみんながお祝いしてくれるって、いいなぁ・・・)
堅一の顔が浮かぶ。
自分たちもそんな風になれるだろうかと考え、1人先走っていることに赤面する。
(とにかくちらし寿司!そこからだよね!)
決意を新たに、夏南は自宅に帰ってきた。
そしてもらったレシピを見ながら作ってみたのだが。
「あれ・・・?なんかうまくいかない・・・」
見た目は、悪くない。
けれど、よくもない。
やはり料理教室の時は、夏南以外の3人がうまく作ってくれたのだろう。
「う・・・これは・・・かなり練習が必要かも・・・」
落ち込みつつ、もったいないので作った分はきちんと食べることにした。
翌日の月曜日は、仕事が立て込んでいて、夏南も残業をした。ほとんどのメンバーが残っており、堅一も一緒だったので、夏南は少し嬉しかった。
火曜日は、堅一が会議の日だ。夏南は定時すぐに上がり、またちらし寿司を作った。
この間よりはうまくできたが、まだ食べてもらいたいと思えるレベルにならない。
早く堅一に会って、食べてほしいのに。
結婚式がすごく素敵だったという話もしたい。写真も見てほしい。
でも、中途半端なことはしたくない。
「ううううううう」
何がいけないのだろうかと悩みながら、自分で作ったちらし寿司を平らげた。
「どう?夏南。ちらし寿司、うまく行きそう?」
翌日の水曜日。
恒例になってきた同期3人でのランチで、真子が聞いてきた。
「それが・・・うまくいかなくて・・・」
「そうなの?意外と難しいのかな。ちらし寿司。市販の素使ってしか作ったことないけど」
「そこまで複雑ではなかったけどな。1つ1つの具材を用意しておくのは、結構手間か」
一緒に習ってきた森田は簡単そうに言うが、それは森田が料理教室に通って結構経つからだろう。
例の先輩が、バリバリのキャリアウーマンで、「理想の男性は家事がしっかりできる人」と言っているのを聞いてから習い始めたらしい。
「どうしよう・・・今日デートなんだよぅ・・・」
「いいじゃん別に。それはそれとして楽しんでくれば」
「でも私、隠し事とか絶対顔に出るし・・・。おいしい手作り料理食べたら、習ったちらし寿司全部忘れちゃう・・・」
夏南はあまり器用なたちではない。2つのことを同時にこなせないのだ。
「・・・やっぱり今日も断ろう」
「大丈夫?そんなに断ったりして」
「・・・大丈夫、だと思う・・・」
本当は会いたかった。
ずっと2人で会っていない気がする。
顔だけは、会社で見てはいるが。
スマホを取り出し、沈んだ顔でメールを打つ夏南を、2人は心配そうに見守っていた。
『件名:ごめんなさい
本文:しばらく、一緒にご飯できないです。
ごめんなさい。 夏南』
結局、こんなメールを送り、その日も早く帰ってちらし寿司作りにいそしんだ。
1人で作るようになって、もう3回目。
それでも。
「なんか違うんだよなぁ・・・」
自分で食べながら考える。
次第に、正解の味が分からなくなってきた。
これはおいしいのだろうか。おいしくないのだろうか。
1人で作ることに限界を感じていると、スマホがメールの受信を知らせた。
堅一からである。
『次の土日、予定はどうだ?会えそうかな?』
会いたい。
会って話したい。
堅一のおいしい料理が食べたい。
手を繋ぎたい。
ぎゅっと抱き締めてほしい。
でも。
『ごめんなさい。土日もちょっと予定が立て込んでて・・・なかなか時間を作れなくてすみません。もう少しだけ待ってください』
まだ、だめだ。
そのまま、新規メールを作成する。宛先は同期の2人だ。
『件名:助けて!
本文:ちらし寿司作りがうまくいきません。2人とも、次の週末空いてない?食べに来てくれないかな?』
「予定が合うといいんだけど・・・」
そう1人でつぶやきながら、ネットで『おいしいちらし寿司の作り方』を検索し、いろいろな情報をかき集めるうちに、夜中になってしまった。