七 継続
ターミナル駅からすぐの雑居ビルの二階に、階段を使って上ると、廊下の向こうにすぐに小さな警備会社の入口が視界に入る。
大学を出たばかりの、背の高い短髪の青年は、大きなバッグを肩に背負い、緊張の表情で来客用入口から足を踏み入れた。
カウンターの女性が笑顔で出迎える。
「こんにちは、お約束ですか?」
「・・・こちらに内定を頂いている、豊嶋と申しますが、今月のうちに一度伺うようにとのことで・・・・。波多野営業部長と五時にお約束しています。」
「ああ、うかがってますよ。ちょっとお待ちください。」
女性が事務室内を振り向くと、呼びに行くまでもなく波多野が丸坊主に近い短髪にまったく似合わないメタルフレームのメガネのいつものスタイルで、こちらへ歩いてきていた。
「池田さん、応接室にお茶をお願いしますよ。」
「かしこまりました、波多野部長。」
波多野は豊嶋のまだあどけなさの残るような日焼けした顔をちらりと見て、応接室へと先導した。
ソファーに向かい合って座り、事務の池田さんがお茶を置いて立ち去ると、二人は一口煎茶を啜った。
「貴重なお休み中に、すみませんね。豊嶋さん」
「いえ、早く仕事がしたくて、たまりません。こちらで今日から働きたいくらいです。」
「頼もしいですね。・・・今日は、豊嶋さんの希望の件について、先にお話ししておこうと思いました。」
「はい。」
波多野は再び煎茶を飲んだ。
「新人警護員は先輩警護員とペアを組んでサブ警護員として仕事を始めますが、豊嶋さんはお父上が当社のクライアントになられたとき、警護を担当した、高原晶生警護員にぜひ教えを受けさせてほしいとおっしゃっているんですよね。」
「はい。でもそんな超一流の警護員さんといきなりなんて無理だと父には言ってありますが、俺もいつかはとは思っています。」
「インターンシップで来られたとき、スケジュールがちょうど合ったんで槙野警護員と組んだことがありましたね。どうでした?」
豊嶋は思い出すように目を輝かせ、唾を飲み込んだ。
「プロの警護員さんは本当にすごいと思いました。俺とそれほど年齢も違わないのに・・・。」
「槙野はごくごく若手の部類に入りますからね。一人でメイン警護員を務められるには、最低限あのレベルが必要ということです。まあ、豊嶋さんも早晩そうなれますよ。」
「がんばります」
「うちに、パートタイムではありますが、最古参の警護員達・・・高原や葛城の、直弟子みたいな警護員がいます。豊嶋さんは、彼と組んで仕事を始めてほしいと思っています。」
「その方は・・・・」
「豊嶋さんのお父さんも豊嶋さんもご存じの人間ですよ。」
「あ、もしかして」
応接室の扉がノックされた。
波多野が入るよう返事をすると、長身の豊嶋より背の低い、身長百七十センチくらいの細身の青年が姿を見せた。
明るい茶色の、絹糸のようなさらさらの髪は、女性のショートカットくらいの長さがある。その童顔によく似合う透明度の高い琥珀色の両目が、豊嶋のほうを見て少し笑った。
槙野と同様、豊嶋とほとんど変わらないような、ごく若くみえる警護員だった。
立ち上がった豊嶋のところまで彼を導き、波多野が二人を引き合わせ紹介した。
「豊嶋さん、こちらが・・・河合茂警護員です。うちの、有能なガーディアンですよ。」
豊嶋は、僅か数年前に一度会っているはずの相手に、今初めて会うような思いがして、深く一礼した。
街の中心にある古い高層ビルの高層階にある事務所の、奥の社長室にひとりの背の高い女性が扉をノックし入っていった。
社長室と呼ぶには簡素なつくりの、個人の書斎のような部屋には、端正な紳士と平凡な容姿の眼鏡の女性とが中央の円テーブルに座って待っていた。
眼鏡の女性のほうが立ち上がり、入ってきた背の高い女性を紳士のほうへと導いた。
「森宮くん、新任研修終了おめでとう。」
「ありがとうございます。大学の勉強との両立で、一時ブランクとなり、時間がかかってしまいましたが、ご配慮いただきまして感謝申し上げております。」
金茶色の髪をきちんと整え異国的な顔立ちに映える深い緑色の目をした、部屋の主は、ふたりの女性を前に祝福の笑顔を見せた。
「森宮さんは今日から、正式に恭子さんのチームのメンバーだよ。」
「はい。」
吉田恭子は眼鏡の奥の静かな両目で、上司のほうをちらりと見た。
阪元航平はその視線に気がつき少し顔を傾け笑った。
「ごめんごめん、森宮くんの大事な上司を下の名前で呼んでしまって。でも私の癖なんだ、許して。」
二人の女性は寛大に微笑んだ。
森宮は女性にしてはかなり高い身長に、少年のようなショートカットの髪型をしている。
「研修中にお世話になったチームの皆さんから、社長のいくつかの特徴についてはうかがっておりました。」
「へえー。例えば?」
阪元は楽しそうな顔で森宮の、吉田によく似た深い湖のような両目を見た。
「とってもコーヒーがお好きで、淹れるのがお上手だと。」
「うん。」
「それを社員にいつも飲ませてくださると」
「そうなんだよ」
「でもお悩みをお持ちのときは、社員がとても長い間社長室に拉致されてしまうと」
吉田が笑いをこらえているのがわかった。
「それは・・・誰に聞いたのかな?」
「リーダーの庄田さんです」
「そ、そのほかには・・・?」
遠慮がちに瞬きをし、森宮は阪元の顔を見て微笑した。
「社員を、とても愛してくださっていると・・・。ミッションを遂行していく上で、我々には少し面倒なライバルがいるけれど、どんなときも・・・社員をお守りくださっている、と。そうおっしゃっていました。」
「・・・新人エージェントになんだか色々既に重いものを予感させてしまってるね。困ったものだ、庄田にも。」
ついに吉田が声を出して笑った。
「社長、あきらめてください。うちのチームの深山が、さらに色々なことを教えるでしょうから。」
「・・・・そして酒井もね。・・・森宮くん、とりあえず深山っていうエージェントが何か言ってても、軽く聞き流すように。」
「は・・・・」
「あれはただのバカだから」
「・・・あ、社長の弟さんの、優れたアサーシンさんのことですね。とてもお兄さん想いでおられるって、・・・・」
「浅香が言ってた?」
「はい。」
「忘れなさい。・・・酒井については?」
「庄田さんがおっしゃるには、社長のご意見番でいらっしゃるのに、若干素行に問題がおありだと」
「あははは」
「でもリーダーの吉田さんと、それからチームの和泉さんには絶対かなわないんだそうです。吉田さんのチームで困ったことがあったら、深山さんや板見さんじゃなくて吉田さんと和泉さんを頼るようにとのアドバイスをいただきました。」
「あはははははは」
笑い過ぎて咳き込みながら、阪元は奥のカウンターへ行きコーヒーセットを持って戻ってきた。
繊細な磁器のコーヒーカップとソーサーが三組、円テーブルに置かれ、阪元がポットから熱いコーヒーを注ぐ。
「おいしいです」
社長と吉田とともにテーブルに座りコーヒーを飲んだ森宮が、嬉しそうに言った。
「川西様はお元気かな?」
「はい。ご親戚のかたと最近は南米旅行がマイブームになっているんだそうです。」
「すごいなあ。・・・森宮くん、君が一人前のエージェントになったら、ご紹介くださった川西様も喜んでくださるだろう。まあ、我々のお客様には、もうあまりなられないことを祈りつつだけれど。」
吉田が静かに微笑んだ。
「幸福に生活しておられるかたには、うちの会社は必要ありませんからね。」
「はい。・・・・私、立派なエージェントになります。」
「うん」
「吉田さんのような・・・。どんなものにも、負けない、エージェントになって、困っておられるお客様たちを一人でも多くお手伝いします。」
「そうだね。・・・君は、たぶん、とっても強い。・・・うちの会社はね、まだいくつものことが、途中なんだ。社長の私は、皆に助けてもらって毎日仕事してるんだよ。恭子さんみたいな、頼れる人たちにね。」
阪元は微笑し、もう一度新人エージェントの顔を見た。
「やっぱり、わが阪元探偵社の伝統かな。女性がすごく強いのって。」
言ってすぐに、やや言い訳するような表情で、阪元は隣の吉田の顔を見た。
吉田は眼鏡の奥の静かな両目に慈愛の色を満たし、言った。
「社長。それは正確な表現では、ありませんわね。」
波多野が応接室を去った後、茂は、向かいのソファーで背筋を伸ばして座ったままの、しかし何か言いたげな様子の豊嶋のほうを見た。
「あ、高原さんたちは、今日はたぶん後1時間くらいしたら事務所に見えますよ。改めて、先輩たちにご紹介できますけど、それまでの間、外で食事でもしましょうか。」
「ありがとうございます。高原さんは、この大森パトロール社ができたときからおられる数少ない警護員さんたちの一人なんですよね。」
「うちはまだまだ若い会社ですけど、警護員たちは皆優秀だって言われてます。そして特に・・・当初からおられる四人の先輩警護員たちは、本当の意味で超一流の警護員です。早くペアを組めるようになるといいですね。」
「高原さんと、葛城さん、それから・・・・」
「山添さん・・・・そして月ヶ瀬さん。皆さん、それぞれに個性が違っておられます。そして、後輩をとても大切に指導してくださいます。山添さんは、貴方が以前職場体験のときに組んだ槙野さんを、育てたかたですし。」
「そして、河合さんは・・・・」
「ええ、葛城さんとずっとペアを組ませてもらいました。高原さんとも、山添さんとも、月ヶ瀬さんとも。」
羨ましそうな表情の豊嶋に、茂は微笑した。
唾をのみ込み、生き生きとした目で豊嶋は先輩の顔を見た。
「来月、入社したら早々に最初の仕事をさせていただけると伺いました」
「そうですね。今、俺が単独で準備中の、単発の案件がひとつあります。サブ警護員として入ってもらいます。」
「ありがとうございます。・・・今日は山添さんも月ヶ瀬さんもこちらへ?」
「えっと・・・月ヶ瀬さんは今日は非番ですね。山添さんは葛城さんより少し遅れて到着されると聞いてます。・・・まあ、月ヶ瀬さんに会うのは、もう少し後でもいいかも・・・・」
「?」
茂は軽く咳払いをした。
夕日が街のビルの間を縫って輝き、すぐに宵の三日月が静かに姿を見せた。
阪元探偵社の若き社長は、しばらく一人でいた部屋に、やがて別の社員を迎えていた。
「失礼します」
「こんばんは、庄田。仕事はもう終わった?」
「はい」
一礼して入ってきたシニア・エージェントは、その涼しげな切れ長の両目を上司に向け、意外そうな表情になった。
「・・・なんだか社長、楽しそうでいらっしゃいますね。」
「特にそんなはずはないんだけどなあ」
「でもよかったです。吉田さんから、社長がお怒りかもしれないから用心するようにとのメールを頂いていましたので」
「あははは」
既にテーブルに用意してあったポットに阪元が手を伸ばそうとすると、庄田が近づいて申し出た。
「たまには、私に手伝わせてください、社長。」
阪元は秘蔵の宝物を見つめるような表情で部下の顔を見て、その深いエメラルド・グリーンの両目を瞬き、そして笑った。
「ありがとう。それじゃ、お願いしようかな。」
テーブルの上のコーヒーカップに庄田がポットからコーヒーを注いでいる間に、阪元は窓際の自分の机まで行き、パソコンで一曲の音楽を再生し始めた。
それは庄田が聞き覚えのある曲だった。
テーブルに戻り、部下とともに座ってコーヒーを飲み始めた阪元に、庄田が尋ねる。
「社長、この曲は・・・・」
「うん。いつか、祐耶に聞いたことがあって」
「あの教会で、耳にしたとき、深山さんが歌詞を教えてくれました。」
「どうせ祐耶のことだから、日本語じゃなく英語に訳したんだろうね。」
庄田は笑って頷いた。
「はい。・・・たしか、オペラの曲だと。」
「ヴィヴァルディのオペラ、『Giustino』に出てくるアリアだよ。」
「はい」
「タイトルは、『Vedro con mio diletto』。」
短い曲が終わり、阪元は目を閉じて、歌詞を日本語で暗唱した。
「私は大きな喜びを持って愛する者に会うだろう。
私の心の中の心、魂の中の魂の、喜びをもって。
そしてもしも愛する者が遠くに離れるなら、
私は哀しみの溜息に苛まれ続けるだろう。」
庄田が目を伏せ微笑した。
「シンプルな歌詞ですね。」
「そうだね。」
「・・・もう一度、曲を聞かせて頂いても、よろしいですか?」
「いいよ。」
阪元はパソコンで曲を再び流した。
歌声が、静かに部屋に満ちた。
Vedro con mio diletto.
l'alma dell'alma mia, Il core del mio cor pien di contento.
E se dal caro oggetto, lungi convien che sia.
Sospirero penando ogni momento.
茂は後輩を促し、応接室のソファーから立ち上がった。
「それじゃ、そろそろ行きますか」
「はい。」
「なんだか、緊張してます?豊嶋さん」
「は、はい」
「俺も初めて先輩達に会ったときは、そうでした。まあ、あまり硬くならずに・・・。食べ物は、好き嫌いはありませんか?」
「はい、何でも好きです。」
「それはなにより。」
豊嶋が自分も立ち上がり、笑った。
「今日、本当は高原さんから過去の警護案件をいくつかレクチャーして頂けるはずだったんですが、それは来月までちょっと待っててくださいね。今日は顔合わせだけで、そのまま俺も高原さんたちも別件で出なくてはいけなくて。」
「はい。」
茂は少し目を伏せ、微笑した。
「平日昼間勤めてる会社の、同期が婚約したんですよ。そのお祝い会で。高原さんたちも呼ばれてます。」
「おめでとうございます。でもそれ、親父も行くらしいです。高原さんから聞いて。児童館で今もボランティアで舞教室をしていただいていて、すごくお世話になっているので絶対行くって言ってました。」
「はははは、そうなんですね。あ、それじゃあ豊嶋さんも行きますか?駅ビルの上にあるバーを借り切ってるので、誰でも参加できますよ。」
「ありがとうございます!」
「高原さんが宴会一発芸を見せてくれるかもしれません。」
「コーヒーを口じゃないところから飲む技でしょうか」
「あはははは」
その後、豊嶋はふっと表情を真剣なものにし、息を飲み込み、そして言った。
「俺、高原さんや、河合さんみたいな、立派な警護員になります。そのために、修業して、それから・・」
「まずは肩の力を抜いてくださいね。先は長いんですから。それに・・・」
「?」
「・・・それに、これから警護員としてうちの会社で仕事をしていくなら、途中でいくつも、ちょっと悩まなければならないことに、出会います。」
「・・・・はい」
「そのときは、いつもこのことを思い出してください。我々は、違法な攻撃からクライアントを守る。そのためなら、違法なこと以外は、どんなことでもする。つまりは、それだけのことなんだってことを。」
「はい」
「そして、いつも、自分を大事に、してください。」
「はい」
豊嶋はじっと先輩の顔を見た。
緊張の中に、不思議な覚悟のような光が、あった。
「・・・・あの、これから、どうかよろしくお願いいたします。」
「はい」
「えっと・・・・」
まだ緊張している面持ちの豊嶋に、茂は微笑し、そしてドアを開けて給湯室のほうを指差した。
「麦茶、飲みますか?豊嶋さん。」
窓の外から、細い三日月が、まだ夕暮れの余韻の残るような夜空から密やかな光を届けていた。
第二十四話、いかがでしたでしょうか。
シリーズ小説「ガーディアン」は、この第二十四話で、区切りとなります。
なお、わたくし藤浦リサの書いた小説はすべて、著作権フリーです。無償で、そして許可なく、自由に複製や出版等して頂いて大丈夫です。
また、作品の趣旨を損なわない限り、続編やサイドストーリー等の執筆・発表等も自由にして頂いて大丈夫ですが、その際は、藤浦リサの執筆でないことを明記願います。
これからも、「ガーディアン」を、よろしくお願いいたします。
平成27年5月16日
藤浦リサこと 石田麻紀
https://www.facebook.com/ishida.maki.75
【追伸】
作品中に出てきた曲、オペラ「Giustino」のアリア「Vedro con mio diletto」にもしも興味を持たれましたら、
下記の演奏がおススメです。
https://www.youtube.com/watch?v=NL4eK3XWMpk
https://www.youtube.com/watch?v=7wiKIdZTfQY
https://www.youtube.com/watch?v=TmMOIXu6qjk