六 嫌な笑みだった
「琳が帰ってこない」
時刻は八時を回っている。俺が作った料理ももう冷めてしまった。心配になって学校に電話しても、もう部活は終わりましたという事務的な答えだけ。学校は、琳が茶髪だというだけで不良枠にいれている。彼女は普段はふざけているが、根はとても優しくていい子だ。そう思われるのはとても悔しい。
翡翠も心配そうに椅子に座っている。
「ちょっと俺、探してくるよ」
翡翠が席を立った。
「私も行くわ」
「いや、俺だけでいい。入れ違いになったら困るだろ」
二階に行き、クローゼットから上着をとる。風の冷たい季節だ。きっと琳は寒がっているだろう。琳のためにもう一つ自分の上着を手に取り(琳は彼女の部屋に入るのを絶対に許してくれない)一応近くにいないか窓から外を覗いた。
「ん?」
左下に目が留まった。家の目の前に、ここから見える限りでも二台、車が止まっている。黒い高級車だ。あんな車が何で家の前に? そのとき、ピンポーン、と音がした。
「翡翠、開けるな!」
俺はとっさに叫んだ。嫌な予感がしたから。すると階段から足音が聞こえ、
「どうして?」
と俺の部屋のドアを開け小声で翡翠が言った。
「嫌な予感がする。やめた方がいい」
翡翠は怪訝な顔で俺を見たけど、何も言わなかった。
ドンドンッと強くドアを叩く音がする。ピンポン、ピンポンとドアベルが連打されているのがわかる。
「誰なの?」
翡翠が俺の服の裾を掴んだ。俺は翡翠の肩をぽんぽんと叩き、とりあえず2人で下へ降りた。
ドンドン、とやはり音が続く中、翡翠をキッチンに隠し俺は玄関に立った。
「おーい! いないのかーい?」
ん?
「神代くーん?」
んん?
「アタシだよ、鏑木。鏑木美奈子ー!」
確かに鏑木先生の声だ。でも家の前の車は何だ? ドアの覗き窓から外を見ると、やっぱり鏑木先生がいた。目を覗き窓にすんげぇ近づけているから、顔しか見えない。一瞬何でここに住所を知ってるんだと思ったが、学校の先生だからだとすぐに気付いた。
「何ですか?」
俺はできるだけ平静を装いながら言った。反面、胸は早鐘を鳴らすようだった。
「あー、いたいた。あのねー、ちょいと話があるんだよー」
「そうですか。何ですか?」
「ここで話すのもなんだからさ、中入れてくれないかい?」
嫌です、とは言いにくい。
「親に知らない人は入れないように言われてるんで」
嘘じゃない。嘘じゃない……と言っておこう。
「先生だろー? いいじゃんかー」
これが教師の口調だろうか。
「いや、ちょっと今は」
「そう……」
そこで空気が変わった。冷たい。凍てつくような間があった。俺は身の危険を感じて玄関から飛びのいた。
ズガァンッ
え? ええ?!
目から伝わる映像を脳が受け入れられていない。だ、だって、目の前でドアがぶち破られたんだぜ?!
玄関のドアが正面から倒れる。飛んできた破片を右手で払い、俺は目をこらした。
「あーあ、ちょいとやりすぎたかな」
「仕方ねーだろう、言うこときかなかったんだから。悪い子にはお仕置きを、ってな」
「やめてくれよ。アタシに教師の役が向いてると思うかい? 平人の方が向いてたゾ」
鏑木先生の声に続いて、知らない男の声が聞こえた。若くはない、低い声だ。平人というらしい。
倒されて真ん中にぱっくりと亀裂の入ったドアの向こうでは、鏑木先生が左手を腰に当てて立っていた。黒光りの全身タイツのような服に身を包み、右手をグーにして、前に突き出している。まさか……パンチしたってのか? あの小柄な体のどこからこんな力が出るんだ? その後ろには一八〇㎝を軽く超すハゲに豊かな口髭の大男がパイプを吹かせていた。これが平人だろう。
「悪いねー、神代くん。ちょいと手荒な真似しちゃって。この家が軟だから悪いんだゾ?」
鏑木先生が、にっこりと笑った。
背筋がゾッとする、嫌な笑みだった。




