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19パシリ 自由の身

 卓巳が愛華に「執事を辞めさせてもらう」そう言ってから、約束の日まではあっという間に時間が流れた。

 以前の生活に戻れる。そう分かっていた卓巳にとって愛華の執事としての残りの生活は実に面倒であったが、それでも仕事だけはこなしていった。

 そして日曜日の十一時頃。

 恒例となりつつある亜里沙のお見舞いに今日もまた卓巳はきていた。

 これが最後のお見舞いになるとは亜里沙は知る由もなく、この日もまた平凡な話を繰り返していた。

「――ちょっと、聞いているの?」

 無駄に固い椅子に座りながらボンヤリと考え事をしていた卓巳は、いじけたような亜里沙の声で現実に戻される。

 卓巳はどのタイミングで「もうお見舞いにはこられない」と、告げるか考えていた。

 タイミングを誤ってしまえば、亜里沙は悲しい思いをする。

 そのため言い出すタイミングで少しでも悲しい思いをさせないように卓巳は考えていたのだ。

 それでも何か良い案がある訳でもなく、亜里沙に不快な思いをさせるだけだった。

「あ、ああ。ちゃんと聞いていたよ」

 バカ正直に「考え事をしていたから聞いていなかった」とは言えるはずもなく、卓巳は苦笑しながら言う。

 ベッドの横に置かれている時計で時間を確認すると、そろそろ昼食の時間になろうとしていた。

 結局のところ、二時間程度ここにいたのだが、亜里沙との話の内容が記憶に無く、切り出すタイミングも思いつかない、最悪なお見舞いになる形となった。

「今日はちょっと変だよ? 何か悩み事でもあるの?」

 付き合いと共にした時間は短いのだが、それでも卓巳の異変に亜里沙は気づいていた。その異変に最初に気づいたのは、ベッドの囲むようにあるカーテンを開ける時からだった。

 亜里沙は病院に入院し、そのせいで毎日暇な時間を持て余していた。その結果として、亜里沙は人間観察を暇つぶしにしていた。おかげで亜里沙はそういった変化に少し敏感になっていた。

 思いがけない言葉に卓巳は無理やり笑みを見せて首を振る。

 それでも亜里沙が感じている異変は薄れるはずもない。それどころか無理をしているのがハッキリと分かるほどだった。

「……そうなの」

 亜里沙はそれ以上の詮索はしなかった。

 あまり人の心の置くまで土足で踏み入れる。または異常に詮索するのは誰だって嫌で、嫌われる対象だからだ。もちろん全ての人が嫌う対象とするのではない。それでも多数の人はその対象と見るだろう。

「ああ……そろそろご飯だろ?」

「もうそんな時間か。やっぱり友達と話していると時間が経つのが早いね」

「……」

 卓巳は胸にズキリとするものがあった。

 亜里沙にとっては無意識からの言葉だったが、それでも「友達」その言葉を聞いた途端に卓巳の胸には罪悪感が生まれた。

 そう、卓巳はその「友達」と別れる最後の言葉を言うのが今日の目的だった。だが、亜里沙の口から「友達」と聞かされた。

 卓巳は悩んだ。

 本当に別れてもいいのか、俺は友達を裏切ってはいないのだろうか、と。

 否。

 別にこのままお見舞いを続けてもいいじゃないか、愛華とは何も関係ない、俺がしたいようにすれば何も問題は無い。

 別れや裏切りの直後に亜里沙との関係を続ける思いが卓巳を支配する。

「そうだな」

 先ほどは何も言えなかった卓巳だったが、気持ちが楽になると自然に口元がほころぶ。

 そうだ、このままでいい。何も問題はない。

 そんな事を思いながら卓巳は椅子から立ち上がる。

「また来週くるよ。……あと、悪かったな」

 謝罪の言葉を最後に付け足す。

 この謝罪は今日の態度と卓巳が一時でも「友達」と別れようと思った気持ちからの謝罪だった。

 亜里沙はどうして謝られたのか知るはずも無く、怪訝そうに卓巳を見る。それでも、まあいいか、そうお気楽な言葉で見るのを止める。

「分かったよ。また来週楽しみだよ。その時までに面白い話を用意しておいてね」

「ああ」

 卓巳が相槌を打つのと同時にカーテンが開かれ、看護師が昼食を持ってくる。

 卓巳は看護師に軽く会釈をし、病院を後にする。

 亜里沙のお見舞い後、たった今から卓巳ははれて自由の身となった。それでも本人に自覚は無い。自覚が芽生えるとするならば、実家に帰り、以前のように学校に通う。それを経験して初めて自覚が芽生えるだろう。

 兎にも角にも、卓巳の気持ちはまだ執事だった。

 ようは一刻も早く執事のトレードマークである服を脱ぎ、私服に着替える。自覚とは別に、そこで初めて愛華の執事を辞める事になるのだ。

 卓巳は迎えの車に乗り込み、窓から見える流れる景色を呆然と見つめる。

 車の中では愛華にどういった別れを言おうか考えていた。無難に「じゃあな」が一般的かもしれないし、もう会わない事を前提に皮肉の一つでもプレゼントをするのもよし。何にせよ、何も告げないで別れるほどの仲ではないのは確かだ。

 頭の中で色々な事を考えているうちに邸に着く。

 車は邸の玄関に停められる。運転手の心遣いだった。

 卓巳はお礼を言ってから車を降りる。

 すれ違うメイドからは道を譲られ深く頭を下げられる。まだ愛華とカナメ以外は誰一人として卓巳がここを去るのを知らない。

 それでも日常は何一つ変わらない。

 卓巳という人がいないだけで誰かが凄く困ることもなければ、誰かが凄くガッカリすることもない。そう思えば気が楽だった。

 ゆっくりと歩く卓巳に最初に目に入った知人は朝倉空だった。

 空は中庭を任されているメイドである。

 格好も仕草もメイドそのものなのだが、それでも花に対する顔つきは真剣そのものだった。別に愛華に中庭を任されているからこれほどに真剣になるのではない。空は花に限らず、何かを育てるのが好きだった。だからこそ中庭を任された今は毎日が充実している。

 卓巳は一瞬だけ話しかけるか、仕事の邪魔をしないようにその場を去るか考える。が、今日でなにもかも終わりのため、卓巳はゆっくりと空に近寄る。それと同時に車の中で飲もうと思って病院で買った缶コーヒーを取り出す。

「そこら休憩でもいれないか?」

 ピトッと空の頬に缶コーヒーを当てる。

 買ってから相当な時間が経っているため、冷たくなければ熱くも無い。それでも元からの缶の冷たさからビクッと体が震える。

「ひゃう! た、卓巳くん!?」

 驚いたように振り向き、その直後に頬を赤らめて怒ったように言う。

「悪いわるい。ほら、缶コーヒーあげるから休憩でもどうだ?」

 空は「ありがとう」そう言って卓巳から缶コーヒーを受け取る。

 二人は中庭にあるベンチに腰掛ける。

「毎週日曜日の午前はいつも何をしているのですか? 午前だけ姿が見当たらないのですが?」

「ん? ああ、友達のお見舞いだよ。朝倉さんこそ日曜なのに仕事?」

「いえ、今日は休みですが、お花さん達のお世話がありますので」

「偉いね。俺なら休みの日まで仕事とかしたくはないな。まっ、それも今日までだけどね」

「えっ? それってどういう意味ですか?」

「今日で執事はおしまい。はれて自由の身さ」

「……愛華お嬢さまは承諾したのですか?」

「どうだろう」

 卓巳は愛華に言った時の事を思い出す。

 どうにも無理やりで、愛華の言葉を聞く前に部屋から出た。だから愛華が承諾したのかは何も分からない。それでも、だ。卓巳は今日限りでこの邸から出るつもりでいる。愛華が何て言おうが卓巳の気持ちは変わらない。

 あさっての方向を見る卓巳を空は怪訝そうな顔で見つめる。

「お譲の返事を聞く前に俺は部屋から出たからな」

 少しの間を空けてそう卓巳は呟く。

「……そうですか。とても残念です」

「どうして? 別に俺がいても何も変わらないだろ?」

「それは違います。愛華お嬢さまはきっと寂しいと思っていますよ。それに西森さまだって卓巳くんがいなくなると寂しいと思います。二人だけじゃなく、私もそうです。とっても寂しいです」

「……」

 卓巳は何も言えなかった。

 ただ呆然と俯いている空を見つめる。

 卓巳本人は気づいていないが、心の奥で誰かにそう言ってもらえることを望んでいた。愛華に辞めると言った時も、だ。それの引き金となったのは愛華の「ただ執事がほしかっただけ。それ以外に何もない」その言葉だった。もしその言葉が偽りでも卓巳を気に欠けた事を愛華が言っていたら卓巳が辞めるとは決して言わなかっただろう。

 結論として卓巳は誰かに必要とされたかったのだ。

 そして今。

 卓巳は空に引き止められた。

 空の言葉で卓巳の心は少しだけ揺れる。それでも愛華の言葉を思い出せば、空の言葉は意味の無い言葉となった。

「そう言ってくれるのは朝倉さんとカナメさんだけだよ。ありがとう」

 そして卓巳はベンチから立ち上がる。

「まっ、これからも頑張って中庭を綺麗にね。そうすればきっと良い事があるよ」

 それだけを言い残して卓巳は中庭を後にする。

 もちろんだが、卓巳の背中に空は言葉を投げかけた。だが、卓巳は手を上げる以外に何も答えなかった。

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