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11パシリ 君の名前は狩野明海 〜中編〜

「それよりさっさと帰らないと親が心配するんじゃないか?」

 そう言いながら卓巳はジーンズのポケットに突っ込んである携帯電話を手に取り、時間を確認しながら言う。

 時は二十時を過ぎ、息子なら特別うるさくは言わないだろうが、娘なら親も相当心配するだろう。

「私は親から信頼されているから大丈夫よ。あなたこそ大丈夫なの?」

「さぁ、な。どうせ仕事が忙しくって俺がいないことに気づいていないかもしれないな」

「それって寂しくない?」

「いや、結構気楽でいいよ」

 卓巳はそう言いながら過去を振り返る。そして振り返れば振り返るほど、卓巳は親との接点が少々薄いことに気づく。もちろんゼロと言うわけではない、それでも他の家庭よりかは少なかった。かといって卓巳はそれについて特別不満がある訳ではないので、特に気にすることはなかった。

「へ〜、私だったら耐え切れないかも」

 明海は苦く笑いながら言う。

「慣れたらそんな事は感じなくなる」

 卓巳は深く息を吸い、そして深く息を吐いた。息は白くにごり、その息が風に乗り消えていく。

「そんなものなの?」

「ああ、例えば熱い湯船に入ったら最初は辛いけど慣れたら気持ちいいだろ? それが今の俺と親に変わっただけだ」

「なるほどね、中々興味深い事をあなたは言うのね。けど私は少し違うと思うわ」

 そう、卓巳の言ったことは少し過ちがある。どれだけ熱い湯船に慣れたところで熱いのは変わらない、熱を体に溜めれば溜めるほど、それ以上の対価で払わなければいけない。

 つまり明海は早い話、いつかは寂しい気持ちでいっぱいになる。

 と、思った。近い未来なのか遠い未来なのかは誰にも分からない。それでもいつかは寂しいと卓巳が思うはずだと明海は感じていた。

「ただの例え話だ。多少違っていようがさほど気にする事はない」

「……まっ、そうかもね。それで、いつまでここで座っているつもりなの?」

 明海はそう言えば、と言っているかのように突然言う。

「さ〜、ね。俺は早く帰りたいけど、友達がトイレに行ったきり戻ってこないから、勝手に帰る訳にはいかないから戻ってくるまで未定だな」

「その友達っていつも一緒にいる人?」

「ああ、そうだ」

「ふ〜ん、イブだっていうのに一緒にいるなんて特別な関係なの?」

 明海は何の迷いもなくサラッと言う。もちろん卓巳と良助はそんな仲では決してない。よくて仲の良い遊び友達、悪くて悪友といったところだろう。

「お前な……」

 卓巳は大きなため息をつき、無邪気に笑っている明海を見る。そんな明海を見ていたら卓巳まで可笑しくなり、小さく笑った。

「突然笑ってどうしたの?」

「いや、ただお前を見ていたら飽きないなって思って」

「なにそれ。……突然あなたの事が分からなくなったわ」

「人なんてそう簡単に分かるものじゃない。それが異性ならなおさらだ。違うか?」

 卓巳が言ったことは大方あっている。男女の価値観とは相当ずれているものだ。小さい頃から女性の中で男性が一人過ごすのなら話は別なのかもしれない。が、卓巳は女性より男性との付き合いが長い。そのため女性とどう接すればいいのか分からないのだ。

 明海は噴出すように声を出して笑い、

「その通りね。あなたは勉強ができないけど、違う知識を色々と持っているのね」

「ほっとけ」

 卓巳は少しすねたようにそっぽを向く。

 ふふふっ、とすねた卓巳を明海は小さく笑いながら見る。

「いじけちゃった?」

「いじけてない」

 素っ気なく卓巳は言い放つ。もちろんそっぽを見た常態で、だ。

「いじけてるじゃない」

「いじけてるはずがない」

「いじけてるわよ」

「それは気のせいだ」

 と、何度か卓巳がいじけているのか否か口論……というより、明海が卓巳をいじっていた。

「まぁ、いじけてないって事でいいわ。あなたって以外に頑固なのね」

「それは違う。事実を述べただけだ」

「そこが頑固なのよ。もう少し素直なら可愛いのに……あなたと話していたらのどが渇いてきたわ」

 ガッカリしたように明海は肩を落としながら、最後に小さく呟く。

 女性の扱いのイロハのイも知らない卓巳は「そこのコンビニで何か買ってくるけど、何が飲みたい?」と、言えるはずもなく、それどころか「だからなに?」と言わんばかりの顔をしていた。

 多少の沈黙が二人の間を流れる。

「ねぇ、そこは男性が気を使って買ってきてくれるのが普通だよね?」

 大きなため息をつきながら明海は情けない人を見つめるかのように卓巳を見る。

 問題の卓巳といえば、今にも古風に手のひらの上にコブシを叩きそうな仕草をして、今の状況をようやく理解していた。

「ちょっと自販機で飲み物買ってくるよ」

「もういいよ」

 立ち上がって走り出そうとしている卓巳に明海は告げる。

「のど渇いていたんじゃないのか?」

 怪訝そうな顔で明海を見つめた。

「もういいって」

「なに怒っているんだよ」

「怒ってない!」

「怒っているよ」

「怒ってないってば!!」

 明海はどうにもむず痒い気持ちでいっぱいだった。それと一緒に無性に卓巳の顔を見るとイライラし、その結果として怒鳴るかたちとなってしまった。もちろん卓巳にとっては理解できるはずがなく、オロオロするだけだった。

 道行く人は別れ話だろうと思っているのか、チラリと見るだけで、何事もなかったかのようにそれぞれイブという日を楽しんでいた。

 少しの沈黙の後に、明海はおもむろに立ち上がる。そして人の波に混ざるかのように歩き出そうとした。が、卓巳が明海の腕を掴む。

「いったいどうしたんだよ? 俺バカだから分からないけど、気に障ることがあったら言ってくれよ!」

「……あなたは何も悪くはない。だから離して!」

「それじゃあ、分からないだろ!?」

 卓巳はどうして明海の機嫌が突然悪くなったのか思い当たることはなかった。そのため、明海にどうにかして聞きたかった。それは学校で友達と呼べる人が少なかったから一人でも友達と呼べる人を失いたくなかった。からではなく、ただたんに明海の事が気になって気まずい関係になるのが嫌だった。でもなく、卓巳は女心に気づけない自分に苛立ちを覚えていたからだ。どうしてこうなったか分からない以上、どうしようもない。だからこそ卓巳は知りたかったのだ。どうして明海の機嫌が突然悪くなったのか、を。

 思いっきり卓巳の手を振り払おうとも、ひ弱な明海が振り払えるはずもなかった。それは卓巳も同じで、絶対に明海の腕を放すつもりはなかった。

 無言のまま卓巳と明海の間には解放しない気持ちと、解放されたい気持ちが交差する。

「そろそろ話してくれよ」

 重い空気の中でポツリと卓巳は言う。

「バカ」

 近くの人にしか聞き取れないほど小さな声で明海が言った。といっても、卓巳は聞き取れなかったため怪訝そうに首を傾げる。

「バカ!」

 叫ぶように言い放ち、卓巳の顔を睨む。

「あっ……」

 卓巳は明海の顔を見て、手から力が抜ける。その隙を逃すはずがない明海は、卓巳の腕を振り払って一目散に人の波に飲まれるように消えていった。

 その場に残された卓巳は振り払われた腕とは関係ないかのように、手を伸ばしたまま明海の姿を追っていた。

「……ずるいよ……お前」

 そして小さく呟いた。

 卓巳は振り返った明海の顔がどうしても頭から離れなかった。それは卓巳にとって初めて誰かを泣かせてしまった事だからだ。


 卓巳はさっきまで座っていた場所に再び座り、少しの間悩んでいた。

 どうして明海を泣かせてしまったのか、と。

 それでも卓巳が行き着く先には何もなかった。分かることは自分が悪いという事実だけ。それ以外は何も分からなかった。

「わり、ちょっと道に迷っていた」

 良助は重い腰を卓巳の隣に落とす。

「……」

「ん? 何かに思いつめているように見えるけど、俺がいない間に何かあったのか?」

 チラリと横目で見ながら良助は心配するというよりかは、気楽に言った。

「……いや、別に」

 素っ気なく卓巳は呟く。

「そうか、何か飲み物でも買ってくるわ」

 眉を軽くひそめて再び良助は歩き出した。

 一応良助なりの心遣いだった。

 考えたい時、誰かに愚痴を聞いてもらいたい時、一人にしてほしい時、人にはそれぞれ独自の世界と、その状況に応じた対応策が必要となる。それでも他の人からは決してどの選択が最善なのかはあまり分かったものではない。時として最悪の結果となるかもしれない、時として最善の結果になるかもしれない。それは誰にも分からない事かもしれない。だからこそ良助は卓巳をそっとしておく選択をとったのだ。

 卓巳は一人になり深く考え、その結果として一つだけ分かったことがあった。

 もう一度明海に理由を聞こう。と、だ。

 それによって明海に避けられるかもしれないが、卓巳は心が揺れてどうすることもできなかった。だからこそ本人に直接聞いて、言ってくれなかったらそれまでだと思った。

 そう思ったら卓巳は直ぐに行動に起こした。直ぐに立ち上がり、人の波を器用に避けながら懸命に走った。そして後から良助には謝っておこうとも思った。

 明海がどこに向かったのかは卓巳には全く検討がつくはずがない。それは当然で、卓巳と明海は友達といえるかどうかの瀬戸際の関係だからだ。悪くて顔見知り、良くて話し相手といったところだろう。それでも卓巳は走り続けた。体力のない体を怨みながらも走り続けた。

 どれぐらい走ったのだろうか。十分だろうか、それとも二十分だろうか。それぐらい長い間走っていたように卓巳は感じた。だけど、実際は五分弱ぐらいしか走ってはいなかった。

「や、やっと見つけた」

 荒い呼吸をし、肩で息をしながら卓巳は走るのを止めた。走るのを止めたのだから、必然的にそこに明海の姿があった。

 明海はビックリしたように目を見開き卓巳を見ていた。

 まだほのかに赤い瞳を隠すかのように卓巳に背を向け、その時の彼女の頬はほんの少しだけ赤く染まっていた。

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