三十二 琳の悩み
結衣香さんが翡翠と仲良くなって二日。今日の授業が全て終わった。やっとだ、嬉しい。疲れたな、と話しながら翡翠と二人で部屋に戻ると、琳がうつむいてベッドに腰掛けていた。
「どうした、琳?」
琳は俺たちが入ってきたことにも気づかないようだったので心配になって声をかけると、はっと我に返って顔を上げた。今にも泣き出しそうな顔だ。
「何かあったのか?」
いつも元気な琳がこんな表情をするなんて、ただごとじゃない。
「……ううん」
そしてまたうつむいてしまう。俺は翡翠と顔を見合わせ、琳のすぐ横に腰掛けた。
「どうした。言ってみろよ」
「ううん。何でもないもん」
「そんな顔して、何でもないわけないだろ。俺に隠し事していいのか?」
俺たちは父さんに嫌というほど言い聞かされている。
家族に隠し事をしてはいけない、と。
「だって何にもないんだもんっ!」
声を荒げ、俺を軽く睨んだ琳が嗚咽を漏らしだした。目に涙が溢れ、ころんと頬に落ちる。
ほらな、やっぱりただごとじゃない。
琳は人前で泣くことをひどく嫌う。悩んでいてもそれを相談しない。前回こういう感じになった時も、やっぱり俺が無理やり聞き出さなきゃならなかった。俺が頼りないのだろうか。それも考えたが、やっぱり琳の性格上の理由の方が大きいだろう。琳の悩みは俺の悩みだ。
「大丈夫。言わなきゃわかんねぇから言ってくれ。どうして泣いてるんだ?」
ぽんと琳の頭に手を乗せ、優しく語り掛ける。翡翠はずっと黙ってそんな俺たちを見ていた。無理に介入しない方が得策だと思ったのだろう。
「だって……」
「うん」
「だって、あたしだけ何にも出来ないんだもん……」
「何が出来ないんだ?」
「体育祭の練習のとき、大玉転がしで一人だけ転んでチームに迷惑かけちゃったし、テストが全然いい点じゃなかったし、武術部で初めて火地の民の男子の高校生に負けちゃったし……」
「転ぶなんて誰にでもあるじゃねぇか。テストは、次頑張ればいいだけの話。武術部でのことだって、火地の民の高校生男子なんて強すぎるだろ。琳はまだ完全には慣れていないんだし。気に病むことじゃない」
「でも、この前SSに襲われたときも一人だけ何の役にも立てなかった……あたしはダメな子なんだもん……」
またぽろぽろと涙をこぼす琳。それが一番の悩みか。黙って、何と言おうか迷う俺。励ますか、叱咤するか。この頃の女子は難しいから最初の一手が大切だと、妙に慎重になってしまった。沈黙が降りる。
すると傍観していた翡翠が口を出した。
「そのようなことはないわ。自分で自分を信じなくてどうするの?」
琳が翡翠を見た。
「誰にでも失敗はある。出来ないこともある。でもみんな出来るようにするために頑張っているわよ? そんなに自分を責めないで。琳は真っ直ぐでいい子というのは私たちがよく知っているわ。自分で自分を信じてあげなきゃ」
琳はぼぅっと翡翠を見つめている。二、三度、視線を揺らめかせ……。
お。頭の中で整理がついたのか、急に瞳が輝きを取り戻した。
「……うん!」
そして立ち上がり、琳が翡翠に抱きつく。翡翠はあらあらと言いながら優しく頭を撫でている。
泣き止ませて改心させた翡翠もすごいけど、琳も単純だな。思わず微笑んでしまった。俺はそんな二人を見ながら、仲間っていいもんだな、と思っていた。
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部活に行こうと部屋を出ると、廊下の壁、俺たちの部屋の真横に白髪の少年がもたれ掛っていた。
あの子だ。えーっと、あの、水氷の民の代表の子。
「どうしたんだ?」
後ろ手にドアを閉め、少し警戒しながら聞く。
「匡輝先輩のこと、待ってました」
「そうか」
そうか、じゃねぇよ。何意外な言葉に気圧されてんだよ俺。
この子は小さいながらもかわいい顔をしている。童顔で、紙のように真っ白な肌だ。大きな眼は鮮やかな青色。その瞳で下からじっと見つめられると、やっぱりちょっと緊張する。
「で、何か用か?」
「はい。まずは、自己紹介から。ぼくのこと、ご存じないですよね?」
「ああ、まあな。水氷の民の代表で祈りを捧げてるってことくらいしか」
「でもそれだけ知ってくださっていれば嬉しいです。ぼくはブランク・デュ・拓斗。中学三年の選抜クラスで、フランスで生まれ育った、フランスと日本のハーフです」
どおりで鼻も高いわけだ。膝を折って礼をされた。強いうえに上品ときてる。
「知ってるとは思うが、俺は神代匡輝。よろしくな」
「よろしくお願いします。そこで、本題なのですが」
俺は身構えた。拓斗が目を伏せる。
「琳祢ちゃんのことです。今日、全然元気がなくて。授業で指名されても物思いにふけって気づかなかったりしたんです。話しかけて、どうしたの、と聞いても、平気、とその時は元気になるのですがすぐ戻ってしまいます。何か悩んでいるなら力になりたいのに。お兄さんである匡輝先輩なら何か知ってらっしゃるのではないかと思って、このようにお尋ねした次第です」
な――なんていい子なんだ。
家族のことをこんなに思われて嬉しくないヤツなんているか?
「ああ、そのことならさっき解決したからもう大丈夫だと思うぜ。心遣い、ありがとな」
俺の言葉を聞いて、拓斗は驚いたように目を丸くして、ほっと、また目を伏せた。
「よかった。では、これで」
拓斗は背を向けて歩き出してしまう。
「ちょっ、待てよ、それだけのために来てくれたのか?」
「はい」
顔だけで振り返り、少し微笑む拓斗。
「何か、悪いな。心配かけちまって。お前も何か悩みがありゃ、俺に言えよ。いつでも相談に乗るからさ」
拓斗は少し驚いて口をぱくぱくしていたが、ふっと淡く笑って頷き、また歩き出した。
俺はしばらくその姿を見ていたが、はっと我に返り、部活へ急いだ。




