十一 あれ、先客?
「うーん……」
琳が寝返りをうった。翡翠はすやすやと眠っている。
昨夜(あ、今日か)は倒れるようにすぐ眠ってしまった。それなのにかかわらず、今朝は早く目が覚めた。ベッドに横になりながら目を開けているのだが、もう二度寝出来そうにない。
部屋はまるでアパートのように広く、風呂と洗面台が完備されている。キッチンはないので、食堂か何かで食事をとるのだろう。ドアを開けるとリビングがあり、その奥に風呂場、洗面台、物置部屋(だいぶ広いので物置にするのにはもったいない。他にも用途があるはずだ。ちなみに、クローゼットがあるのはここ)がある。ベッドはリビングの四隅においてあり、家のよりも上等なものである。リビングの真ん中にはテーブルがある。ここで話したりいろいろできるだろう。
俺は二人を起こさないように静かにゆっくり起き上がり、部屋を出て鍵を閉めた。
風に当たりたかったんだ。考えを、まとめたかった。
「……」
エレベーターはあるけれど、音が大きい。寮だから、みんなを起こしてはいけない。俺は屋上へ階段で向かった。
屋上に出るドアを開けると、冷たい風が俺を貫いた。あーあ、何か持って来ればよかった。そのままドアを後ろ手に閉め、背中がかゆいのでかきながらフェンスの方へ歩き始める。うぅ、寒。外はまだ薄暗く、日が遠くに見えているだけで月の方が高い位置にあった。
俺はフェンスに背中でもたれ、昇っていく太陽をのんびり見ていた。だんだん明るくなってくる。
「あれ、先客?」
何分経ったろう。ふとアルトの声がして、俺は振り返った。そこにいた人物に、俺は目を見開いた。
艶やかで長い黒髪を頭の高い位置で横結びにし、白いワンピースを着ている。少し日に焼けた手足に、灰色の瞳。すっと高い鼻に、薄く開いた唇。彼女は、俺と同じように驚いていた。そしてかすれた声で言った。
「……匡?」
「ああ」
「何でここに……?」
彼女――いや、杉山遥は、俺の前々回の高校の先輩だった。つまり、高校三年生である(当時は二年生)。サッカー部のマネージャーとして、特に仲が良かった。
とはいえ、なぜ遥がここに?
「それはこっちのセリフ。お前こそ、何でこんなとこにいるんだ?」
遥は某有名大学の教授の娘で、将来が確約されている。さらに美人。超がつくくらい。もちろん頭もいいので、モテモテだった。それなのに、なぜここに。
「先に質問したのはこっちでしょ?」
……気の強いのが玉にキズだが。
「よくわかんねぇ」
「はぁ? わかんない、では済まないでしょ。このわたしが理解するまで話しなさい」
要は若干高飛車なのである。
「だーかーら、俺もまだよくわかんねぇの。いきなり今日……つーか昨日か? まあどっちでもいいけど、連れてこられたんだから」
「琳も一緒?」
「ああ。勿論な」
遥はうつむき、髪を触った。琳と遥はよく喧嘩をする。家に遊びに(というか家出してきて)きた際は(数えるくらいしかないが)必ず喧嘩していた。互いに仲がいいのは確かなのだが、何かとぶつかりやすいのだ。
「まぁいいや。じゃあ、わたしの話ね。少し長くなるよ」
「了解」
彼女の話を要約すると、こうなる。
俺が転校した翌日。ふいに、母が行方不明になった。原因は不明。警察に届け出を出すも、家出ではないかと片づけられてしまった。なにせ、彼女の母と父はまるで他人のように接し合っていたから。嫌気がさしたのでは、と言われた。そういわれた夜、いつも通り帰ってこない父を待つことなくベッドに向かおうとすると、一本の電話があった。そこで、自分が狙われていることを聞き、怖くなって素直に来いと指定された場所に行った。するとそこが、この学園だった。
「それからこの学園で過ごしてるんだ。あのうるさいお父さんも、この偏差値の高い高校にスカウトされたって聞いたら何も言わなかった。お父さんは、民のこととか何にも知らないの。無理に危険に引き込むわけにもいかないでしょ? だから、何にも言ってない。ここにきてから、ちょうど一年くらいかな」
ふうん、SNAって偏差値高いんだ。いやいや、そういうことじゃなくて。そこじゃなくて。
「そうか……大変だったんだな」
「ううん、命があるだけでいいよ。お母さんは、きっともう……」
それから遥は黙ってしまった。俺はぽんぽんと彼女の肩を叩いた。
「まだあきらめんなよ。わかんねぇじゃん」
「そう……だよね。うん、匡の言うとおり」
ふっと遥が笑うと、彼女の左頬に笑窪ができた。冷たい印象なのに、可愛らしい。
「立花先生に新入生のオリエンテーション頼まれてたんだけど、匡たちのことだったんだね」
「遥がするのか?」
「うん。ま、立花先生監修の元、だけどね」
俺も、ふっと笑った。立花先生とは縁が深くなりそうだ。ここで聞きたいことは山ほどある。でもこんな寒い中立ち話もなんだし、何よりオリエンがあるし。
「そろそろ行こうか。寒いだろ? 毎朝来んのか?」
「ううん、気が向いた時だけ」
そこから他愛のない話をして、俺たちは自室に戻った。
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・遥・
「じゃあね」
「おう。また後でな」
匡と別れ、わたしは部屋に入り、急いで後ろ手に鍵を閉めた。そのままドアによりかかり、ふぅと息をつくとやっと肩の力が抜けた。
匡。匡に、再会できた。
匡が転校した日、家に帰った後はしばらく部屋から出られなかった。あんなに泣いたことはないかもしれない、というくらい泣いた。
寂しかった。匡がいないことで、わたしはこんなにも苦しいのかと自分を責めた日もあった。早く離れなきゃ、と。もう二度と会えないと思い、思い出すたび涙が出そうになっている自分が確かにいた。
でも、会えた。再び、彼に。嬉しかった。
再会しても、匡は変わっていなかった。
あれだけモテる人はそうそういない。わたしも納得だ。少し長めで無造作な漆黒の髪に、切れ長で二重の澄んだ黒い瞳は何を考えているのか読み取りにくい神秘を湛えている。背が高く、体格もいい。芸能人顔負けにかっこいいのだ。さらに、優しく頭もいい。運動もできるし、気も利く。完璧人間とはこの人のことを言うのだとわたしは思う。ただ唯一の欠点は、鈍感と言うところである。特に、人の好意に対して。
「はぁ……」
力が抜けて、その場に座り込んでしまった。神様、ありがとう。また、会わせてくれて。
頭の中は匡のことでいっぱいだった。頬を温かいものが流れ落ちる。
これは、喜びの涙だった。




