24パシリ 見慣れた天上
卓巳が空に用件を告げて部屋に戻っても静寂は変わらなかった。当たり前といえば当たり前である。
無言を決めているのか、カナメは愛華の背後に蝋人形のように立ち、少し冷めた紅茶が二人を見守るかのように机に置かれ、それ以外はいつも見慣れた部屋だった。唯一の音は時計の秒針が動く音だけだったが、二人にとってその音さえ気まずさに変えていた。
どちらかが話を切り出さなければ無言は打破できない。それは二人とも分かっているのだが、どうしても切り出せない。もちろん理由はプライドと気まずさだった。
卓巳は視線だけを愛華に移した。
目が合う。
そらす。
それの繰り返しだった。
だが、どちらかが「あ」でも「い」でも「し」でも「て」でも「る」でも一言を口にすれば違うのかもしれない。あるいは今までのように沈黙が続くかもしれない。ただはっきりする事、それはどちらかが一握りの勇気さえあれば事はハッピーエンドを迎えるということだ。たった一言「一緒にいたい」ただそれだけ。とても簡単で、とても難しい一言。それでも今の二人には到底無理な話なのかもしれない。
ため息でもつきたい表情を浮かべ、カナメはようやく口を開いた。
「……私は卓巳さんとこれからも一緒に仕事をしたいと思っています」
卓巳はハッとなる。不意打ちだった。
「お、俺は……」
何を考えているのか分からない瞳に見つめられ、卓巳はすぐに視線をそらした。怖かったのだ。全てが悟られていそうで。
「俺はもう……無理、だ」
途切れ途切れになりながらも答えがそれだった。
結局のところ卓巳はプライドを捨てられなかった。いや、男の意地というやつだろうか。
かくして卓巳の無駄に高いプライドと、どうしようもない意地で事はすんだ。
好きな異性に高いポイントを持たせるには手っ取り早い方法が一つある。言うまでもなく、褒めちぎる事だ。褒めてホメテほめちぎる。逆のパターンを思い浮かべれば想像はつくと思う。異性から、男性なら「カッコイイね!」女性なら「可愛いね!」そう言われて不愉快な思いをする人はいない。むしろ表面上には出さないものの、内心では嬉しい気持ちが芽生えるだろう。それでも勘違いしてはいけない。それはただのきっかけで、そこからどうつなげるかによってハッピーエンドになるのか、はたまたバッドエンドになるのか変わる。中には「そんな恥ずかしい事言えない!」そう思う人もいるだろう。だが、恥ずかしくても言った方が近道になるのは明白だ。ただ注意事項が一つだけある。それはニコニコしながら、あたかも社交辞令かのように言っても信憑性に欠けるということだ。言う方からすれば本音かもしれないが、言われた方は眉唾物である。
さて、話が少し脱線したが、用は今の卓巳と愛華がまさにそれだった。典型的な恥ずかしがりやだろう。「一緒にいたい」「辞めないで」「俺の事を見てくれよ」そんな事口が裂けても言わないだろう。ようは一歩踏み出せなかったのだ。
卓巳は特に荷物という物がない。それは荷物をまとめる暇もなく家を出たからだ。どっちにしろ卓巳の私物が愛華の部屋に置かれる事は万に一つもなかっただろう。
「どうしてもお辞めになるのですか?」
愛華の部屋の前でカナメは悪あがきをする。
少し寂しそうに瞳のカナメを卓巳は見れなかった。見てしまうとついつい「もう少しここに居たい」と言ってしまいそうだから。
卓巳はカナメに一礼をして背を向けて玄関に向かって歩き出した。その後姿はどこかもろそうで、ほんの少し力を入れて押してしまえば倒れそうなほどだった。自分のせいで家庭崩壊寸前の父親にどこか似ている姿だった。
その小さすぎる背中が見えなくなるとカナメは両手を壁に押し当ててよしかかる。この場を誰かに目撃されれば一騒動になるだろう。カナメのそういった姿は愛華でも見たことがないからだ。
それでも少しの間だけだった。少しだけ考えにふけて卓巳を追った。カナメは最後の最後に卓巳を実家まで送ろうと思って。
* *
すごく久しぶりに自分の部屋の天上を見た。そんな事を卓巳は思っていた。
辞めたのはいいが、家に帰る手段がなかった卓巳にとってカナメの申し出は実にありがたく、お言葉に甘えて家まで送ってもらったのだ。卓巳が何食わぬ顔で家に帰ってきたのを見た卓巳の父である浩史は、顔を青ざめてその場に崩れ落ちたのは言うまでもない。が、それも今更の事だ。浩史は特に卓巳の事を攻めなかった。浩史にも卓巳を無理やり執事にした事について罪悪感があった。それの償いにしてはかなり小さいが、攻めなかった。
漫画やドラマでは担任の教師が退学届けを隠し持っていた。という展開があるのかもしれないが、現実はそこまで甘くはない。もちろん退学した事になっているし、今では晴れて時代の最先端であるニートになった訳で、暇をもてあますお嬢様となんら変わりない生活になろうとしている。ここは忠実にティーカップ片手に鏡の向こうの自分に自慢話の一つでもしようかと卓巳は企んだ。




