五 告解
西日が病室へオレンジ色の光を届け始めたころ、一人の看護師が病棟の二人部屋へ静かに入り、奥のベッドのカーテンを開けた。
「高原さん、ご気分お変わりありませんか?」
ベッドの上で浅い眠りに落ちていた高原は、しばらくして目を覚まし、黒く染めた波打つ髪を後ろできちんとまとめ笑顔で自分を見下ろしている看護師の顔を認めた。
その表情は僅かしか変わらなかった。
看護師は異国的な顔に似合う茶色の二重瞼の目を細め、微笑した。
高原が微かな愉悦のよぎる表情で、低く静かな声で言った。
「・・・・私を暗殺しに来られたわけでは、なさそうですね。阪元探偵社の深山さん。」
深山祐耶はマスクを外し、両手を相手に見せた。
「ナイフは持ってないよ。」
「あなたに女装趣味があったとは」
「男性の看護師はまだ少なくて目立つからね」
二人はしばらくそのまま黙った。
高原は楽しそうな表情をさらにはっきりしたものにして、再び口を開いた。
「ご用件は?」
深山が顔を少しだけ傾け、少しの皮肉を含む笑顔を見せた。
「ふたつ。ひとつめは、君がほんとに生きてるか、一応見に来た。」
「潜入しているお仲間の情報を信じてあげないとは、ひどいですね。」
「頭をぶつけると、意外なタイミングで急変したりもするから」
「ご心配ありがとうございます。おかげ様で、明日やっと退院です。」
「ふたつめはね。」
深山の右手が高原の首元に伸び、微かに喉元に指が触れた。
「・・・・」
「今度うちのエージェントを危険な目に遭わせたら必ず殺すけど、でもね」
「・・・・・・」
「でも、・・・僕以外の人間には、殺されるな。大森パトロールの、高原さん。」
指が喉元を離れた。
足音もなく深山は病室を出ていった。
エレベーターではなく階段室へ入り数歩下った深山の足が、最初の踊り場の手前で止まった。
薄暗い蛍光灯の明りの下で、壁にもたれて、艶やかな黒髪を長く伸ばした青年が待ちくたびれた様子でこちらを見ていた。
「・・・・僕に、何の用?」
「随分冷たい反応なんだね。僕のこと、気に入ってくださっていたかと思ってたけど?」
「気に入ってるよ。ようやく、僕たちのところへ来る気になったの・・・?大森パトロールの、月ヶ瀬さん。・・・なんてわけ、ないか。」
「死んでもそれはないね。」
「・・・・死にたくなかったらそこをどいてくれる?」
「君、僕と殺し合うほど馬鹿な人ではないでしょ。一流のアサーシンは相手の力量を考えて行動する。」
「・・・・・君も有能なアサーシンになれるよ、月ヶ瀬さん。僕が来るタイミングを予想したんだね。退院前日で、そして・・・」
「・・・看護師の目が届きにくくなる、勤務時間の交代の時刻。高原警護員を追い回すストーカー君の行動の予想は易しい。」
「警護員のお客さんの半分はストーカーがらみなんだってね」
月ヶ瀬は深山のマスクをした顔を視線に捉えたまま、その青みがよぎるような頬によく映える切れ長の美しい両目で、冷たく笑った。
「君に言っておくよ。阪元探偵社の、深山祐耶。」
「・・・・・」
「もしもうちの警護員に、危害を加えたら、僕が君も君の仲間も、殺す。覚えておいて。」
「・・・・君は同僚への情というものを持たない主義だと思ってたけど?」
艶やかな黒髪をかき上げ、月ヶ瀬が嘲るように笑った。
「僕は余計なトラブルがイヤなんだ。それだけのこと。」
「君に人が殺せるの」
「もう一度今の質問してくれる?」
深山は一瞬息を飲みこんだ。
そしてゆっくりと言った。
「・・・・君なら、できそうだね。」
数秒後、二人はすれ違い、深山は階下へと姿を消していった。
高原のマンションに、真新しいベッドが運び込まれていた。
葛城が高原をソファーで待たせ、手早くベッドにシーツを敷き整える。
「悪いな、怜。こんなことまでしてもらって」
「お前、放っておくと自宅療養もソファーの上で済ませそうだからな。治るものも治らないぞ。」
「はははは」
午前中の明るい光が差し込む寝室へ、寝巻に着替えた高原を連れていきベッドに座らせると、葛城は台所へ行き水と薬を持って戻ってきた。
「飲んだらちゃんと寝るんだぞ」
「もう大丈夫なんだけどなあ」
「またそんなこと言ってる。泊まり込むよ?」
「はいはい」
高原は大人しく薬を飲んで横になった。
「じゃ、俺は帰るけど、明日は崇が来るって行ってたから」
葛城が踵を返したとき、高原が声をかけた。
「・・・怜」
「ん?」
「ごめんな。色々と」
葛城は振り返ると黙って同僚の顔を見下ろした。葛城の美しい顔には、しばらくの間なんの表情も浮かばなかった。
さらに数秒の後、やや厳しさの色を混ぜ、どんな美女も戦慄するような艶っぽい両目は哀しげに伏せられた。
「お前、車の中でひとつだけクライアントに指示を出したそうだね。」
「河合に聞いたのか」
「クライアントが茂さんに伝えたからね。・・・・”車が停まったら、分からないようにシートベルトの金具を外してください”・・・って、言ったんだね。」
「ああ。」
「車に乗ってて襲撃されたとき、クライアントを車の外へ突き落す警護員なんて聞いたことがないよ。酒井は完全に虚を突かれた。」
「・・・・・」
「お前は、本当にすごい警護員だ。たぶん、阪元探偵社のどんなエージェントも、まともに襲ったらお前のクライアントに手出しすることはまず不可能だろう。」
葛城の表情はさらに哀しそうなものになっていた。
「怜・・・」
「お前は完璧なんだ。だから、晶生・・・・お前を誰も、助けられない。」
「・・・・・・・」
高原は葛城の目から涙がこぼれるのではないかと思ったが、しかし葛城は唇を噛み、さらに目の光を強くしてもう一度高原のほうを見た。
そして、その表情が柔らかいものとなり、やがて葛城は高原が少し驚くような、静かな声で言った。
「波多野さんの奥さんが、おっしゃってた。」
「え?」
「お見舞いに伺って、帰り際の俺たちを追いかけてこられたとき。内緒ですけど・・・って小さな声で、でもはっきり言ってくださった。警護員さんたちは、やりたいことを、思いっきりやってください、って。」
「・・・・・」
「結果を受け止めることが、上司の責任だから。部下の皆さんは、波多野の気持ちのことなど本当に気にしないで。上司の基本的な指導と会社の方針を理解した上ならば、あとは本当に必要とご自分で思われることなら、例え波多野をそのときは苦しめるようなことでも構わないから。しっかりやってください、って。」
「そうか」
「・・・・俺はね、人はそれぞれ皆、何らかのかたちで苦しむし、苦しんでいるものだと思ってる。」
「うん」
「医者とかカウンセラーとか他人とかが助けることができるのは、そのうちのほんの一握りの人間達だけだ。助けが必要かどうかに関係なく、たくさんの人間が、助けられず放置される。むしろさらに鞭打たれる。家族や友人に相談して元気になるとかそういうレベルじゃなく。・・・それでも歯を食いしばって生きるのが人間だ。」
「ああ。」
「倒れて専門家の手の中に保護してもらえる一部の人間じゃなく、俺は、ふらふらになりながらも必死で自分の足で今日も立ち続ける大多数の人間のために、存在していたい。」
「・・・・・」
「一見、強くて、あかるくて、元気で、なんの問題もないようにしか見えない人間。でも一皮むけば、その心の中は、想像するのも怖いような状態かもしれない。責任感というものさえなければいますぐ自殺して楽になりたいくらいつらい毎日なのに、誰にも気づいてもらえないでいるのかもしれない。そういう人間のために。」
「・・・・・・」
「お前が、その、いやになるくらいあかるい好青年の顔の下で、いつもなにを考えて、どこへ向かって生きているのか、俺にはたぶん永遠に理解できないよ。でもね、俺はお前みたいな人間のために、今日もここにいたい。ここにいることしか、できないけど。」
「怜・・・」
「自分のことを棚に上げて言ってるかもしれないけど。・・・・自分を守り、家族を守り、仲間を守って・・・そして初めて、他人であるクライアントを、ほんとに守れるんだと思うから。」
窓の外の太陽がさらに高さを増していく。
高原は同僚の顔を見上げたまま、黙った。
「おはよう、深山」
「吉田さん・・・・昨日は我儘をきいていただき、ありがとうございました」
事務所に現れた深山は上司が座る机の脇まで行き、一礼した。吉田恭子がメガネの奥の静かな両目で微笑する。
「酒井が今回かなり危ない目に遭ったのだから、お前が高原をしっかり威嚇してくれたのは良いことだった。」
「はい」
もう一度吉田は部下の異国的な顔に浮かんだ複雑な表情を見上げた。
「でも、次回は私ももう少し安全策を優先する。」
「・・・はい」
「酒井は、高原警護員がターゲットと一緒にいる間に襲撃させてほしいと求めた。お客様からのご指示でもないのにね。今回は許したけれど、相手があの会社であるならなおのこと、そういう我儘はもう許さない。」
「はい」
「あの後、酒井が何て言ってたか知ってる?」
「え・・・・」
吉田が困ったように再び笑った。
「・・・”高原は、祐耶の指摘も、そしておそらくお仲間からの願いも、なんにも体で理解しておられないようです。しかしひとつだけ評価します。俺を本気で殺そうとしたこと。一歩親近感を感じましたよ。”・・・ですって。」
「・・・・」
「困ったものだわ」
深山はそのまま立ち尽くすように沈黙した。
吉田が立ち上がり、部下を応接コーナーへ行かせ自分はパントリーから二つのコーヒーカップを持って戻ってきた。
「今日はまだ誰も事務所に来ていないけれど、午後は社長も見えるから、酒井も呼ばれる予定だ。」
「はい」
「昨日の電話の様子だと、社長の話は長くなりそうよ」
吉田はコーヒーカップから熱いコーヒーを一口飲み、深山にも勧めた。
「兄が・・・いえ、社長が、ずっと悩んでいたことが、なにか進展したんでしょうか」
「どうかしらね。多分途中だけど、酒井あたりに色々聞いてほしいみたい。・・・・こういうときは、一番溺愛している庄田じゃなくて性格が正反対の酒井。いつもながら、おもしろい。」
深山は少し笑い、そしてコーヒーカップを両手で持ったまま、吉田の顔を見て、遠慮がちに言った。
「吉田さんはすごく兄のことを・・・・社長のことを、いつも理解されています。それはやはり、奥さんだった吉田明日香さんが、吉田さんのお姉さんだからですか?」
「どうしたの、急に」
「僕は大抵、兄のことがほぼまったく分からないから」
「そんなことはないでしょう。仲が良いことは、皆知ってる。あまりにも兄を慕い過ぎて、距離を置かなきゃってあなたが思うほどにね。だから、あなたは御祖母様の姓を名乗っている。」
「・・・・はい。」
「私は、姉のことは、あなたが社長をわかるほどにも、わかっていないのよ。恐らく。」
「・・・・・」
吉田は地味なタイトスカートをはいた綺麗な足を組んだ。
「姉は事故で亡くなるまで、本当にほとんど仕事の話を私にしなかった。警察官時代も、その後もね。でもひとつだけ、よく覚えていることがある。警察をやめて一緒に”警察にできない方法で人を守る”会社を立ち上げた・・・大森政子のことを、話していたこと。一度だけ。」
「はい」
「傲慢な人間に、人を助けることなどできない。大森と袂を分けたときに言われたこの言葉が、いつまでも頭を離れないって。」
「・・・・・」
「千の反論はできると思うけど、シンプルなだけにあとを引く言葉だわね。我々、社会のルールをご都合主義で逸脱している、傲慢な人間達、だものね。」
「・・・・」
吉田は情けない表情になっている深山の顔を、慈愛を込めて見つめた。
「そんな顔しないで。板見や逸希に笑われる。」
「・・・そうですね」
「我々、拠って立っているものがあるでしょう」
「・・・愛、ですね」
「そう。」
カップからもう一口コーヒーを飲み、深山は微笑し、そして再び少し硬い表情になった。
「でも吉田さん」
「?」
「お客様への愛を持てるエージェントは、家族だって、恋人だって、すごく愛する人間でしょう」
「そうね」
「でもうちの会社のエージェントは、社外の人間とは恋すらできない」
「ええ」
吉田は少し目を伏せ、再び部下の茶色の両目を見た。
「たとえばそれは・・・和泉のことを言っているのね、深山。」
「はい」
深山がコーヒーカップをテーブルに置いた。手の震えが伝わり、何度かカップとテーブルが当たる音がした。
「可哀想だと思っている。私も。」
「・・・・・」
「うちの会社をやめれば、和泉はそれなりの罪の償いをして河合のところへ行くこともできる。でも、私が勧めようと社長が命令しようと、和泉は絶対にうちの会社をやめないでしょう。」
「はい」
「それはどこまでも、彼女本人が選び決めること。」
「はい」
「ただ、ひとつだけ言えることは・・・・・かたちとして実らなくても、愛し愛されることの幸福は、ありえるということ。」
「・・・・・」
「それだけは、言えると思っている。」
「・・・あの言葉を、思い出しました・・・・」
吉田は小さくため息をつき、優しく微笑した。
「月ヶ瀬が言い、葛城が庄田に言った、あの言葉ね。」
妻に渡された受話器に向かい、波多野は挨拶しながら姿の見えない通話相手に一礼した。
「社長・・・・ご心配おかけしています。お電話いただいてしまいまして、すみません。」
相手の女性の少し低い声が、温かみのある笑いを交えて言葉を紡ぐ。
「・・・はい。明日から仕事に戻ります。あいつらが慌てて見舞いに来てくれた時はちょっと可哀想なことをしたと思いました。・・・え?いや、反省してますよ、こんなことがなくてもあいつらは。」
相手はさらに楽しそうに笑った。
「ええ、今日も、明日も、あいつらは・・・命を危険に曝して、仕事してますね。警護員たちは子供みたいなもんですから、社長も俺もよく気がふれないもんだとときどき真剣に考えますよ。精神を正常に保つことだけが我々上司の使命かもしれませんな。・・・・でも社長。いつになったら、お話になるんです?」
少しの間を置いて、再び相手が話し、波多野は苦笑し溜息をついた。
「吉田明日香が、最後に何て言ったか。それが我々への非難じゃなく、・・・・だめですよ、また逃げてますね、社長。」
波多野に責められ、相手は笑いながら早々に電話を切り上げた。
吉田の予告通り午後の社長室には酒井凌介が軟禁されていた。
「ねえ、酒井。まだ色々途中だから、適当に聞き流してくれていいんだけど、聞いて。」
「はい」
阪元は繊細な磁器のコーヒーカップ二つを置いた円卓を挟んで、長身の黒髪のエージェントの精悍な顔立ちを頼もしげに見つめる。
「価値観や考え方が相容れない相手・・・もっと言えばつまりは敵である相手を、それなのに尊敬していたり愛していたりすることは、別に珍しいことでもなければ、ましてや致命的なことでもない、って、すでに皆、頭ではそろそろ理解してるよね。」
「はい。考えてみれば、昔から”敵ながらあっぱれ”とかいう言葉があるくらいですから。」
「でも、頭でわかっても、心と体で理解できないことも、多いよね。そんなの矛盾であり受け入れがたいことだって、心と体が拒否する。」
「そうかもしれません。」
「どうすればいいか、その選択肢は意外と少ないと思うんだ。」
「はい」
「彼らと対峙するのをやめるか、続けるか、そのどちらかだからね。」
「はい」
「でも我々は、その選択肢に、別の要素を混入させているから、話がややこしくなっている。」
「心の問題ですか」
「そう。彼らと我々との、価値観や考え方が真逆であるという事実は、間違いがない事実。だから、対峙するなら、選択肢はひとつ。倒すしかないんだよ。」
「そうですな」
「そして、倒すのがイヤだから対峙することをやめる、避けるとするならば、それはつまりは我々の廃業を意味するんだよね。」
「その通りです。」
「でもね、”敵ながら”とてもあっぱれな、敬愛している相手だとしたら、対峙し倒すのは本当に苦しいことだ。その心の苦しさと、そしてそれ以上に・・・苦しいことそのものがおかしいんじゃないか?という不安が心を責めることの、心の二重の問題。」
「はい」
「苦しい。でもやらなきゃいけない。どうする?」
阪元の両目の深い緑色が、酒井の視界の中で詰問するように光る。
酒井はしばらく沈黙した。