3パシリ メイド長とはメイドの一番偉い人
堅苦しく、さらに重い空気の食事に終止符を打ち、卓巳は何かをする訳でもなく草臥れた椅子に座ってじっと天上を見ている。
愛華は愛華で、食事が終わるや否や「お風呂に入ってくる」と、それだけを告げて部屋から出て行ったのだ。だから一人残された卓巳は主人の帰りを待っている犬のように、ただただ椅子に座るだけだった。それでも当の本人は愛華を主人と思ってないのが現状だったりする。
コンコン。そう、静かで無駄に広い部屋にそんなノック音が鳴り響く。決して弱くない音で、それでも決して大きくない音で、だ。これほど綺麗にノックをできる技量の持ち主は、この邸でも一握りのメイドしかいない。
卓巳は重たい体を椅子から起こし、ドアを開ける。
そこには完全無欠なのだけど、どこか普通の人とは外れたメイド長が立っていた。
カナメは何も言わずにスタスタと部屋に入り、何も言わずにさっきまで卓巳が座っていた椅子に腰を下ろした。
少し戸惑いを隠せない卓巳とは正反対に、カナメはきりっと凛々しい顔つきだった。あたかもそれが普通のように、あたかもそれが重要な事のように。
「えっと……、どうしたんですか?」
少しの間を空けて、恐る恐る卓巳は棒立ちのままカナメの方を向いて言う。
「食事が終わり次第私の元にくるように言ったではありませんか? ですが、一向にくる気配がなかったので私の方からきました」
卓巳はカナメとの約束をすっぽかすような形になっていたが、それでもカナメの顔からは不機嫌そうな表情はない。そして卓巳は「あ〜」と言い、すっかり忘れていたのだった。
「それで俺に何の用なんですか?」
「そうですね、簡単に申し上げますとお嬢さまとは仲良くしていただきたいのです。もちろん西沢さんがお嬢さまのお世話係になった経緯は承知しております。ですが、できることならお嬢さまを怨まないで下さい」
すっと綺麗に椅子から立ち上がり、卓巳に振り向いて頭を下げた。
卓巳は卓巳で、あまり人から感謝されるのが得意じゃなく、そんなカナメを見ていたらむず痒く感じていた。
「別に怨んだりしませんよ。ただですね、もう少しだけ性格をどうにかしてほしいですね。愛華はずっとあんな性格をしていたんですか?」
本人の前じゃないため、卓巳は愛華の事を呼び捨てで呼んでいた。もちろん本人の前では何を言われるか分かったものじゃないから、愛華がいない今限定なのだけれど。
「いえ、お嬢さまが小さい頃はもう可愛らしい性格をしていました」
それは卓巳にとって興味深い事実だった。
「どんな性格だったんですか?」
「そうですね、奥様は忙しい身でしたので、代わりに私の後を子猫みたいにくっついてきました。もちろんそれだけではなく、一生懸命に私の手伝いもしてくれましたね。その姿が愛らしく、時々ギュッとしたい衝動に陥ったほどです」
どこか懐かしそうにカナメは言う。
卓巳はカナメの言った事が信じられず、不思議そうな顔をしてカナメを見ていた。それは言うまでもなく、今の愛華からは想像も出来ない事実だったからだ。
「……それは本当に愛華なのか?」
「ええもちろんです。今のお嬢さまも以前と変わりなく愛らしい性格をしていると思いますが、西沢さんはお嬢さまの何処が不満なのですか?」
「強いて言うなら自分自身が特別な人のように感じているところですね。逆に聞きますが、カナメさんは愛華の何処が愛らしい性格だと思うんですか?」
卓巳にとって自分の事を「さま」や「ご主人さま」と呼ぶように言うのは少々苦手な部類に入る性格だった。どちらかと言えば、卓巳にとって異性に求める性格は大人しい子なので、顔が良くても騒がしい愛華は今のところ恋愛対象に入ることはまずない。
「それは愚問です。西沢さんには辛く当たっていますが、お嬢さまは根から優しいお方です。その事を気づかない西沢さんに非があると言うものです」
(いやいや、気づくはずがないから。そもそも今日始めて会った人の根なんて分かるはずがない)
卓巳はそんな事を思っていた。だけど卓巳の思った事も一理ある。いや、一理どころじゃない。完全に卓巳の思う通りだ。
どれほど優秀で、どれほど鋭い人でも会って数時間で心の内側を分かる人なんていないだろう。もしいたとするならば、それはそれで確証の無い確信と言うものだ。
「……そうですか。俺にはまだ愛華の良い面が分かりません。ですが、カナメさんがそこまで愛華を信頼しているのなら俺も少なからず愛華の良い面を探してみます」
どれだけの時間が掛かるか分からないけれど、そう付け足すように心の中で呟く。
「そうしていただけると嬉しいです。それではそろそろお嬢さまがお戻りになると思いますので、私は仕事に戻ります」
そしてスタスタとドアの方に歩いていく。それから何事も無かったかのように部屋から出て行くカナメの後ろ姿を見て卓巳は手を伸ばした。
「どうかなされましたか?」
ギュッと腕を握っている卓巳を見つめながら言う。それでも顔の表情は変わることはなかった。
「……いえ、なんでもないです。仕事頑張ってください」
卓巳は特にカナメに言いたい事があった訳ではない。なんとなく卓巳にはカナメが寂しそうに思え、そう思ったら自然に体が動いたのだ。
そんな事を言えるはずもなく、卓巳は誤魔化すようにそう言う。
「西沢さんもお嬢さまのお世話を頑張ってください」
カナメはするりと力の入っていない卓巳の手を気にせずに、それだけを言って部屋から出てった。取り残された卓巳は少しの間呆然と立ちすくんでいた。
カナメの言った通り直に愛華が部屋に戻ってきた。
部屋に戻るなり、不機嫌ですと言っているかのような顔で愛華は卓巳を睨んだ。もちろん理由が分からない卓巳にとっては不思議でたまらないのは言うまでも無い。
「どうしてお前はそんなに不機嫌そうに俺を睨む?」
卓巳の質問に愛華は無言でさっき以上に睨みつけた。やはり理由もなく愛華が怒るとは思えず、プレッシャーを感じながらも卓巳は考えた。
それでも理由が思い浮かばず、首を傾げて愛華を見る。
「……お前と言ったのはあえて伏せときます。ですが、庶民の分際で私を呼び捨てで呼ぶとは何事ですか?」
ようやく愛華が口を開いたと思えば、そんな事を言い出した。だけど卓巳は愛華の前で呼び捨てにして呼んだ記憶が全くなかった。それどころかいったい何を言っているのか卓巳には理解できなかった。
が、少しだけ考えると一つの事が頭をよぎった。
愛華はカナメとのやり取りを盗聴していたのだろうか、と。
「……愛華さまは俺とカナメさんの話を盗聴でもしていたのか?」
「さぁ、どうでしょう? ですが、庶民の分際でご主人さまを呼び捨てで呼ぶなんて言語道断です! それどころか私の事を侮辱するような事を言うなんて問題外ですわ!」
どんな手段を使って話を聞いていたのかは分からないが、卓巳はそんな愛華を見て大きくため息をついた。
(さっきカナメさんに言った事は前言撤回だな。こいつに良い面なんて見つかりっこない)
そんな事を人知れず思っていた。もちろんそんな事を本人である愛華に言えば、今後の生活が堅苦しく、それでもって辛いことになると悟り何も言わずに卓巳は愛華の怒りを見つめていた。
ちなみに愛華の機嫌が直ったのは小一時間ほどしてからだった。そして卓巳が風呂に入り、部屋に戻って来た頃には愛華は眠りについていて、何処で眠ればいいのか分からない卓巳は部屋の端で丸まって寝ていた。