20パシリ 気づく気持ち
空に別れを告げてから卓巳が次に向かった先はカナメのところだった。
カナメの部屋の前で卓巳は立ちすくんでいた。
ノックをするのもドアノブを回すのも容易いのだが、卓巳はカナメと何を話せばいいのか分からなかった。
カナメは以前から卓巳が執事を辞めることを知っていた。そして空と同じような事も言っていた。だからこそ、だった。
部屋の前で立っていると、突然ドアが開かれる。
もちろんだが、部屋の中。ドアノブを手にとって卓巳を見ているのはポーカーフェイスのカナメだった。
カナメの内心では早く部屋に入らないのか、そう思っていたが中々ドアが開かれる様子がなかったため、痺れを切らしてカナメ自らがドアを開けたのだ。
卓巳は驚いたような顔をするが、カナメだから。その一言で驚きをなくす。
「ど、どうも」
「立ち話はなんですから中にどうぞ」
カナメはそれだけを言って先に部屋の中に入っていく。卓巳もカナメの後を追うように部屋の中に入り、ベッドに座った。
卓巳がカナメの部屋に訪れるのは今までに何度かあったが、それでも今の卓巳はどこか落ち着きが無かった。
カナメは既に淹れていた紅茶をお盆に載せてベッドの横にある机に置くと卓巳の隣に座る。
「お気持ちは変わらないのですか?」
卓巳が口を開こうとしなかったため、カナメが先に問う。
最初は何を言っているのか卓巳はカナメの言った事の意図が掴めなかったが、それでも今日の事で分かった。
カナメが言っている事、それは執事を辞める気持ちは今も変わらないのか。ということだ。
「ああ、俺は今日で辞める」
卓巳の気持ちは変わらない。いや、揺るがないのだ。
もう卓巳はその答え以外は持ち合わせていなかった。
「それは残念です」
何事にもポーカーフェイスに対応しているカナメも今もそのポーカーフェイスを崩さず言う。それでもカナメは内心とても残念で仕方が無かった。できることなら以前の生活がもっと続けばいい、とまでも思っていた。
カナメと付き合いが短い人なら言っていることと表情が矛盾していると思っても仕方が無いのだが、それでも卓巳にはカナメの想いが伝わっていた。
基本的に卓巳は愛華とカナメと共に行動をしていた。そのため愛華ほどではないが、卓巳はカナメの想いが薄っすらと読み取れるようになっていたのだ。
「……ねえカナメさん?」
卓巳は膝に肘を乗せ、手のひらで顔を覆う。突然その行為に走るのには少なからず意味がある。
「俺は最後にお嬢に会うべきなのか? それともこのまま何もしないで帰るべきなのか?」
そう、卓巳は結局今日の今まで卓巳がこの邸を出る理由も意味も何も問われず、さらには卓巳が辞める事をあたかも知らないかのように以前と同じように振舞っていた愛華と最後に会うべきか、それともこのまま自然消滅かのように邸を去るべきなのか、普通の人ならば何も悩むほどの事でもない事を卓巳は以前から悩んでいた。
「私はやはり会うべきなのだと思います」
「どうして?」
手で顔を覆う卓巳にとってカナメの表情は見られない。仮に見たとしてもポーカーフェイスのカナメから意図を掴むのは非常に難しいだろう。そのため耳だけをカナメに向ける。
「強いて言うならば一時であれ家族だったからです」
「家族?」
「ええ、家族です。住み込みで働いている私が雇い主である愛華お嬢さまを家族と思うのは出すぎた真似だと承知しております。ですが、出すぎた真似と思っていても心の奥では家族として共に生活をしている事と思っています。それが愛華お嬢さまにとって迷惑な事でも、メイドとしてしてはならない事でも私の思う気持ちは私の自由です。私がどう思っても誰にも迷惑をかける事はありません。……すいません。上手くまとめられませんが、要するに私が言いたい事は……」
「一時であれ家族として思えたお嬢と最後に会うのは当たり前。そう言いたい訳ですね?」
卓巳はカナメの言葉を遮るように言う。
その時の卓巳は先ほどのように手で顔を覆う姿はしていなかった。組んだ手の上に顎を乗せ、横目でカナメを見ていた。
「その通りです」
「……俺はお嬢を家族だと思った事は今の一度も無い」
「それでは会わないと?」
「いえ、そうじゃありません。確かにお嬢を家族と思った事は一度も無いのは確かです。ですが、一瞬でも大切な人だと思えた人に別れを告げるのは当たり前ですね。結局俺は逃げたかっただけのようです」
ようです。そう言うからには今までその事に気づかないで、たった今その事実を知ったかのようなのだが、その通りだった。卓巳は今のいままで「逃げたかった」そうとは思ってはいなかった。それに気づいたのはカナメが「家族」と言った時だった。
愛華の脅迫に似た形で執事となった卓巳にとって日常を土足で踏みにじり、それだけでは物足りず平穏を蹴散らしたといっても過言ではない愛華から逃げたいと思うのは十分すぎるぐらいの理由だ。
だがその気持ちは物理的なものではない。むしろそれでは何の解決にもならない。
そう、卓巳が逃げたかったものは気持ち、精神的な面だ。
愛華が卓巳の平穏な日常を奪ったのは逃れられない事実で、変えられない事実だ。もちろんその事に対して卓巳は今更何も言わない。
だが、卓巳が以前に愛華に対して自分を選んだ理由を聞き、その答えとして「執事がほしかった。それ以外に何もない」そう返ってきた。愛華の言った事は本音かそうでないのかは卓巳には分からない。だが、そう言われた以上卓巳にとって今まで少なからず慕っていた人に裏切られた。そう思えても仕方が無かった。それが愛華から逃げたいと本人が気づかずに抱いていた思いだった。
「愛華お嬢さまからですか?」
「自分の気持ちからです。俺はお嬢から次に何を言われるかを知るのが恐かったのかもしれません」
「恐い? お言葉ですが愛華お嬢さまは誰かを傷つけるような事は決して言いません」
「そうかもしれませんね。ですがそれは一般的なものです。現に俺はお嬢から『執事がほしかった。それ以外に何もない』そう言われた時にとても悲しかった。空しかった。今までしてきた事は何だったのか? そう思えるぐらいにね。だから俺はこれ以上何かを言われる前にこの邸から出たい気持ちが強すぎて結果としてお嬢から逃げたい、そう思いました」
「ならこのまま愛華お嬢さまに会わないのですか?」
「いえ、それはさっきも言ったように会いますよ」
「ならどうしてそんな事を私に言ったのですか?」
「そうですね、強いて言うならカナメさんだからですよ。この部屋に知らずに入った時にカナメさんは俺に『優しい方』と言って怒りはしませんでした。それと同じですよ。カナメさんも優しすぎる方だからこそ俺は本音を言おうと思いました。まあ今の会話はお嬢に筒抜けなので何を言われるか分かったものじゃないですけどね」
そう言って卓巳は苦く笑った。
卓巳は机に置かれたティーカップをヒョイッと手に取ると一気に飲み干す。
「とても美味しかったです。それじゃあ俺はもう行きます。カナメさんも元気で」
それだけを告げると卓巳はドアの方に歩き出す。愛華に別れを言いに。
「あっ、そうそう。中庭で花の手入れをしている朝倉さんにもう少し楽をさせてあげてください。彼女休みの日とか関係なしに花の手入れをしています。それだけ覚えといてください」
ドアノブを回した時に卓巳は思い出したように言う。
「ええ、朝倉さんにつきましては私も以前から何度も楽をさせてあげたいと思っていましたし、それにつきましては任せてください」
「ありがとうございます」
「いえ、卓巳さんこそお元気で」
卓巳はカナメの言葉を笑顔で返して部屋を後にした。
閉ざされたドアに卓巳はよしかかり、大きなため息をつく。




