15パシリ 仲直りと皮肉
「お帰りなさいませ、お嬢さま」
卓巳と愛華が部屋に入るや否や、カナメが深くお辞儀しながら出迎える。そんなカナメの姿を卓巳は素直に見ることはできなく、視線をずらす。
カナメは無表情で卓巳をチラリと見て、直ぐに隣の愛華に視線を送る。その表情からは何かを読み取るのは難しく、長年メイドとして雇っている愛華もカナメの考えている事が分からなかった。
「卓巳さんを連れてきたので、私は廊下で待っていますわ。お話が終わり次第声をかけてちょうだい」
それだけを言い残し、愛華は背を向け廊下に歩み寄る。
「お嬢さま、私たちが廊下でお話しますので、お嬢さまはこちらに」
「私は廊下でも構わないわ」
愛華は立ち止まることもせずに、歩きながら言う。そしてカナメの返事も待たずに、ドアを開けて廊下に出る。
部屋には静寂に満ちた。
カナメは無表情で、ピクリとも動かない。卓巳もカナメから視線を外したまま何かを言う気配がなく、二人の間に沈黙が訪れる。
卓巳とカナメが話すことは少なく、邸でもすれ違いに挨拶程度だった。それが普通の日常であり、二人が共にいれば静寂になる時間は少なくはない。それでも今は違っている。今の静寂はとてもヘビーな静寂で、少なくとも卓巳は部屋から出たい気持ちでいっぱいだった。
「……西沢さん」
短い沈黙を打ち破ったのはカナメだった。卓巳にとっては長い沈黙のように思えたが、実際はほんの三分程度だった。
ビクッと卓巳の体が震える。
「……」
「お嬢さまから聞きました。私は西沢さんに悪い事をしてしまい申し訳ないと思っています」
愛華同様に深く頭を下げた。
卓巳にとっては理由がどうあれ、あんなことをしてしまったのには変わりはない。だからカナメの行動がどうにも納得できなかった。
「……俺の方こそごめん。でも……どうして誤れる? 俺はカナメさんに酷い事をしたんだぞ?」
そこでようやく卓巳はカナメの顔を見ることができた。
無表情の彼女からは読み取ることはできないが、それでも卓巳はどことなく寂しげな顔をしているように思えた。実際のところ、カナメは本当に悪いことをしたと反省をしていて、寂しげというよりかは落ち込んでいた。
「理由の経緯は問題ではありません。それによって西沢さんが怪我をさせてしまった事実に責任があります」
「それこそ問題じゃない! 俺がやったことが問題で、カナメさんは何も悪くはない」
「ですから西沢さんを蹴ってしまい、あまつさえ怪我までさせてしまった私が悪いのです」
「違う。俺がやったことに対してカナメさんは反射的にした。だから全ては俺の責任だ」
「……分かりました。それではこうしましょう。この件につきましては誰の責任でもない。私も西沢さんも悪くはありません」
「それなら俺ももう何も言わん」
「あと、西沢さんって結構頑固なのですね」
不意だった。
卓巳はその時のカナメの顔が笑ったように見えた。いや、見えたのではない。笑っていた。まだ卓巳とカナメの付き合いはほんの少しだが、今までに卓巳は一度カナメの笑顔を見た。それがどうしても忘れられなく、そして素敵な笑顔だった。
「……ああ、よく言われる」
少しの間だけ驚いたようにカナメを見ていたが、直ぐに卓巳もクスリと小さく笑う。
「それでは私はお嬢さまをお呼びいたします」
「いや、俺の方が近いから、俺が呼ぶよ」
そう言い、卓巳は部屋のドアを開ける。
愛華は部屋の前に仁王立ちで立っていた。ドアの左右には愛華のボディーガードらしき人が立っていて、その表情は困っているようだった。
「話は済んだ。早く中に入れよ」
ドアから顔だけを出して、左右のボディーガードを軽くスルーするように言う。
「そう、思ったよりも早かったのね」
ぶっきらぼうに愛華は答え、卓巳が部屋に入ったのと同時にさっさと部屋の中に入る。そして愛華の特等席である無駄にゴージャスな椅子に足を組んで座る。
愛華の座っている椅子の前にはベッドがあり、その上に置いてある本を手に取り読む。一連の動作に無駄がなく、そんな愛華を卓巳は呆然と見ていた。
「私に何か言いたい事でもあるの?」
本のページをめくりながら呟く。
「あっ、いや、別に何でもない」
卓巳は愛華が何か、具体的に言えば卓巳とカナメの事について言ってくるものと思っていた。だが、愛華は別に何もなかったかのように椅子に座り、そして本を読んだ事に卓巳は予想外の行動に上手く言葉がでなかった。
「そう」
それだけを言い、愛華は再び本に集中する。カナメは壁と同化したかのように部屋の隅で愛華から何かを言われるまで立っており、音らしい音はカナメが本のページをめくる音だけで、再びヘビーな沈黙が部屋に流れる。
卓巳はこんな部屋にいるとどうにかなりそうと悟り、廊下に向かって歩き出す。もちろん悪い意味で、だ。
「卓巳さん、どちらに?」
本に視線を送りながらも愛華は言う。
「ちょっとトイレに」
「そう」
それだけだった。
卓巳は大きなため息をつきながら廊下に出る。ドアの左右に立っているボディーガードをチラリと見て、再び大きなため息をついた。
ボディーガードは無表情まま何も言わずに立ち、その姿はできのいい人形のようだった。
卓巳は別にトイレに行きたいわけではなく、その場から移動したい一身での嘘だ。そのため、トイレとは反対の方向を目的もなく歩いている。いや、目的がないわけではなかった。少なからず、今の卓巳にとっても唯一の救いの場である売店に本人も気づかずに向かっていた。
入院してから何度通ったか分からない道を卓巳はボケッとしながら歩いている。知らない誰かが見たら、夢も希望もなく今にも屋上から飛び降りそうな人のようにも見えた。別に重い顔をしている訳ではない、むしろバカそうな顔をしている。そのせいか暇だから飛び降りようかな、とでも他の人に思わせていた。
「あれ、西沢くんじゃない? お話は済んだの?」
卓巳は気づかない間に売店についた事に、亜里沙の声で気づいた。
「ん? ……ああ、終わった」
「そうなの。ほら、立ってないで座りなよ」
亜里沙は座っている椅子の隣をバシバシと叩く。けど直ぐに手に持っていた紙パックを卓巳に差し出して「これ捨てて」と促した。
紙パックを直側にあるゴミ箱に捨てて、卓巳は亜里沙の隣に座る。
「ありがと。それで、どんな話をしていたの?」
「他愛もない話だよ。ってかさ、それ以前にずっとここにいたわけ?」
「そうだよ。それがどうかしたの?」
卓巳がそう言うのにも訳があった。卓巳と亜里沙が別れてもう三十分ほど時間が経っている。そんな中で、テレビもなにも無い所にいるという事だ。あるのは固いソファと自動販売機、そして売店の小母ちゃんぐらいだ。小母ちゃんとなら話すだろうが、それでも卓巳は小母ちゃんが喋ったところといったら「ありがとうね」やら「いつもありがと」のどちらかだ。
亜里沙は不思議そうに首を傾げる。
「ここって何もないじゃん? それなのによくいられるなって思ってさ」
「ああ、私の数少ない趣味に妄想があるの。だから妄想で時間を潰していたの。これが結構面白くってね、ついつい時間を忘れていたよ」
本当に面白かったのか、亜里沙は笑顔で言う。けど卓巳にとっては複雑な心境だった。どうにも世間一般では妄想を良く思わない傾向にある。だから卓巳もその一般にのっとっている訳ではないが、今まで話してきた中で亜里沙がこうも楽しそうなのは初めてだった。そのため卓巳は複雑で、どうにもやるせない気持ちがあった。
「そう……それで、どんな妄想をしていたんだ?」
亜里沙はニヤリと口元を緩める。
「聞きたいの?」
「いや、別にいいや」
卓巳は背筋に嫌な汗が流れた。どことなく自分にとって不利な話がこれから聞かされそうな気がひしひしとしたからだ。案の定亜里沙は卓巳に関係のある話をしようとしていた。
「どうせ暇でしょう? それなら少しぐらいいいじゃない?」
「いやいや、今からお嬢に飲み物を持っていこうと思ってだな、それほど暇じゃないんだよね。いや、残念だよ。本当は凄く聞きたかったけど、本当に残念だ」
ごめん、嘘です。
と、卓巳は心の中で呟く。
そして曲がれ右で部屋に戻る訳にはいかず、ポケットの中に突っ込んであった小銭を取り出し自動販売機に投入。愛華の事だから市販の紅茶には文句を言うと察し、適当にお茶と炭酸飲料水、そしてジュースをチョイスした。カナメは飲み物に関してはさほどうるさくはないと判断しての全く違った三種類だった。ちなみにジュースとは一般的に果汁100%の事を言い、本当はそれいがいをジュースとは言わないのだ。
冷たい缶を三つ持って卓巳は逃げるように売店を後にした。
亜里沙から眼の届かないところで大きなため息をつく。
「あ〜あ、俺の居場所って少ないよな」
そんなため息のオプションとして、そんな独り言も呟く。
戻った先は言うまでもなく、愛華とカナメがいる個室である。
ドアの前で待機しているボディーガードを軽くスルーし、卓巳は腕でスライドドアを開ける。
卓巳が部屋を出て行った全く同じ光景がそこにあった。
愛華は無駄にゴージャスな椅子に座り本を読み、カナメは部屋の一部と化して立っているだけで、その光景は見ていて決して楽しいものではなかった。
缶ジュースを手に持ったままベッドの隣に供えてある机に置く。
愛華は横目でチラリと盗み見るように見て、カナメは卓巳が部屋に入ってきたときに缶ジュースを手に持っている姿を見ていたため、さほど視線を送ることはなかった。
「それは何ですか?」
興味があるのか、愛華は読んでいた本を閉じてジロジロと缶ジュースを眺める。
正真正銘のお嬢さまである愛華にとって缶ジュースという代物は珍しいものだった。とりわけ何かを飲むという時はカナメが作った紅茶がメインで、それ以外はほとんど口にしないのだ。そのため缶ジュースは今までに飲んだこともなければ、触ったこともない。
卓巳は怪訝そうに缶ジュースを見つめる愛華を、さらに怪訝そうに見た。
「何かの冗談か何か、か?」
あくまで一般人の考え方しか持ち合わせていない卓巳にとって、お嬢さまである愛華でもジュースの存在くらい知っているものだと思っていた。
愛華はムッとし、
「私は卓巳さんに、これが何なのか聞いているのです。何も言わずに素直に答えるのが紳士のたしなみってものではないのですか?」
「……ああ、そうだな。簡単に言えば、咽が渇いたら誰でも直ぐに飲めるように缶に飲み物を入れて自動販売機で売っている。それ以外詳しいことは俺に聞いても何も知らないから聞かないでくれ」
「なるほど、やはり庶民という種類の人は時間というものが極端にないので、こういった物で咽を潤すのですね」
感心したように卓巳を一瞥し、机の上に置かれているメジャーな炭酸飲料水を手に取る。プシュッと缶から炭酸が抜ける音がし、匂いを嗅いだり、缶にプリントされている絵を見たりと興味津々に缶を見ていた。
そんな愛華の様子を傍から卓巳は見て、驚いたように目をパチクリさせ、缶に唇を近づけるものの中々飲もうとしない愛華が微笑ましく見えた。
「……飲まないのか?」
見ていても飲もうとしない愛華に痺れを切らし、卓巳が小さく鼻で笑いながら言う。
「飲むわ。けど始めて口にするものは少し抵抗があるの」
「その気持ちは分かるが、それほどの物じゃないだろ?」
「……それもそうね」
愛華はギュッと瞳を閉じ、ゆっくりと缶に唇を近づける。いっきに飲むのではなく、ほんのちょっぴり口に含んだ。
最初は炭酸特有の酸味が口に広がり、それから咽にささやかな刺激が加わる。
今までに愛華は色々な場でワインやシャンパンなどを飲んできた。そのため、特に咽には気に留めることは無かった。それでも口に残る糖分特有のべとつきが気に食わなかった。
「もういいわ。残りは卓巳さんにあげる」
口元を軽く拭きながら再び愛華は本に視線を送った。
そんな愛華の姿に卓巳は肩をすくめ、直ぐにカナメの方を見る。それからジュースを手に取り、大きな円を描くようにカナメに投げた。カナメは小さくお辞儀をし、愛華とは反対に一気に飲み干す。
「あっ、そうそう。卓巳さん?」
大事な用件を思い出しました。みたいな感じで愛華は卓巳を見る。
「ん? どうした?」
「今週いっぱいでお医者様が退院してもよろしいとのことです。お早めに東郷さんにお別れでも言っておいたほうがよろしいですよ? それにしても残念ですね。可愛らしいお友達がせっかくできたのに、一人で先に退院とは」
そういいつつ悪戯っぽく愛華は笑みを見せた。
卓巳は、というと突然の退院宣言に少しあっけを取られ上手く言葉がでなかった。
「……また大変な日常に逆戻り、か」
ようやく出た言葉が愛華に対する皮肉だった。




