後編
月曜日。
今日も夏南は終業後すぐに帰っていった。
堅一もすぐに行動を起こしたかったのだが、残念ながら仕事が終わらなかった。
1時間ほど残業し、ようやく1階下のフロアにやってきた。
すぐに目的の人物を見つけ、声をかける。
「森田、ちょっといいか」
「あ、はい」
幸い、森田も残業組だったらしい。
人気の少ない廊下の端に行き、堅一はできるだけ静かに、話を切り出した。
「悪いな。直接仕事の話と言うわけじゃないんだが」
「いえ、大丈夫ですよ。何でしょうか?」
気のせいだろうか。森田は呼び出されることが分かっていたように感じる。
これまで、お互い顔と名前くらいは知っているが、直接話したことはなかったはずだ。
それなのに、こうもすんなり着いてくるとは。
「うちの遠藤とは同期だったよな。最近、どうも仕事が上の空で・・・。同期の君なら、何か聞いているんじゃないかと思ったんだが」
「上の空・・・ですか」
「ああ、仕事が手についていない。いつもよりさらにミスが増えているし、ぼーっとしていて人にぶつかるし、重要書類をシュレッダーにかけようとするし。危なっかしくて見ていられん」
「はあ。君島主任は何も聞いていないんですね?」
言外に、俺は知っていると言われたような気がして、じりじりと焦燥感が沸き上がる。
そして次の一言が、決定打だった。
「はぁー、遠藤も不器用だなー」
だんっ。
「お前に夏南の何が分かる!」
気が付いたら、森田の胸ぐらを掴んで壁に押し付けていた。
目を丸くしている森田を見て、堅一は我に返る。
「・・・すまない、取り乱した」
手を離すと同時に、
「ぶっはぁー!!!」
急に森田が噴き出し、腹を抱えて笑い始めた。
「君島主任が取り乱すなんて・・・!遠藤はよっぽど愛されてるんですねー。あ、すみません。笑ったりして。ちょっと羨ましくって。えーと、遠藤の話でしたよね」
憮然としている堅一を見て、さすがにやばいと思ったのか、森田が話を戻した。
「信じてもらえるか分かりませんが、俺と遠藤の間には何もないですよ。後のことは、本人に聞いた方がいいと思います」
「直接本人に聞いて大丈夫だろうか?」
「大丈夫です、全然。えーと、君島主任は、今日はもう上がりですか?」
「ああ、仕事は終わらせてきた」
「じゃあ、ちょうどいいくらいかな。遠藤の家に行ってみるといいですよ。住所分かります?」
「・・・知らない」
大体の場所は把握しているが、細かく住所を聞いたことはなかった。
堅一の会社は個人情報保護の観点から、管理職以上ではないと、直属の部下といえども住所などは知らされないようになっている。
不本意ながら森田に聞き、そのまま夏南の家に向かう。
森田が夏南の住所を知っているというだけで、かなり動揺したのだが、それをあっけらかんと言ったということは、森田には何も後ろめたいことがないということだろう。
急に訪ねて言って、拒否されないだろうか。
夏南のマンションに着いた。
オートロックのマンションによくある、集合インターホンだ。
緊張して震える指で、夏南の部屋番号を押す。
呼び出し音が3回鳴って、声が聞こえた。
『はい』
「夏南。俺だ」
『えっ主任!?え、え、どうしてここに?』
「入れてくれ。・・・だめだろうか」
『主任、体調悪いんですか?顔色が・・・。うちでよければ休んで・・・あ、でも、ちょっと・・・どうしよ、えっと、主任!5分だけ待ってください!片付けますんで!』
「分かった」
インターホンのカメラで分かるくらい、そんなにひどい顔色をしていたのだろうか。
食事と睡眠は普通にとっていたつもりなのだが。
5分ほどして、夏南がエントランスまで迎えに来た。
「どうしたんですか?主任。よくうちが分かりましたね」
そう話しかけてくる夏南は、いつもと変りなく見え、堅一はほっとする。
「森田から聞いた。直接話した方がいいって」
「・・・森田君?もう、まだだって言ったのに!」
「え?」
「な、なんでもないです。とりあえず、上がってください」
堅一は初めて、夏南の部屋に足を踏み入れた。
「・・・この匂いは・・・」
「うっ」
「・・・寿司酢?」
「やっぱり、分かっちゃいますか・・・」
玄関に入ってすぐに、特徴的な匂いが鼻を突いた。
「どうして寿司酢の匂いなんか・・・」
夏南を見ると、半分泣きそう、半分あきらめた顔で、部屋の奥に入るよう堅一を促した。
「全部話します・・・」
話すと言った夏南の言葉を信用していないわけではないが、黙っていられず、ソファに腰を下ろすなり尋ねた。
「なんで寿司酢なんだ?」
「ちらし寿司を作ってたからです・・・」
「ちらし寿司?食べたかったのか?」
それなら自分に言えばいいのに。夏南のリクエストなら、どんなアレンジのちらし寿司でも作ることはできる。
「食べたかったんじゃなくって・・・食べてほしかったんです」
誰に?と聞こうとして、夏南の視線に気づき、思い止まる。
見つめる先にいるのは・・・
「俺、に?」
「はい」
「どうしてちらし寿司を?」
「主任、少し前に、言ったじゃないですか。好きな食べ物の話をしたときに、お寿司が好きだって」
「・・・ああ、言ったか。え、それで?」
夏南が頷く。
「さすがに握り寿司だと修業が年単位になっちゃうんで、花ちゃんと森田君に相談したら、森田君が通っている料理教室でその日ちょうどちらし寿司をやるから、体験ってことで参加したらどうかと言う話になって」
「はあ」
花ちゃんと言うのは、夏南の同期の花岡真子のことだろう。
「それで、先々週の金曜日に、連れていってもらったんです。ちらし寿司なんて、素を使って作ったことしかなかったので」
なるほど確かに、あの日は急に入った用だったらしい。
「料理教室の日はうまくいったんですけど、その後1人で作ったら、うまくできなくて。何度も練習してたんです」
「だから、しばらく一緒に食事できないと?」
「ごめんなさい。忘れないうちに作れるようにならなくちゃって。主任の美味しいご飯食べたら、習ったことを忘れそうで・・・」
「土日も作ってたのか?」
「あ、はい。あまりにうまくいかないんで、意見を聞こうと思って、うちに森田君と・・・」
「ここに呼んだのか?」
「え?あ、はい・・・」
盛大にため息をついた堅一に、夏南がビクッと縮こまるを感じたが、これに関しては一言言わなくては気が済まない。
「夏南。いくら仲がよくても、女の独り暮らしの部屋に男を呼ぶのはどうかと思う」
「花ちゃんも一緒でしたよ?」
「え?」
聞き返すと、夏南が頬を膨らましていた。
「さすがに私だって、森田くん1人をうちにあげたりしませんよ。花ちゃんと一緒です。2人にアドバイスをもらおうとして・・・すみません。その時、お付き合いしてるのが主任だってばれちゃいました・・・」
「それは構わないが。そうか・・・2人きりじゃなかったのか」
ほっと息を吐くと、夏南が不思議そうに堅一を見る。
「主任、先程から森田くんをずいぶん気にしてませんか?もしかして」
「嫉妬だよ。文句あるか?」
とっくに自覚はしていたので、さっさと自白する。
こういうことは、人から指摘される方が恥ずかしい。
あっさり肯定した堅一に、夏南は少し目を丸くしたが、安心させるためだろうか、全く心配ないと言った。
「どうしてそう言える?」
「だって森田君、瑞枝さんのことがずっと好きなんです」
「瑞枝って・・・吉川瑞枝か?」
吉川瑞枝は夏南の3つ上の先輩で、教育係だ。
仕事熱心なキャリアウーマンで、人にも厳しいが自分にはもっと厳しいという、ストイックな女性だ。
確かに、後輩から尊敬されやすいのだが、まさか森田が恋愛感情を抱いているとは。
「大体、私を恋愛対象として見てくれる人なんて、主任以外いませんよ」
「そんなことない。噂になってたらしいぞ。最近、夏南が綺麗になったって」
韮崎の言葉を思い出し、苦虫を噛み潰したような顔になる。
「だってそれは」
夏南の言葉に堅一が顔を上げる。
「主任とお付き合いしたからだと思いますよ?」
「・・・え?」
「今まで、そんなこと一度も言われたことなかったですもん。変わったことは、それだけです。だからきっと、たぶん、そうなんです」
えへへと笑った夏南を、堅一は見ていられなかった。
顔が熱くなるのが、自分でも分かる。
手で口元を覆い、そっぽを向く。
自分と付き合うことで、夏南が綺麗になったのだとしたら、それは何て嬉しいことだろうか。
「主任?」
急に顔を隠したことをいぶかしんだのだろう。夏南が覗きこむようにして、堅一の顔を見る。
「え?主任・・・」
「なんだ」
「照れてるんですか?顔、真っ赤・・・」
「静かにしなさい」
「嘘、主任が照れるなんて!レアです!もっと見せてください!」
よく見えるように、もっと覗きこもうとした夏南の顔を両手で挟み、少々乱暴に唇を重ね合わせる。
「静かにしなさいと言っただろう」
顔の熱は、夏南にうつったようだ。目の前には、ゆでだこがいる。
「ひ、ひどい!口封じに使うなんて・・・!ファーストキスだったのに!」
「・・・それは悪かった」
夏南のぷりぷりとした言い方に、つい笑みがこぼれてしまう。
「夏南」
「なんですか、もう!」
今度はそっと、夏南の顎に手を添える。
ゆっくりと顔を近づけると、夏南も目を閉じた。
そっと重ね合わせる。
今度は、もっと、丁寧に。
離れると、夏南と目が合った。
その照れた顔が可愛すぎて、つい抱き締める。
しばらく、夏南の体温を感じながら、堅一はここのところ不足していた分を充電した。
「夏南」
「なんですか?」
「せっかくだから、食べさせて。ちらし寿司」
「ええ!まだ練習中だって・・・」
「いいから」
「・・・分かりました」
堅一から離れ、冷蔵庫から大皿を取り出す。
テーブルに乗せ、小皿やお茶、箸を並べ、2人で遅めの夕食にした。
「いただきます」
「お口に合えばいいんですが・・・」
一口含むと、寿司酢の香りが口の中に広がる。
市販の物とは違う、手作りの味は、どこか懐かしさを感じた。
「おいしいじゃないか」
「そうですか?でも、主任にはまだまだ敵いません・・・私も、もう少し上手になりたいです」
「まあ、経験値が違うからな。今度は一緒に作ろうか」
「本当ですか!教えてください!」
ぱあっと顔を明るくして夏南が言う。
2人で食事するのが、すごく久しぶりのように感じる。
夏南の手料理を味わいながら、堅一は疑問に思っていたことを聞く。
「どうして急に手料理を作ろうと?」
夏南は料理が得意ではないと以前言っていたはずだ。わざわざ苦手分野に挑戦しなくてもいいのではないかと思う。
「主任にも、感じてもらおうと思ったんです。・・・好きな人に、おいしい物をいつも作ってもらえて、私がどれだけ幸せなのかって。・・・・・・主任?」
堅一は拳骨をこめかみにつけて、肘をテーブルに預け、何とか頭を支える。
「今日は月曜日だよな?」
「え、はい」
「つまり明日は仕事だ」
「そうですね」
「そしてここは君の部屋だ」
「そうですが・・・主任?どうしました?」
当たり前のことを聞く堅一に、夏南は不安を覚えたらしい。
「あまり可愛いことを言うな、夏南。理性が吹っ飛びそうになる」
「私、何か言いました?」
「・・・ああ、うん。俺が頑張るしかないんだよな」
諦めたように、堅一がため息をつく。
「一生分どころか、来世分の理性も使い始めてる気がする・・・」
堅一は生まれ変わりを信じているわけではない。ただ、それくらい我慢しているというだけである。
「そ、そうですか。じゃあ来世の私は、大変ですね・・・」
その夏南の言葉は、完全に堅一の理性の回路を焼き切った。
こんな自分と。
来世も一緒にいてくれるというのか。
夏南は分かっていない。自分の言葉の意味に。きっと深く考えずに言ったのだろう。
だがそれでもいい。そんなことはどうでもよかった。
堅一は立ち上がり、夏南に近づく。
「え?主任?」
訳も分からずにいる夏南の唇をふさぐ。
今度は、もっと強く。
夏南は驚いたようだったが、そのままでいると、体のこわばりが取れてきた。
それを見計らって、夏南の唇を舌で舐めると、驚いたのか体が跳ねる。柔らかいそれを吸ったり舐めたり唇で挟んだりしているうちに、苦しくなってきたのか、夏南がようやく口を開けた。
その隙に滑り込む。夏南の口の中全てを味わうように舌を這わすと、耳に甘い吐息が響く。
「はっ・・・ぁ・・・ん・・・」
煽られるままに、堅一の舌は口から離れ、耳や首筋を伝う。
その度に体を震わせる夏南が、愛しくてたまらない。
「しゅ、にん・・・だめ・・・」
「まだだめか。まだお互いを知るには時間が必要か」
そう言いながらも、堅一は止まれない。
手は夏南の体のラインをなぞるように動き、唇は鎖骨のあたりを味わう。
「ち、がう・・・そうじゃなくて・・・」
「何が違うんだ」
とうとう、手はその柔らかな胸に到達した。
「違うんです!大人なら察してください!できない日があるの、知ってるでしょう!?」
急に半泣きになって叫ぶ夏南に驚き、堅一は両手を上げて夏南から離れる。
その隙に夏南は、堅一から一番遠いところに逃げる。しかも、クッションを胸に抱いている。盾のつもりだろうか。
「夏南・・・その・・・アレなのか」
「そうですアレです女の子のめんどくさい1週間ですよ!だからだめって言ったのに!主任のバカー!」
クッションに顔を埋めて夏南は叫ぶ。
「それは、申し訳ない・・・」
それにしてもタイミングが悪い。
どうして今日なんだ。
この衝動はどこに持っていけばいい。
完全に打ちのめされた堅一がさすがに気の毒だったのか、夏南がクッションから顔を上げて、上目遣いで言う。
「主任」
「・・・なんだ・・・?」
「あの、だから、次の週末まで、待ってくださいね・・・?」
それだけ言うと、夏南はまたクッションに隠れてしまった。
堅一はというと、返事をすることも忘れ、何度も夏南の言葉を反芻するのだった。
翌日から、仕事中の夏南のぼんやりはなくなり、ミスの数も以前と同じくらいに減った。
ここ最近、殺気立って仕事をしていた堅一は、以前のように、いや、以前より少し丸くなったように、周りの人は感じていた。
時々、カレンダーを見ながら「ちっまだ水曜日か・・・」と言うとき以外は。
この後は、夏南視点になります。