三 襲撃
高原の携帯電話が鳴り、運転を続けながら高原は通信機器を操作し、その後左手で携帯電話に応答した。
相手の声には明白に聞き覚えがあった。
「もしもし、運転中の電話は危ないよ、高原さん。」
「停車したらもっと危ないんじゃないですか」
「あははは。」
深山祐耶は、心の底からおかしそうに笑った。
「ご親切な情報を頂けそうですね」
「よくわかったね。いつも話が早くてラクだよ、高原さんは。・・・・隣に座ってる君のクライアント、昨日近所の大学に通ってる学生ふたりを殺したんだよ。」
「・・・・・・」
「でも、それだけじゃない。別のみっつの県で、ひとりずつ・・・合計三人を、嘱託殺人で殺してるんだよ。都合五人。僕たちのお客様はそのうち二人の親御さんなんだけどね。そのうち一人の被害者の四十九日である今日が、殺害のご指定日なんだ。」
「はい」
「そしてさらに・・・」
「殺しを頼んだ人間も殺したんですか」
満田が高原のほうを見た。
「そうだよ。そいつが当初は僕たちのターゲットだったから、びっくりしたよ。」
「そうでしょうね」
「僕たち、調査能力はどこにも負けないつもりだったけど、やっぱり人間先入観っていうものはこわいね。無差別連続殺人犯だと決めてかかってたから、被害者の年齢と出身小学校が同じだなんていう初歩的なことを、身落としてた。」
「それは痛恨ですね」
「それで、どうするの?高原さん」
「・・・・・・」
「なんて質問、無意味?」
「無意味ですね」
高原はアクセルをさらに踏み込んだ。
電話の主はその後ふたつのカーブを過ぎたとき、路上で高原とクライアントの車を出迎えた。
片道一車線の道路に、後ろ向きに停車させた中型オートバイに跨り、ヘッドライトを点滅させ、深山はヘルメットの顎ベルトを少し締め直した。
茂は制限速度いっぱい、いや少し超えるスピードで、必死に高原の運転する車を追っていた。
「高原さん・・・・!」
さっきから呼びかけているが、応答がない。
茂は燃料メータにもう一度目をやった。やはり表示はガス欠を示している。
「畜生・・・・」
ガソリンスタンドで、まだ全くガス欠状態ではないと言われた。メータの表示がおかしいと。
「あいつらだ。こんな細工するのは」
その目的は明らかだった。
「高原さん、応答してください。大丈夫ですか?高原さん!」
茂の呼びかけが空しく響く。
規程に従い、茂は携帯電話から波多野部長へ、メイン警護員との通信が途絶えた旨の連絡を入れ、引き続き高原の後を追った。
車のヘッドライトが、行く手に静止しているオートバイ上の深山祐耶の金茶色の髪を一瞬反射させた。
高原は減速しなかった。
「危ない・・・!」
「大丈夫です。対向車は来ません。それから満田さん」
高原は一言だけクライアントに指示を出した。
対向車線側へハンドルを切った車の、前輪めがけて深山がオートバイを横倒しにした。
車は停止こそしなかったが左前輪が大きくバイクに乗りあげ減速した。
後方から迫っていた大型バイクが車に追いつくまで、その後数十メートルほどで十分だった。
運転席の窓ガラスが粉々に砕けると同時に、ドアが大きく開かれ、大型バイクを捨てて乗り移った暗殺者の両手がボディガードへと襲いかかった。
高原は急ブレーキを踏み車は対向車線にはみ出して止まったが、酒井凌介は高原の右手が自分の頭の後ろまで回っていることに気が付き、右手のナイフの刃をさらに強く高原の首筋に押し付けた。
「警護員さんが、ナイフで人を殺すとは知りませんでした」
「そういうこともありますよ。」
高原の右手の万能ナイフが、その切っ先を酒井の後ろ首に触れていた。
次の瞬間、酒井は相手の意図を読み違えたことを知った。
酒井の目に、高原の薄いゴーグルの奥の両目が、微かに笑ったのが映った。
「・・・・・!」
高原が体を大きく助手席側へ傾け、左手左足で助手席の扉を開きクライアントを車外へと突き落し、ほぼ体を横向きにしたまま、右足でアクセルを一杯に踏み込んだ。
そして酒井に態勢を戻す暇を与えず、高原の手がハンドルを大きく切った。
既に後方から猛スピードで追い付き車の脇で急旋回して止まった大型バイクの運転手が、大きく傾けた車体から降りずに右足を地面につき、右手で路上のクライアントを拾い上げていた。
車は高原と酒井を乗せたまま激しい勢いでフェンスを突き破り道路脇の斜面を滑落した。
その数秒後に到着し中型オートバイを停めた茂の目に映ったのは、大型バイクの後部座席上にクライアントを座らせたまま車の落ちた先を茫然と見ている山添崇の姿と、破られたフェンスに注ぐ微かな道路照明の白い光だった。
後方に乗り捨てられた中型バイクはあったが、既にそれ以外の人影はなかった。
斜面を滑落しフェンスを破って十メートル近く下の県道まで落ちた車は、天井を地につけ、反転した状態で止まった。
酒井は天地逆転した車内で、ナイフで手近な窓ガラスを窓枠から歪めて粉々に破壊し、次に自分の体の下になっているボディガードの状態を確認した。
高原は額から血を流していたが、出血量はそれほどでもなく、また車はほとんど変形しておらずシートなどに手足が挟まっていることもなかった。
「ガソリンがちょっと漏れてますんで、車と路面の摩擦で火が点かなかったのはラッキーでしたな。足やけどするのはイヤですから。」
右手で高原の顔と首に触れると、酒井はすぐに窓から車外へ脱出し、目の前の大型バイクの運転手へ向かってにこりともせずに言った。
「心肺停止。時間の問題や。行くで。」
「はい」
茂が車まで到着したとき、既にパトカーのサイレン音が近づいていた。
地面に伏せるようにして、割れた窓ガラスから車内へ上半身を入れ、茂は下になっている天井の上に眠るように横たわっている高原の体に手を触れた。
「高原さん・・・・・」
反応はない。
頸動脈で脈拍を確認したとき、反対車線にパトカーが止まり、警官が降りてきた。
茂は車から這い出て、地面に両膝をついたまま振り返って、言った。
「救急車を、お願いします」
警官のひとりが、既に呼んであると茂に告げた。
県道を下って、大型バイクに乗った山添が続いて到着した。後ろに自分のヘルメットをかぶせたクライアントを乗せている。
バイクを停めてクライアントを降ろして両手でかばうようにして地面に立たせ、山添はそのまま茂に声をかけた。
「河合さん!・・・晶生は・・・・・」
「・・・・山添さん・・・・・」
続いて救急車が到着した。
高原が車内からそっと運び出され、救急車へ収容されていく。
「救急車には俺が同乗します。河合さん、クライアントをお願いできますか?波多野さんには一報しましたが、また連絡を入れておきます。警察の事情聴取もよろしくお願いします。」
「・・・了解しました」
それらはサブ警護員として茂の当然の責務だった。
街の中心にある古い高層ビルのカンファレンス・ルームで、吉田恭子と和泉麻衣は二人目のエージェントからの報告をこれまで一度もない静けさで聞いていた。
「お疲れ様・・・。酒井。」
報告を聞き終わり、吉田がチーム筆頭エージェントへ労いの言葉をかける。
酒井は同僚のことを訊ねた。
「祐耶はそちらへ向かってますか」
「いえ、近くの拠点にもう一泊するそうよ。」
「そうですか」
「心配しないで。板見が向かってくれたから。」
「・・・・ありがとうございます」
「浅香さんも行くんですって」
「えっ?」
別のチームのエージェントで、深山の親友である人間の名前を聞いて酒井がさすがに驚いた声で聞き返した。
「・・・別のミッションの帰り道だから寄るって。」
「そうですか」
酒井の声はさらにトーンが下がった。
吉田は少し伏し目になり、そしてゆっくりと言った。
「こういうときは、仲間というのは、ありがたいものだ。別のチームの人間のことまで、心配してくれる。」
少し間が空いた。
そして酒井の疲れたような一言で、通信は終わった。
「ええ。ありがたいことです。」
吉田が酒井との通信を終え、和泉とともに事務所を後にしたころ、協力要員の大型バイクで非常なスピードで送り届けられた板見徹也が県境の小さなホテルに駆け込んでいた。
階段で最上階まで上がり、角部屋のドアをノックし、鍵のかかっていない扉を開ける。
部屋に入ると、奥の窓へ向かうデスクに、深山がこちらに背を向け座っている。
「深山さん」
返事はない。
板見はもう一度声をかけた。
「・・・深山さん・・・」
そっと近くまで歩いていくと、深山が振り向かずうつむいたまま、小さな声で言った。
「ごめんね、板見くん・・・ホントに来てくれたんだね。心配してくれてるんだよね」
「・・・・・」
「大丈夫だよ。こんなこと、いつでも想定してたもの。」
「深山さん・・・。通信、全部切っておられたので、心配しましたよ・・」
しばらく間があった。
「殺すときは僕の手で、って思っていたから、そうならなかったことは残念だけど、でも同じチームのエージェントの手にかかった。似たようなものだ・・・・不満はないよ・・・・・」
深山は腰のホルダーの携帯電話の電源を入れ、ホルダーへと戻した。
「・・・・今日は俺もここに泊まります。向かいの部屋ですから。」
「ありがとう。今日は・・後輩に甘えるね。お茶でも淹れるよ。」
ゆっくりと立ち上がった深山の体が少しふらついたように見え、板見が先輩の腕を持って支えたとき、深山の携帯電話が鳴った。
ホルダーから電話を取り出し深山が応答する。板見は腕から手を離して一歩下がる。
「もしもし、深山・・・・」
相手の話を三十秒ほど深山は黙って聞いていた。
「・・・・・」
再び相手が少し話したようだった。
「・・・・・そうか・・・」
もう一度深山が聞き返した。
次の瞬間、板見は先輩の名を叫んで一歩踏み出した。
深山の手から離れた携帯が床に落ち、深山は両膝を折ってそのまま座り込んだ。それ以上倒れないよう右手で椅子の座面を支えにしようとしたが、あえなくそれも失敗し、板見に抱きかかえられ、深山の体は辛うじて床への激突を免れた。
「深山さん!」
右腕と右膝とで先輩の上体を支えながら、板見は床に落ちた携帯電話を拾い、耳にあてた。
「もしもし、板見ですが」
電話の向こうから聞きなれた声がした。
「板見か?どないした?」
「酒井さん、今、何をおっしゃったんですか?深山さんに」
「なにって、・・・大したことやないけど」
「そんなはずありません。深山さん、気を失ってますよ。」
「なに?」
「俺に言えないことなら別にいいですけど、後でこの責任はとってもらいます、酒井さん」
「・・・・・・」
「じゃあ、俺は深山さんを休ませないといけないので、これで」
「待て板見」
「はい」
酒井は話の内容を手短に説明した。
板見は黙って聞き、そして表情を重くし、しばらくして応答した。
「・・・・わかりました。教えてくださり・・・ありがとうございます」
「決死の覚悟やで、先輩としては」
「はい」
「じゃ、祐耶を頼む。」
「了解しました」
「それにしても、柔なやっちゃ」
「繊細なんですよ、酒井さんと違って」
「うるさい」
通話を終え、板見が深山を抱きかかえてベッドへ向かって後退していると、部屋のドアを数回ノックし入ってきた別のチームのエージェントがこちらを見て愕然として足を止めていた。
「祐耶・・・・」
「浅香さん」
こちらへ駆け寄ってきた浅香仁志の声が上ずった。
「どうしたんですか?まさか、祐耶は・・・!」
「大丈夫です、浅香さん。深山さんはちょっと精神的ダメージにさらにびっくりすることが重なって、気絶してしまっただけですから」
「・・・・・?」
浅香は状況が呑み込めない様子のまま、深山の靴を脱がせたりベッドのカバーをめくったり枕を整えたりして、板見が深山を寝かせるのを手伝った。
二人がベッドの上の深山を見守っていると、再びドアがノックされ、浅香の上司が入ってきた。
「騒ぎが聞こえたものですから・・・・すみません、本当は浅香さんだけが伺う予定だったのですけれど。」
二人は庄田直紀の姿を認め、椅子から立ち上がって一礼した。
庄田はぬけるように白い肌によく似合う涼しげな切れ長の両目に微笑を過らせ、そしてベッドに近づいた。
「大丈夫ですか?」
「もうすぐ目が覚めると思います。すみません、ご心配おかけして。しかも庄田さん、もしかして浅香さんとすぐにご一緒に帰られる予定だったんですよね」
「大丈夫ですよ板見さん、ここに立ち寄るのを口実に、久々に一泊してゆっくり一緒に食事でもしようという段取りですから。ね?浅香さん」
「はい。」
「阪元探偵社でも三本の指に入る敏腕のアサーシンが、こんなになるというのは、一体どんなことが・・・・・という質問は、しないようがよさそうですか?板見さん」
「・・・・すみません」
「いえ、あなたが謝ることはないです」
ベッドの上の深山が目を閉じたまま低く呻いて、体を少し動かした。
「それでは私は、自室で少し報告書の準備をしますので」
庄田が出て行き、そして間もなく深山が目を開けた。
浅香が心配そうにのぞき込む。
「祐耶、大丈夫?」
深山は目の前の二人のエージェントの顔を見て、状況を理解し、そして申し訳なさそうな表情になった。
「・・・うん・・・・仁志、それに板見くん・・・・ごめん、僕、倒れちゃったんだね」
「そうですよ。びっくりしましたよ。」
「一体なにがあったの・・・・・って、訊かないほうがいいか・・・・」
「・・・・・・」
深山は浅香の顔から目を逸らして、天井を見つめた。