21パシリ 閉ざされたドア
卓巳から執事を辞めると告げられてから愛華は今に至るまで卓巳の気持ちを尊重し、このまま送る事を決意していた。
が、その日はあっという間にやってきて、日が一日ずつ削られるごとに愛華は自己嫌悪を抱いていた。
愛華にとってこれほど素直になれない自分が憎く、おぞましく思えた瞬間は無かった。
それでも気まずい関係のまま別れるのを愛華は嫌っていた。それは遠い昔に喧嘩別れした卓巳との出会いが原因となる。
そう、卓巳と愛華は昔出会っていた。
卓巳はその事は何も覚えていない。だが愛華は覚えている。何の因果があるのか分からないが卓巳と愛華は出会っていたのだ。
二人が出会ったのは四歳の頃。
そこまで幼いのならば卓巳が覚えていないのは当たり前で、それは卓巳以外の人も覚えていないだろう。仮に覚えていたとしても写真のようなワンシーンを覚えているだけが精一杯だろう。人の記憶ほど曖昧なものはないのが現状だ。
だが愛華は違った。
世の中には例外という言葉がある。まさに愛華は例外だった。
一般的に長い年月を経た記憶ほど真実と異なり自分に都合のいいように書き換えられる。が、心に傷ができた記憶は長い年月が経っても覚えていられる。傷をつけた本人にしてみれば忘れられる対象ではあるが、逆に傷を受けた本人にしてみれば些細な事でも記憶として残る。人間はそこまで強い生き物ではないからだ。強いて言うならばモロイ箇所を突けば容易く崩れ落ちるという事でもある。いかに人からどう思われようが人はそれほどモロク、壊れやすいものなのだ。
とにかく二人の間に何らかの問題が生じ、一方は何も覚えていなし、もう一方は明細に覚えている。これを皮肉以外にどういうべきなのか愛華は知らない。
何はともあれ愛華もまた卓巳同様に悩んでいた。
今しがた卓巳とカナメの会話を聞き、直ぐに卓巳が愛華の部屋に訪れるのは真実だ。だが、愛華もまた卓巳に何を言っていいのか分からなかった。
愛華は無駄にゴージャスな椅子に座り、目の前に置かれている部屋には不釣合いな朽ち果てた椅子を見つめながら考える。
仮に愛華が「体には気をつけて」と言うとしよう。が、その後に続く言葉が思いつかない。思いつくのは発展性のない掛け言葉だけだった。そう思えば思うほど、以前どういった会話を卓巳としていたのか思い出せないでいる。
論外ではあるが、仮に卓巳がカナメに言ったように中傷的な言葉を投げかければ、それこそ最悪の別れであり昔の繰り返しでもある。
普通なら愛華の素直な気持ちを卓巳にぶつけるのが何よりも効果的ではあるのだが、動揺している愛華にとってその選択肢は存在しなかった。だが、これもまた皮肉な事に卓巳はその愛華の素直な気持ちを心の底から受け止める事はできないだろう。
卓巳は既に「執事がほしかった。それ以外に何もない」その愛華の言葉を本音と受け取ってしまっているからだ。
何とも哀れな愛華のだろうか。
世の中にはツンデレという部類の人がいる。だがそれは漫画やアニメ、はたまた小説などだからこそ人々に受け入れられる部類である。
人と関わる中でツンは致命的とも言える。
第一印象だ。ツンで接し、その結果相手に恐い人とインプットされればそれ以上関わろうとはしないのが普通だ。そうなればデレに入る前に二人の関係が途絶えてしまう。要するに卓巳はツンの愛華に対して「キツイ人」と認識している。だからこそ愛華が卓巳に言った言葉が冗談や嘘の類ではないと認識してしまっている。
なら仮に今からデレとして卓巳に接すれば何もかも上手く収まる。という訳でもない。以前までキツイ姿を見てしまっている以上、多少の優しさや素直さを見せたところで「何か裏があるかもしれない」と逆に警戒されるのがオチである。もちろん記憶同様に例外もある。そこで「デレ期キター!」と思えるのであればお互いハッピーな結果になるだろう。
が、あいにく卓巳にそういった答えは持ち合わせていなかった。
持っているのは相手を警戒する気持ちと、気づかないフリをする気持ちだけだ。
結果として愛華の照れ隠しを信用させるのには他の誰かの力を借りなければ成立しない。もちろん時間をかけてゆっくりと誤解を解く方法もあるのだが、今日という短い時間ではどうにも誤解を解く術はないに等しいだろう。
そうなれば直ぐ未来に待ち受ける卓巳と愛華にはバッドエンドの一方通行しか用意されていない事になる。
以前明海との問題で卓巳は「感情に流された恋人の結末はどうなると思う?」そう問い、愛華の答えは「バッドエンドの道しかない」だった。その質問をもう一度されれば愛華は同じような返事を返すだろう。
が、それが今の卓巳と愛華である事は言った本人にも気づいていない。
愛華は昔の過ちを断ち切り、新たな思い出を求めるために感情に身を任せて卓巳に近づいた。結果としてそれは卓巳を傷つける事になった。
よく「違った出会いをしていれば結末もまた違った」やら「君とは違った出会いをしたかった」似たり寄ったりな言葉が使われる。それは今の卓巳と愛華のためにあるかのような言葉でもある。が、それは結果が出た時に使う言葉であり、まだ結末がない卓巳と愛華には必要のない言葉なのもまた事実。
だが遠かれ早かれ愛華が今のままであればあるほど、その言葉が近づいてくる。
要するに自分の思いを相手にぶつけられない人、我慢をして相手に合わせ続ける人ほど良い結末が用意されないのだ。
当たり前ではあるが、愛華はその全てを気づいてはいない。気づいているのは目の前に置かれている朽ち果てた椅子に座る卓巳と気まずくなる事だけだ。
愛華が悩む張本人である卓巳といえば、カナメの部屋と同様に愛華の部屋の前で呆然と立っていた。
ノックをするために上げられた手は無常にもその役割を果たせないで、ドアの直前で止まっていた。
やはり卓巳もまた愛華同様に悩んでいた。
先ほどカナメとの会話で愛華に別れを告げると宣言したのにも関わらず、直前になって迷っていた。
このままドアをノックするのは容易い。だが、会って何を話せばいいのか。愛華と全く同じ事を考えていた。
卓巳と愛華は似たもの同士だった。
自分の気持ちを相手に言えないでいるのに対するに至ってはミリ単位もずれないほど同じだった。もちろんお互いその事に気づいてはいない。
カナメに会う時もまた卓巳は同じように何を言えばいいのか分からないでいた。だが、それはカナメの力を借りて話せたに過ぎない。だが今は誰かの援助も助言もない。
卓巳の悩みは辺りの気配にも気づかないほどだった。
卓巳から少し離れた位置にカナメは西洋のドールのように立って卓巳を見守っていた。その姿は誰もが息を呑むほどの美しさなのだが、その美しさに気づく人は誰もいない。
ドアの前で立ち尽くしている卓巳の頭の中では会話の序列を並べに並べている。だが、悩んでいる時こそ気の利いた言葉が欠けるものだった。
かといって、このままドアの前で誰かの助け舟が来るのを待つほど卓巳は落ちぶれてはいない。
コンコン。
だから卓巳はノックをした。もちろん頭の中では先ほどと何も変わらず、何を話せばいいのか分からないでいる。
「……どうぞ」
数秒遅れてからドアの向こう、愛華の返事が返ってきた事により卓巳はもう逃げる道を失った。ノックをしなければまだ逃げ道はあった。もちろんそれは愛華とカナメを裏切る形になるのだが。
卓巳はきめていた決意をよりきめ、閉ざされたドアを開けた。




