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16パシリ 普通ではない日常に逆戻り

 愛華から退院宣言されてから卓巳が感じた体感時間は普段の倍以上のスピードで過ぎていったような気がしていた。

 眼が覚めたかと思えば、気づいた頃には日が傾いている。それの繰り返しだった。

 卓巳にとって些細な一日でしかなかったのに、思いのほか毎日を充実に過ごしていた。


 ドラマでは退院の時に医師やら看護婦が花束を渡す光景を高確率で見る。だけどそれは重い病気やら酷い事故のあった人に贈るお祝いで、卓巳の怪我はそれほど重い事故ではないので本当ならば花束は贈られることは無いだろう。それでも小堂家が関係しているため、卓巳にも花束が贈られた。

 花束を手に卓巳と愛華、そして亜里沙が病院の出入り口で向かい合い立っている。

「ははは、西沢くんに先を越されちゃったな」

 亜里沙は苦く笑いながら残念そうに言う。

 卓巳は何も言葉が出なかった。亜里沙が今にも泣き出してしまいそうだったから。

「……」

「卓巳さん? 毎週日曜日は暇でしょう? ですからお見舞いにでも行って色々な話をしてあげなさい。もちろん東郷さんがよろしければですが……どうですか?」

 本当は卓巳に日曜だろうが土曜だろうが暇な日は一日たりともなかった。強いて言うならば愛華なりの心遣いだ。

「あっ、はい。ありがとうございます」

 そんな事とは知らずに亜里沙嬉しそうに頭を下げる。

「お嬢さま、そろそろお時間になります」

 カナメが切りのいいところでそう言った。愛華は腕時計で時間を確認し、亜里沙に一礼をする。

「それでは私たちは用事があるのでまたの機会に。卓巳さん、行きますよ」

 それだけを告げ、愛華の後ろに控えてある車に向かう。

 卓巳も軽く亜里沙に手を振り、愛華を追うように車の方に歩む。

「西沢くん! また入院するのを楽しみに待っているからね!」

 ようやく退院した人に言うような言葉じゃない事を卓巳に告げ、ニヒルな笑みを亜里沙は浮かべた。予想外の事に卓巳は亜里沙に振り返るが、悪戯っぽく笑う彼女に卓巳は鼻で笑う。

「ああ、その時はよろしくな」

 そう言い、愛華同様に車に乗る。


 卓巳が車に乗ると直ぐに邸に向かって走り出した。少しの間は二人とも車から見える景色に視線を送っていたが、流れていた景色、信号に掴まったことがきっかけとなり卓巳は愛華の横顔をチラリと盗み見る。

「どうかしましたか?」

 外の景色を見ながら、耳だけを卓巳に向ける。

「愛華さまはどうして東郷さんにあんな事を?」

「話の意図が理解できないのですが」

 うそつき。

 愛華がそう言うものの、卓巳は何の話をしているのか愛華は気づいていると確信を持っていえた。お互いの付き合いは短いものの、愛華は賢い子で、頭の回転が速いと短い付き合いの中でも卓巳は分かっていた。

「そうか、なら言い方を変える。どうして俺が毎週日曜日に東郷さんの見舞いに行かないといけない? 俺には日曜でも土曜でも愛華さまの執事として働かないといけないだろ? 今までもずっとそうだったのに、どうして今更?」

「逆に聞きますが、どうしてそんな事を私に聞くのですか? 聞かなくても大方検討はつくでしょう?」

「あいにく俺はバカでね。愛華さまが言わない限り気づかない」

「それもそうですね」

 何の迷いもなく肯定する。その事に少し俺はムッとした。

「答えなら時が解決してくれるでしょう。ですから卓巳さんは私に言われた通りに毎週日曜日に東郷さんのお見舞いに行きなさい。私からもう何も言う事はないわ。……少し疲れたわ。あまり私に構わないで」

「……」

 卓巳は愛華が何を考えているのか分からなかった。

 流れゆく景色を見ながら卓巳は大きくため息をついた。


 邸についたのは病院を出て二十分ほど経った頃だ。

 卓巳と愛華が車を降りれば、玄関に向かってズラリと頭を下げて並ぶメイド達。そのいつもと同じ何気ない光景を見た途端に、卓巳はようやく帰って来たのだと実感した。

 愛華は表面上では笑みを見せてメイド達の間を歩き、玄関から自分の部屋までもその笑みは崩す事はなかった。それでも自分の部屋に入るや否や、さっきまでの笑みは消えうせ、腕を組みながら機嫌が悪そうにベッドの上に座る。

 卓巳がこの部屋に入るのは久しぶりだったが、最後に入った時と何も変わっていない。

 無駄にゴージャスなシャンデリアにキメ細かなタンス。そして卓巳専用の小汚い椅子。それ以外にも沢山の物が置かれている部屋で、どれも卓巳の知っている部屋だった。

「なぁ、愛華さま?」

 卓巳は座り心地がお世辞にも良いとは言いがたい小汚い椅子に座り、愛華を一瞥する。

「下僕の分際で私の名前を軽々しく呼ばないでほしいわ。あと気安く私の肌を見ないでくださる?」

「……」

 睨み付けたかと思えば、プイッと直ぐにそっぽを向く。

 卓巳はそんな摩訶不思議な愛華の言葉に返す言葉もないため肩をすくめ、そっと小汚い椅子から立ち上がる。

 チラリと愛華は卓巳を見るものの、卓巳と目が合ったと単に再びそっぽを向く。こうなってしまったら手がつけられないと悟った卓巳はホトボリが冷めるまで部屋を出たほうがいいと思い、何も言わずに静かに部屋から出る。

 どこかに向かう訳もなく、卓巳は無駄に広い邸をひたすら巡回していた。廊下ですれ違うメイドは立ち止まり卓巳に向かって頭を下げ、掃除をしている人に限っては完全に壁に張り付き道を譲っていた。そんな今までに受けたことのない待遇について卓巳は少々居づらい気がしてならなかった。できることなら普通に接してくれるのが何よりベストなのだが、卓巳の気持ちを知ってか知らず、卓巳の願いは無残にも届く事はなかった。

「西沢さん、こちらで何を?」

 廊下を普通に歩いていても頭を下げられたり、道を譲ってくれたりとありがた迷惑の行為に心底うんざりした卓巳は、適当に入った部屋のベッドに仰向けで寝転がり天上を眺めていた。とりわけ広くはなく、あるのはベッドとタンス、そしてテレビに簡易のキッチンと冷蔵庫ぐらいだ。後は備え付けのシャワー室などがあり、客を泊めるような部屋でもないように思える部屋に、だ。

 そんな時、完全無欠のメイド長であるカナメの声が部屋に響く。

 静かな部屋にドアの開く音は聞こえなかったのだが、色々なステータスを持っているカナメに今更驚く事はなかった。

「お譲に名前を呼ぶな、私を見るな……そんなことを言われて、な。部屋にいても気まずいし、適当に廊下を歩いていたらもっと場違いなような気がして……」

「それでこちらに?」

「ああ、結構落ち着ける広さだし、割と気に入った。ここじゃマズイか?」

「そんな事はありません。気に入ったのでしたら好きな時にいらしてください、お茶菓子ぐらいならご用意できますので」

「? ここってもしかして……」

「私の部屋です」

 さすが完全無欠のクールビューティーといったところか、表情を変える事無くカナメはサラリと言い、キッチンでお湯を沸かし始めた。

 卓巳はそんな事とは知らずに勝手に部屋に入り、天津さえベッドに寝転がっている。それについてかなり悪い気もしたのだが、それでも体を動かすほうだるかった。だからカナメの言葉に甘えようとベッドから起き上がる事無く寝転んだままだ。

 数分してからカナメはお盆にお茶と和菓子を乗せてベッドの脇にある小さな机に置くと、そっとベッドの脇に座る。

「お茶と和菓子を持ってきたので、どうぞ召し上がってください」

「ああ、ありがとう。……ねぇ、カナメさん?」

「どうかなされましたか?」

「どうして俺なんかに敬語を使うんだ? 自分で言うのも何だけど、俺に敬語を使うほどの人材じゃないと思う。それに勝手に人の部屋に入った俺にどうして怒らない?」

 言っていて少し虚しくなった卓巳はカナメに背を向けるように寝返った。

「お気を悪くされたのでしたら謝罪いたします。ですが、私はこれが素なのです。私が怒らない件についきましては、卓巳さんだからです」

「俺だから?」

「そうです。他の誰かが勝手に部屋に入っていたのならきっと私は怒っていたでしょう」

「使用人の位って奴ですか?」

 まただ。そう卓巳は思った。

「それは違います」

 だけどカナメは否定した。

「卓巳さんはお嬢さまに、そして私にも優しく接してくれます。それに自分の地位から誰かに押し付けることなく、それでいて皆に気配りができる優しい方です。だからです」

「……変な事を言ってごめん」

 卓巳は考えることを途中で止めて、遠心力を使って体を起こす。

 ひょいっと卓巳は手を伸ばし、机の上に置かれている和菓子を摘まんで食べる。そして口の中に残る和菓子を流し込むようにお茶を一気に飲み干した。

「美味しかったよ。ありがとうカナメさん」

「いえ、私は何もしてはおりませんよ」

 卓巳は軽く肩をしかめて小さく鼻で笑う。そしてベッドから立ち上がって軽く伸びをする。

「またいつでもお越しになってください。私はいつでもお待ちしておりますから」

 ドアに向かって歩き出す卓巳の背中にカナメは落ち着いたように言う。

「ああ、またこさせてもらいます。その時はよろしく」

 それだけを告げて卓巳は廊下に出た。

 中々いい時間を過ごせたと卓巳は思い、廊下から見える中庭に視線を送る。

 中庭には綺麗に切られた木、そして誰が育てているのか分からないが数々の花が花壇に植えられていた。そのプチ庭園を少しの間眺めながら廊下を歩く。

「西沢さま?」

 プチ庭園から心が和んでいる時、透き通る心地のいい声がした事に卓巳はビックリして振り返る。

 そこにはメイド服を着込んだ一人の女性が不思議そうに立っていた。

 愛華とカナメは美しい美人なのだが、卓巳に声をかけた女性は幼く可愛らしい顔をしていた。どことなく卓巳に似ている。

「えっと……君は?」

「あっ、すいません。私ったらつい」

 アハハと苦く笑いながら、女性は頭を下げる。

「頭を上げてください。別に俺は何も気にしてないし、できれば普通に話してもらってもいいですか? あまり敬語とかで話されるのは慣れていないので」

「いえ、私はメイドで西沢さまは執事です。それだけはできません」

「ん〜、なら執事の俺が普通に喋ってほしい、そうお願いします。それでもダメですか?」

「うぅ〜……」

 女性は少し唸り、考え始める。

「……分かりました。西沢さまがそうおっしゃるなら普通にお話しますね」

 渋々女性は了解したものの笑顔で答える。

「私の名前は朝倉空です。空と書いてクウって呼びます。気軽に空って呼んでくださいね。それで西沢さまは中庭に興味があるのですか?」

「できれば西沢さまって呼ぶのも止めてもらってもいいですか? 俺の事も気軽に卓巳って呼んでください」

「あっ、はい。……なら、卓巳くん。卓巳くんは中庭に興味があるのですか?」

 ちょっと頬を赤らめて空は俯きながら言う。別に空は卓巳に特別な感情をもっているから頬を赤らめているのではない。強いて言うなら異性の人を名前で呼ぶのは初めてだったからだ。

「そうだね、結構素敵な中庭だね。まぁ、今始めて中庭の存在を知ったけどね」

「そうなのですか。ここの中庭を任されているのは私なのです。なので、こうして中庭を見ている卓巳さんを見ていたらどうしてもお話したくて」

 そんな感じで中庭について卓巳と空は楽しく話していた。季節によってどの花を植えているのとか、ここで一緒に作られているハーブは料理に使われているだとか、そんな他愛もない話をしていた。

 卓巳が愛華の部屋に戻ると、まだ機嫌が直ってないのか愛華は卓巳と目を合わそうとはしなかった。それでも卓巳は心が落ち着いていたからイラつくことなく、大人の対応で愛華を見守りながら軽く話しかけた。

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