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一  ヤバいことになった

 今日は雨だ。しかもどしゃぶり。朝から憂鬱だぜ、まったく。


 そうそう、ここで自己紹介をしておこう。

 俺の名は神代匡輝かみしろまさき。まあ平凡な男子・高校二年生だ。先日、親の都合でこの羽風高校に転入してきた。といっても、昨日が初の登校日だった。でも、初登校日が授業参観ってどうよ? まあいいけど。家は一軒家で、妹と父親との三人暮らしだ。でも、父親は会社で忙しいため、滅多に家に帰ってこない。帰ってくるのは半年に何回か程度。だから、授業参観にも、もちろんこられない。家事は全般俺がやっている。財布のひもを締めるのも俺である。遊びたい盛りの高校生に財布を預けるのはどうなのか、と思いつつも、別に父親のことを嫌っているわけではない。残っている、たった一人の肉親だ。憎めない。

 母親は、俺を産んだ時に死んだ。これで、あれ、と思った人。その通りだ。俺と妹は、血が繋がっていない。彼女は、養子である。どうやら、父親が出張先から借りアパートに帰る途中、孤児院の前を通り、そこにちょうど連れ込まれるところだった子をかわいそうで引き取ってしまったらしい。彼女が二歳のときに。うちの父親はお節介で困る。


「ねぇ、聞いてるの?」


「あ? ああ、聞いてる聞いてる」


「嘘。今絶対よそ見してた。もう、お兄ちゃんなんかとおしゃべりしてあげないんだから」


「何だよそれ。別にいいよ、俺は」


「……ごめんね、お兄ちゃん。おしゃべりしようよー」


 この若干ツンデレ気味なのが、俺の妹の琳祢りんね。珍しい名前だと思うはずだ。これは本当の親がつけた名前で、巡り巡ってまた会えますように、という思いを込めてこの名前をつけたらしい。産んだ時から孤児院に預ける前提だったことが悲しいが。この子は中学三年生。なかなか可愛い外見をしているというのは、俺が親バカなわけじゃない。生まれつきの茶髪は首までの長さ、というショートヘアに、クリクリとした二重の目は純日本人のはずなのになぜか若草色をしている。彼女の一五五㎝という小柄な背丈は俺が頭を撫でてやるのにちょうどよい高さである。とはいえ、小柄なのと胸がないのがコンプレックスな彼女はこれを言うとすねるので、我が家では禁句である。

 俺は、説教をされていた。あの件があり、俺はほぼ朝帰りという状態だった。やっと着いたと思って家のドアを鍵であけたら、チェーンがかかっていて開かなかった。

これはまずい、と思った。家に入れない、という問題ではなく、妹が怒っている、という意味で。彼女はなぜか嫉妬深い。特に俺に対して。そして、どうも俺に変な勘違いをしていたらしい。完全な朝になって、うとうとと玄関前で微睡んでいたら、ドアが開いて家に引きずり込まれた。そして転んでいる俺に向かって仁王立ちをし、


「こんなフシダラな人だと思わなかった!」


 と言うのだ。

 ……誤解である。


「何言ってんだ?」


 ところが俺も睡眠不足でイライラしていたのでけんか腰だった。


「朝帰りなんて、お兄ちゃん不潔! まだ高校二年生の癖に。しかも引っ越してばっかり! 相手は誰?」


 てん、てん、てん。


「違う違う! 何考えてるっつーか何てことを知ってるんだお前は?! 誰に聞いた?」


「新しい学校のお友達が言ってた」


 一昨日越してきて昨日初めて登校したのによく友達ができるものだ。俺はまだ慣れない。


「いいか琳(俺は彼女をこう呼ぶ)、そういうのはまだ早い。俺は別にそんなことをしてきたわけじゃないし、そんなことに興味を持つなんてまだ駄目だ。それに、俺は貞操を守ってる」


「テイソウ?」


「あああ! 何でもない! とにかく違う、誤解だよ」


 それでも彼女は不機嫌そうに腕を組んで俺を見下ろしている。


「じゃあ、どうしてこんな時間に帰ってきたの?」


 ここで何と言うかで俺は考えた。クマに遭った、と言っても、信じない、もしくは心配して泣きだすだろう。まず、もし遭ったなら真っ先に家に帰ってきていいはずだ。


「家の近くの、ほら、森あるだろ? あそこに探索にいっただろ、俺。そしたら、森で転んで、警察の人に見つかったんだ。それで事情聴取されてたわけ」


 完全な苦しい嘘だ。なぜ転んだのか、なぜ警察がいたのかも説明できない。なぜ事情聴取されたのかさえ。まずい。これが嘘とばれたら、本当に俺は――。


「大丈夫? どこ転んだの?」


「い、いや、転んだというより倒れたっていう方がいいか。貧血でな、ちょっと意識がなかったんだ。でももう大丈夫だよ」


 こいつ騙された!


「そっか。ならいいの。ごめんね、疑って。冷えたでしょ?」


「いや、まだ九月だからな」


「お風呂温めてくるね。おかえり、お兄ちゃん」


 そう言って琳は、廊下をぺたぺたと駆けて行った。俺はふぅ、と安堵のため息をつき、ドアに向きなおってドアを閉めようとした。そのときに、ふと思った。

 今日は雨だ、と。


          <<<<<


 日曜日は、買い出しの日だ。これは引っ越してばかりでも、例外ではない。日曜日のタイムサービスは俺にとって天の恵みだ。反面、地獄の争いでもあるが。


「おーい、買い物行ってくるな」


「うんっ。あたしも行く!」


「雨だからやめとけ。一人で十分だ」


「わかった。気を付けてね」


 俺は、買い物袋を肩に提げて家を出た。ポケットの銭の重みを手で確かめつつ、鍵をかける。空を見上げた。ねずみ色。ひどい雨だ。


「傘持ってくしかねぇな……」


 独り言をいい、玄関先に置いてあった傘をとり、開いた。軽い雨なら傘なしで走っていってきてしまうのだが、この大降りではそうもいかない。そして家に背を向けた。

 と、そこでとんでもないものを見た。


「な……?!」


 人が、倒れていた。

 道のど真ん中に、うつぶせで。

 雪のように白く長い髪が縺れ、顔にかかっている。クリーム色の絹のようなワンピースは泥に汚れ、手足がむきだしだ。


「お、おい!」


 俺は傘を放り出して、その人に駆け寄り、仰向けに直した。女の子だ。俺と同じくらいの歳で、目をかたくつむっている。体がとても冷えている。


「大丈夫か?」


 答えはない。完全に気を失っているようだ。でも胸に手を当てると、かすかに動いた。よかった、生きてる。

 救急車よりも先に、早くこの人を温めてあげなければと感じた。さらに、引っ越してきたばかりで病院の場所がわからない。こんな海沿いだ、きっと遠いだろう。

 俺は彼女を抱き上げ、ドアを力任せに蹴った。琳が驚いて出てくるなり、あっと声をあげた。


「どうしたの、この人?」


「目の前の通りで倒れてた。タオルを二枚とってきてくれ。デカいやつ」


 こくんと頷いて、琳は目を丸くしたまま風呂場に走り出した。俺はドアの鍵を閉めるのも忘れて、足を振って靴を脱ぎ、リビングに駆けた。


「はい」


「サンキュー、一枚そこに広げてくれ」


 琳がおとなしくタオルを床にひいた。俺はそこに彼女を横たえた。


「失礼だが、この人の服を脱がせよう。下着はいい。こんなに濡れていたら風邪をひく。俺、服とってくるから、タオルで拭いてあげてくれ。いいな?」


「う、うん」


 琳は気圧されたかのように何度も頷いた。俺は二階の自室へ行った。あの背丈じゃ、琳の服は到底入らないだろう。だから俺の適当な部屋着を選んで再びリビングに向かった。


「ここに置いておくからな」


「わかった」


 少し緊張した声だ。ところで、今のうちに傘等を回収しよう、とまた外へ出た。一瞬視線を感じたのは、気のせいか、もしくは誰かが家から覗いていたのかもしれない。


「終わったよ。あ、お兄ちゃんもびしゃびしゃじゃない!」


「俺はいいんだよ。あとで廊下拭いておくから。よし、よくやったな琳。ありがとう」


 そしてまた彼女を抱きかかえ(何せ羽のように軽い)俺の部屋のベッドに寝かせた。季節外れの羽毛布団を物置から引っ張り出し、彼女の上にかけたとき、俺は汗をかいていた。


「でも、これで一安心」


 俺は独りで呟いて、どっこいしょと椅子に座った。濡れた髪からぽたりぽたりと水滴が垂れてくる。でも、それよりもどっと疲れが来てしまって。なにせ、昨日から真面に一睡もしていない。昨日は全速力で何㎞も走ったし、今日は雨に濡れた。

 ぼんやりと、俺は眠りに吸い込まれた。


          <<<<<


「あの……」


 柔らかな声で目を覚ます。瞼を開くと、すぐそこにあの女の子の顔があった。


「おわっ?!」


 びっくりして後ろにひっくり返りそうになったのを、女の子は心配そうに見つめていた。


「大、丈夫ですか?」


「あ、ああ。よかった、気が付いて」


 顔をあげて、彼女に微笑みかける。そこでやっと、よく観察できた。

まるで雪のように白い髪が腰辺りまであり、一房、顔のすぐ左で三つ編みにしてある。しゅっとした輪郭に、細い手足からして、痩せているほうだろう。唇はまだ薄い色だがいい形をしている。二重の大きな目は、真っ青だった。とても綺麗な子だ。これ以上にないくらい。

 外人か? でも、髪の白い(染めたようなパサパサのものではなく、元からのような柔らかな白だ)人間なんて見たことがない。


「ところで、どうしてあそこに倒れてたんだ?」


俺は観察をやめ、唐突にそう聞いた。まどろっこしいのが嫌だった。


「倒れて、いた?」


「ああ、君は俺の家の前で倒れていたんだ」


 少女はそこで、またとんでもないことを口にした。


「わかりません……」


「え?」


 少女は俺の声にびくりと震えた。いきなりこの大声は怖いかもしれない。俺は立ち上がり、どうぞ、と椅子を少女に受け渡した。少女は初めは躊躇ったが素直に座った。


「ごめんごめん。じゃあ、これはわかるよな。住所と、電話番号。あと、名前」


 少女がうつむき加減に俺を見、床に目を移した。


「思い出せない……何も」


 俺は、絶句した。記憶喪失。初めて見た。俺の頭を、嘘じゃないか、という疑いが過ったが、この少女の不安そうな表情を見ているとどうしても言い出せなく、そしてその可能性が限りなくゼロに近いとわかった。


「本当に、何も? どうしてあそこに倒れていたのかも?」


 こくん、と頷く少女。


「起きたら、知らない場所にいて、近くに貴方がいらしたので伺おうと思っていたのです。何か、私のことをご存じではないか、と」


 ゆっくり、あまり目を見ないで話すこの美少女は、どこか神秘がかっているとさえ思った。


「そっかそっか。まあ落ち着けよ」


 何がそっかそっかだ。一番慌てているのは俺自身。彼女は十分大人しい。


「ひとまず風呂に入ってきな。それから話し合おう」


「風呂、とは?」


 そこからか。そこからなのか。


「うーん……昔でいう湯浴みみたいなもんだな。来いよ、説明する」


「あ、湯浴みなら……」


「わかるか?」


「はい」


 椅子から立ち上がった少女が、少し嬉しそうに微笑んだ。俺も安心した(いろんな意味で)。そこから時々ふらつく少女を支えながら階段を下り、風呂場に行った。


「ここが風呂場だ。シャワーの使い方はわかるか?」


「しゃわあ?」


 小首を傾げ、きょとんとする少女を不覚にも可愛いと思ってしまった。


「これをねじると、水がでてくるんだ。で、これをこう押して出てきた石鹸で体を洗って、ああ、こっちで髪もな、で、この湯につかる。わかるか?」


「これを、こう。きゃっ!」


 シャワーから急に水が出てきたのに驚いたようで、少女が俺にしがみついた。アハハ、と思わず笑ってしまった。


「じゃあ、また後でな。タオルと服を置いておくからそれを着てくれ」


「はい、わかりました。ご親切にありがとうございます」


 俺は足早にその場を去った。リビングでは琳がテレビを見ていた。


「琳」


「なぁに?」


「ヤバイことになった」


「へ?」


          <<<<<


「これは?」


「えんぴつ」


「これは?」


「手ぬぐい」


 俺たちは今、リビングのテーブルに座っていた。向かいに少女、俺の隣に琳がいる。


「つまり、君は昔からあった言葉はわかるんだな」


 俺はつぶやいた。一応、何を覚えていて何を忘れてしまったのか確かめていたところだったんだ。彼女は、タオルを手ぬぐいと言った。風呂は、湯浴みと言った。間違いない。今の言語、特に横文字がわからないんだ。でも、なぜ? この子は見てからに俺と同年代。現代っ子のはずだ。それなのに……。わからない。


「何歳なんですか?」


 琳が少女に聞いた。と、そのとき、少女の表情が変わった。


「わからない……何も思い出せません!」


 少女が椅子からとびおきた。その拍子に椅子が倒れ、ごとん、と大きな音が鳴る。


「どうしたの?!」

 

「何もわからないの。私……私、どうしてしまったの?」


「きっとパニックだ」


 俺は上の空で言い、立ち上がった。琳が怯えたように尻込みしている。


「水をもってきてくれないか」


 琳にそう言い、少女にゆっくり近づいた俺は、少女には見えていない様だった。


「大丈夫、落ち着け」


「どうしよう? 何もわからないの。私、どうしてしまったの?」


 独り言のようにずっと話している。それが切なくて。どうしたら止めてあげられるのかもわからない。俺は、自分の行動に後悔していた。いきなり記憶喪失だと決めつけ、実感させてしまったのは俺だ。初めの一言であんなこと言うんじゃなかった。それできっと、彼女は余計に混乱してしまったのだろう。なぜもっと俺たちに溶け込めるようにしなかった? 俺のせいだ。


「ごめんな」


 少女に呟き、ためらいがちに手をのばす。頭に触れ、いつも琳にしているように頭を撫でる。なぜか、撫でていたんだ。なんだか、こうすればいいって、わかってるみたいに。


「……?」


 少女の動きが止まる。俺を見て、そして、急に倒れ込んだ。慌てて抱き留めると、すぐに気がついてくれた。


「ご、ごめんなさい、私ったら……」


「いいんだよ、全然。俺も悪かった」


「何をおっしゃいますか、あなたは全然悪くなどありません」


 ばりんっ。


 おそるおそる振り返ると、琳が微笑みながらプラスチックのコップを片手で割っているところだった。


「謝り合戦もいいけど、その恰好、やめてよね」


 慌てて少女を離したら、少女も慌てて立ち上がった。


「そ、そういえば、今日は大雨だな」


 空気をかえようとして、俺は言った。横殴りの雨が、窓にあたって音をたてている。カーテンを閉めようかな。俺は窓に近づいた。


「すい」


 少女が、唐突に呟いた。


「ん?」


 思わず振り返ると、イスに座ろうとしていた少女が窓の外を見ていた。初めて表情が明るくなっている。


「私の名前には、すいという字が入っていた気がします」


「思い出したのか!」


「いえ、まだ全部は……。今、雨を見て思い出したのです」


「雨、か」


 ぼんやりと空を見上げると、さっきよりは雨が弱まってきていることに気づいた。このままにしておこう。彼女の記憶の鍵かもしれない。俺はカーテンを閉めずに、テーブルに戻った。


「ねえ、年齢は? 思い出せないの?」


 おやつを食べて機嫌を直した琳がスイ(仮)に聞いた。どうやら敬語が面倒くさくなったようだ。でもスイはそれを気にせず、琳に向き直った。うっすら微笑んでいる。


「十七歳です。これも思い出せました。どうしてかはわからないけれど」


「思い出せたのなら何でもいいよ。他には?」


 俺が言うと、スイが眉をひそめ、考え込んだ。でも、すぐに首を振った。


「ダメみたいです。黒い靄に包まれて見えないのです」


「変だな。記憶喪失ってそういうもんなのか?」


「聞いたことないね、お兄ちゃん」


 俺たちは首を傾げた。


「ともかく、俺は神代匡輝。十七歳だ」


「あたしは琳祢。この人の妹。十五歳だよ。よろしくね」


 スイが微笑み、大きく頷いた。すると琳が真面目な顔をして言った。


「病院はどうするの? 記憶喪失なら、病院連れてってあげなきゃ」


「病院、な。ネットで調べればすぐ場所もわかるし、明日は学校も休みだから……どうしようか」


 すると、スイがきょとんとして聞いた。


「病院、とは?」


 病院もわからないのか。これはだいぶ手こずりそうだ。

 俺は2人に少し待つように言い、二階へ行って自分のノートパソコンをとってきた。そして典型的な大きい病院の画像をスイに見せた。


「これが病院。人が助けてもらえる場所だ」


「いやぁっ!」


 病院の画像を見た瞬間。スイが目を覆う。


「どうしたの?」


 心配そうに琳が聞くと、スイは肩を震わせながら答えた。


「怖い、です……それ、見たくない……」


 俺は急いでノートパソコンを閉じた。そしてスイが落ち着くのを待った。

 五分くらい経っただろうか、やっとスイが顔をあげ、力のない笑みを浮かべた。


「すみません、その病院というのは何だか、とても嫌な印象で……」


 病院嫌いという人はたまにいるが、この子はまた違う病院嫌いそうである。どうしてこの典型的な病院の外観がダメなのだろうか? わからない。でも、実際の病院も見せない方がいいだろう。怖がって記憶の扉がさらに閉まってしまっては元も子もない。

 いいことを考えた。

 ここで――この家で、スイが記憶を取り戻すのを待てばいいんだ。

 きっと、普通の人なら、え? 何で? と思うだろう。どうやったらそれが=でつながるの? と。でも、俺はそれが今とれる唯一の方法だと思った。これならスイも怖い思いをせずにゆっくり記憶を戻せるだろう、と。病院に行くのが最善の方法だけど、本人が嫌で怖くて無理なら仕方ない。幸い、家には俺たち兄弟しかいないから、誰にもばれずにこの子を匿ってやれる。匿うって言い方はおかしいか。でも何か引っかかるんだよな。何か……この子と一緒にいたい、って感じか?いやいや、一目惚れとかそういうんじゃない。ただ、ここで一緒で暮らした方がいい気がする。

 だから、うん、そうしよう。それがいい。


「じゃあここで、スイの呼び名を決めたいと思う」


「スイじゃダメなの?」


「それだけじゃつまんねぇだろ? 何か真面目な名前考えようぜ」


「うーん」


 琳は顎に手を当てて考えている。スイがわくわくしているように前のめりで俺たちを見た。


「水子は?」


 俺が言うと、琳に横目でにらまれた。


「センスなーい」


「悪くはないと、思いますが……」


 ちぇっ。スイにも苦笑いをされる始末だ。


翡翠ひすいはどうかな?」


 ぽんっと手をたたいて言った琳を、ほっとした顔でスイが見つめた。


「いいじゃん。目、翡翠みたいに綺麗な青だしな」


「いえいえ……でも、翡翠は素敵なお名前ですね。ありがとうございます、琳祢さん」


 簡単に名前が決まった。この子は、翡翠だ。


「ううん。あと、琳でいいよ。ねぇ翡翠、敬語やめようよ!」


「琳祢さ……琳が、言うなら」


 翡翠が淡く微笑んだ。俺もにっと笑った。この分なら、うまくやっていけそうだ。


「これからのことだが……」


 俺はそこで一度言葉をきり、琳と翡翠の顔を交互に見てから言った。


「まず、本当の名前や住所がわかるまで、翡翠にはこの家で暮らしてもらう」


 当然のことだ。でも翡翠は驚いたように首を横に振った。


「ダメです! これ以上ご迷惑をおかけするわけには……」


 それを見て、琳がアハハと笑った。


「敬語出てるよ。それに、あたしは翡翠がいてくれたほうがいい。楽しそう!」


「俺もだ。言っておくが、完全なお客様ではないぜ? 家事とかは手伝ってもらう」


 翡翠がまたほっとした顔をした。


「それなら、お願いします」


「それでだ。警察には届出をしないことにしようと思う」


「どうして?」


 琳が驚いて訝しげに聞いた。


「白髪に青目の記憶喪失の少女なんて、外国に送られちまいそうだ。それに、悪い場合信じてもらえない可能性もある」


 記憶喪失なんてそうそういるもんじゃない。ましてや子供だけで「家の前で拾いました」なんて言ったら、子供の悪ふざけ、と取り合ってもらえない可能性の方が高いだろう。


「じゃあ、どうやって身元を探すの?」


「ネットで検索する。行方不明者捜索のサイトは多いからな。翡翠は特徴が多い。それに、ニュースになるかもしれない。テレビやネットの情報には注意しよう。なぁに、すぐに見つかるさ」


「もし見つからなかったら、ずっとここにいていいからねっ」


 ずいぶんと翡翠が気に入ったようで、琳は翡翠に満面の笑みを浮かべた。

 実際、話はここまで単純じゃないかもしれない、と俺は思った。雨の中、傘も持たずに道に倒れていたなんて、どう考えてもおかしい。なにより、記憶喪失になるきっかけがあったはずだ。それをふまえると、最悪の場合、誘拐されたと考えるのも必要だ。こんな美少女だし。もしそうだったら……。翡翠は、心理的ストレスで記憶喪失になったのかもしれない。


「では、これからよろしくお願いします、匡輝くん、琳」


 そんな俺の思案を余所に、翡翠は影の無い笑顔を見せた。


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