30パシリ レディと呼ばせて
お見舞いが終わり、卓巳と梨乃は特別急ぐ必要もないため、ゆっくりと邸の中を歩いていた。梨乃は無駄に広い邸や、本物のメイドを見て驚き続けた。今も興味津々といった感じに、邸をキョロキョロと見ながら歩いている。さながらその姿は、田舎から都会に初めて足を運んだ少年少女のようだった。
メイドが卓巳に向かって必ず一礼する光景を見て、卓巳の言っていた事を思い出し実感する。そんな自分と同い年の少年の横顔を梨乃は盗み見る。
その何も考えていなさそうに前を見て歩いている横顔からは、何も得る事がなかった。実際のところ、特に卓巳は何かを思っている訳ではない。この生活にも慣れたため、驚きや戸惑いといった感情はどこかに置き忘れたようである。
「家の中を土足って落ち着かないわね」
「そうか? 少女Aの家は土足じゃないのか?」
一般家庭の常識までもどこかに置き忘れたようである。
「あのね、ここは日本なのよ。普通の家で土足って方がおかしいでしょ」
「そう言えばそうだったな。お嬢のところに行く前に、ちょっと寄り道してもいいか?」
「私は明海のところに早く行きたい」
「お嬢の話は長いから、まだ時間かかると思うぞ?」
「……どこに連れてくつもり?」
「ん~、メイドさんのところに行くつもり」
行先はカナメのところだった。
梨乃は早く明海のところに行きたがっているようだが、愛華は大切な話があると明海を呼び出した。そのため部屋に入れてはくれないだろう。そうなればどこかで時間を潰す必要があり、この邸を隅々まで知っている訳でもない卓巳にとってはカナメの部屋しか居場所はなかった。
二人が歩いている場所からカナメの部屋までは遠くはなく、すぐにカナメの部屋についた。
二度ノックをすると「はい」と、落ち着いた声と共に部屋が開く。
カナメの表情は特に驚く事はなく、いつもと同じ無表情でその場に立っている。それからすぐに部屋に招き入れるように一歩横にずれる。
その横を卓巳は「おじゃましまーす」と軽く言ってから通り過ぎる。梨乃も唯一の知り合いから離れる訳にはいかないと、少しためらいながらも「お邪魔します」と言って部屋に入った。
それほど広くない部屋とは不釣り合いなダブルベッドに卓巳、一つだけ置かれた椅子に梨乃が座る。そしてカナメはお茶菓子の用意をしていた。
「ねぇ、他人のベッドって少し失礼じゃない?」
「ん? そうか?」
「そうよ。だから西沢くんは立っていなさい」
「さらっと酷い事いうな。それに俺はここが特等席だから問題ない」
勝手に特等席にされてもカナメは文句を言わず、三つのティーカップとクッキーを持って椅子とセットの机に置く。そして無表情で卓巳の隣に腰を下ろした。
「本日は紅茶とクッキーにしてみました。お口に合うか分かりませんが、召し上がってください」
「い、いただきます。……お、美味しい」
「喜んでいただけたのなら幸いです」
「ねぇ、カナメさん。お嬢達の話が終わるまでここに居てもいいですか?」
「はい。何もない部屋ですが、ゆっくりしていって下さい」
「ありがとうございます」
ベッドから少し離れた机に手を伸ばし、二つのティーカップを手に取ると一つをカナメに渡し、もう一つのティーカップに口をつけて飲み始める。梨乃の言った通り紅茶が美味しく、卓巳の頬は自然に緩む。
「ところでさ、どうしてお嬢は狩野を呼び出したんだ?」
「はっ? あんた分かんないの?」
「そのつもりだけど、何かおかしいか?」
「当たり前よ! 二人はあんたの事で話し合っているのよ」
「どうしてだ?」
「どうしてって……。二人とも西沢くんの事が好きだからじゃないの。私は詳しく分からないけど、それ以外思いつかないわ」
「……なるほど。理解できました」
大きなため息を梨乃はつく。
「ところでさ、西沢くんはお嬢様と付き合っているわけ?」
「それは――」
卓巳が答えようとしたところで、カナメの部屋に置かれた電話が鳴る。そこでいったん会話は途絶える。
そこで会話が中断し、カナメがゆっくりと受話器を手にとって耳に当てる。「……かしこまりました」相手の愛華は用件を簡潔に伝えられ、すぐに受話器を元の場所にカナメは戻す。
「お話が終わったようです。家までお送りいたしますので、こちらに」
「あっ、はい。紅茶とクッキーごちそうさまでした」
まだティーカップに残っている紅茶を一気に飲み干し、梨乃は慌てて椅子から立ち上がる。
カナメは来客者二人を車まで案内し、再び卓巳と一緒に部屋に戻ってきた。時間も時間なため、もう愛華からの命令がないと思っての行為だった。
今日も一日疲れたと呟き、卓巳は勝手にカナメのベッドに寝転がる。その身勝手な行為を目の前にしても、カナメは表情一つ変える事はなかった。
「……今日はもう疲れました。このまま寝ちゃってもいいですか?」
「よろしいですが、私は寝相が悪いですよ」
「……ちょっと想像つきませんね」
「よく言われます。卓巳さん、少し邸の中を歩きながらお話しませんか?」
「俺はもう立ち上がれません。おんぶしてください」
どこまでも失礼でカナメに甘える卓巳であった。ちなみに相手がカナメだからこそ言え、相手が愛華や明海だとこうはいかない。こんな姿も見せないだろう。
「……それではこの部屋でお話をしましょう。卓巳さんはお嬢様の事が好きですか?」
「大好きですよ」
「狩野明海様は?」
「好きですよ」
「東郷亜里沙様は?」
「好きですよ」
「本庄梨乃様は?」
「……よくわからないので、普通です」
「では私は?」
「大好きです。ちなみに聞きますが、どうしてそんな事を聞くのですか?」
「特に深い意味はありません。お気になさらないで下さい」
ちらりとカナメの表情を見ても普段通りで、何を考えているか分からず卓巳は少しだけ首をかしげる。といっても、ベッドに寝そべっているため自分以外は分からないほどささやかだった。
「結局のところ、どうしてお嬢は見知らぬ俺を執事にしようと思ったのでしょうか」
「私にも分かりません。お嬢様に直接聞いてみてはどうでしょうか?」
「はぐらかされました」
「そうですか。……突然ですが、一言いいですか?」
「どうぞ、どうぞ」
「私に恋愛を教えていただけないでしょうか?」
本当に突然だった。
卓巳は目を丸くしてカナメを凝視した。
「と、いいますと?」
「私とお付き合いをしましょう。そうすれば恋愛がどういったものなのか分かるような気がします」
「なるほど。……えらく唐突ですね」
そしてクスッと卓巳は笑う。
「ええ、唐突でした」
カナメも珍しく笑みを見せた。
「やっぱりカナメさんは笑顔が似合いますね。とっても可愛いです」
「私は笑顔なんて見せていません。それで返事はどうなのでしょうか?」
「そうですね――」
卓巳が返事を言い終える前に、部屋の電話が鳴る。愛華がご立腹だと悟った二人は「お嬢が呼んでいますね」「お嬢様がお呼びになっておりますね」と、似たような事をそろえて言った。
突然執事になったぶっきらぼうの卓巳。
嫉妬深く意地っ張りな愛華。
無表情のカナメ。
どこにでもある平凡な生活とは言い難いが、それでも少し平凡で少し変わった三人の非日常的なお話。