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22パシリ 進まない話

 卓巳はこの部屋には不釣合いな朽ち果てた椅子に、その朽ち果てた椅子から一メートルほどに向かい合うように置かれた無駄にゴージャスな椅子に愛華。

 それぞれ自分が座る椅子に座り、向かい合ったままお互い喋ろうとはしなかった。何もない空白の時間だけが無残にも過ぎ、それは優に五分強ほど続いている。

 卓巳がこの部屋に訪れてから未だに会話らしい会話が展開されていない。お互いこれほど居心地の悪い場所はないだろう。

 それでも卓巳にしても愛華にしてもお互い気づいている。このままではいけない、と。

 かといって思いはするもののそれを行動に移せないのはお互いが自分の素直な気持ちを表に出さず、心の奥底でとどまっているからだ。その行為がお互いを気まずくさせ、さらには何を言えばいいのか分からない元凶だとは気づくはずも無かった。

 何もない空白のこの部屋に唯一ある音、それは時計の秒針が進む音だけで、いつまで経ってもお互い喋る兆しが無い時だった。

 ドアが二度叩かれる音が部屋に響く。

「どうぞ」

 卓巳が部屋に入って初めて発する言葉が愛華のそれだった。

「紅茶をお持ちしました」

 そう言ってお盆にティーカップを二つにケーキの乗ったお皿もまた二つを乗せてカナメが部屋に入ってくる。

 これはカナメの優しさだった。

 どうにもこのままでは誰かがきっかけを作る以外にお互い黙りこむとドア越しに気づき、そのきっかけを作りにカナメがやってきたのだった。

 卓巳は優しさ事態には気づかないものの、それでも嬉しさから安堵の息を漏らす。

 そんな姿の卓巳を向かい合って座っている愛華が見ないはずがなかった。愛華はその卓巳の何気ない行為を「私といるのが嫌だ」と受け取り顔には出さないものの、それでも相当なショックを受けた。もちろん愛華の受け取りは実際遠くも近くもない。別に卓巳は愛華とこうしているのは嫌だとは思ってはいない。気まずいのは嫌だが、それでも愛華といるのは嫌とは思ってはいない。

 愛華の微妙な変化に気づいたカナメはハッとなる。

 この状況において最善の策なのは変わらない。だが、卓巳の反応によって愛華が傷ついたのも事実。カナメの優しさが裏目に出てしまったのは本人にも直ぐに分かった。

 卓巳自身は全く気づいてはいないのだが、卓巳はカナメがきた事によって緩みきった表情をしていた。その表情もまた愛華の気に障った。

 嫌だった。卓巳のそういった表情を自分以外の誰かにするのは嫌だった。それがカナメでも嫌だった。

 そう心の中で誰にも悟られないように思う。それと同時に切なさが込み上げてきた。

 どうしてそういった気持ちが芽生えたのかは本人の愛華にも分からない。だが、卓巳がカナメに送る視線と愛華に送る視線が違っているのは薄っすらと気づいていた。

 卓巳がカナメに送る視線は、優しさや信頼などの安らぎの視線だった。そして愛華に送る視線は、優しさや安らぎが半信半疑となった微妙な安らぎの視線だった。

 なにはともあれ、だ。その事に知ってしまった愛華にとって気まずさから、カナメが来た事により卓巳が愛華をどう思っているのか知った居心地の悪さに変わる。

 いうなればこれは共に過ごした時間が多い愛華より、共に過ごした時間が愛華より少ないがそれでも濃い時間を過ごしたカナメの方を卓巳が選んだ。ということになる。

 それを知ってしまった愛華とってこの場ではカナメに太刀打ちできないと悟った。

 軽くうな垂れる愛華を見てカナメはどうにも親切心から申し訳ない気持ちに変わった。

 卓巳の気持ちこそは普段と何ら変わりないのだが、それでも気持ちの奥、本人でも悟るのに時間がかかるほど心の奥底にはカナメの存在が大きく聳え立っている。簡単にいえばカナメに今まで得られなかった物を望んでいる。さらに簡単にいえばカナメに優しさ、安らぎ、落ち着き、そういった部類の物を望んでいる。

 卓巳は別にカナメに恋心を抱いている訳ではない。望めるなら、望んでいいのなら、何でも話せる姉といった物を望んでいた。それを愛華は恋心と勘違いをしている。

「……そこに置いといてください」

 少しの沈黙の後に愛華が呟くように告げる。その愛華の声からは嘆きと切なさが発せられていた。

 そこでようやくカナメの表情が変わった。常にポーカーフェイスなのだが、この時ばかりは焦りが見られた。カナメが表情を変えるのは実に稀だ。

 カナメのポーカーフェイスが崩れるのには条件がある。

 一つ、大切な人が傷つく姿を見た時。

 二つ、自分のせいで相手が傷ついた時。

 明らかに今は後者となる。

 いかに卓巳にスカートをめくられても平常心に対応したカナメでも、焦りからくる心理状態まではどうにもセーブできない。もちろんそれはカナメに限らず、大抵の人がセーブできずにオロオロするだろう。

 カナメは取り敢えずこの場から離れる事が何よりも重要だと悟り、紅茶の入ったティーカップとソテーを机に置き一礼をする。

 そのまま礼儀正しくドアの方に向かうものの、どうにも卓巳とすれ違う間際に見てしまった悲しみに満ちた顔が脳裏に焼きつき離れなかった。それは主である愛華の気持ちを気づかないフリをしてまで部屋に残留するほどの事だった。

 だが、辞める身である卓巳とこれからも主であり続ける愛華、この二人を天秤にかければ愛華を優先するのが当たり前となる。

「……私は甘いですね」

 そう、誰にも聞こえないようにカナメは呟く。

 結局のところ天秤にかけようがその意味は場の雰囲気と自分を頼りにする人がいるのなら覆すのがカナメである。

 ようはいかに卓巳と愛華に会話ができるように仕向けるのか、いかに二人にとって一番良い結果が残れる状態で別れられるようにするのかが重要になる。だが、本当に別れに良し悪しがあるのかは全く謎である。いや、別れ自体が悪い結果が導いた答えなのだからカナメがどう行動を起こしても悪い結果にしかならないのかもしれない。

 カナメは体を反転させて卓巳たちの元に静かに戻ると愛華の背後に立つ。

「愛華お嬢さまはどうなされたいのですか?」

 無表情のまま、同じ体勢で、愛華の表情を見据えるように、カナメは呟く。その呟きは愛華に届くものの、ほんの少しだけ離れた卓巳には聞き取れなかった。もちろんカナメは愛華だけに伝えるのが目的で、卓巳に聞き取られないように配慮したのだ。

「私は……」

 愛華は口ごもる。

 正直になれない自分をもどかしくもあり、それによって自己嫌悪を味わった愛華なのだが、今まで誰かに本音や弱みを見せないでいた。だからこそ今更どうしようもできないでいたのだ。

 人は慣れている物、生活でも性格でも急に変えられるものではない。時間をかけてゆっくりと他の物に変えるのが周流となり、それは愛華も同じだ。もしかしたら愛華がこの場で素直になることによって卓巳の考えも変わるのかもしれない。だが、それを愛華自身が分かっていたとしても中々行動には移せない。たった一言「辞めないで」そんな簡単な言葉を発するにしても同じだ。

 カナメは大体十秒ほど愛華の答えを待った。だが、結局愛華は黙り込んだまま答える様子がなかった。

 呆れる様子もなくカナメは卓巳に視線を送る。

「卓巳さん、申し訳ありませんが、朝倉さんに今すぐ仕事を切り上げるようにお伝えお願いします。先ほど伝えるつもりでしたが、紅茶に気をとられて忘れてしまいました」

 頭を深く下げてカナメは言う。

 実際のところ電話一本で済ませられる。それでもまだカナメには愛華に伝え、その答えを聞かなければならなかった。もちろん卓巳がそれについて断る選択肢は用意されていないと踏まえての頼みだった。

「分かりました」

 案の定卓巳はそう言い残して椅子から立ち上がりドアの方に向かう。

 卓巳はこの場から一時でもいいから離れたいと思っていた。卓巳が想像した以上に気まずく、どうにも一人で考える必要があったからだ。その事にカナメは気づいていた。だからこそ告げたのだ。

 当たり前ではあるが、カナメが伝え忘れるなどの失態をしない。簡単に言うならば空を利用したのだ。

 カナメはドアに歩みゆく卓巳の背中を見つめ、卓巳が部屋から出たのを確認してから愛華に向き直る。

 その時のカナメの瞳には不安そうな表情の愛華が映っていた。

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