プロローグ
ずいぶんと深い森だな、と思った。
もう何時間探索しただろうか。奥に行けばいくほど、葉の色は濃くなる。背の高い木や草が歩みを遅くさせる。暖色系の落ち葉が積もっているから余計だ。上から下から、さわさわ、かさかさ、と音が鳴っている。風か、獣かの判断がつかない。さっき、ばたばたと梟が飛んで行った時は本気でびっくりした。いきなりはキツイ。
そういえば、クマ、いるんだっけ。
木からリスが見下ろしてきた。ちょっとかわいい。でもすぐ走っていってしまった。
そろそろ帰ろうかな、という、安全を優先したがる気持ちと、いや、ここで止まっては男がすたる、向こう側まで行ってやろう、という好奇心が心の中で大格闘している。
うーん。
「あ!」
用心のため手に握っていた携帯電話の光が消えた。慌てて開いてみると、電源切れだ。くそっ、こんなときに。もともと圏外だったのだが、一応気持ちを支えてくれていた。もう辺りは薄暗い。
決めた。もう一度出直そう。今日は高校が早めに終わったから、と侮って昼食を食べてから出てきてしまった。こんなに深い森だとも思わなかったし、今度は朝から出てこよう。
俺は小さくため息をついて、くるりと向きを変え……ようとした。
そのとき。
ぴきんっ。
歩みが止まる。音の出どころはわからないが、確かに森に響いた。誰かいるのか?
誰だ? 人か? だったらこんな森の奥になぜ来る。獣か? もしそうだったら。本能が逃げろ、と告げた。でも、クマだったら足で勝ち目はない。それに、足音でばれたらまずい。とにかく、ここはー、えーと、どうしよう? とりあえず、近くの草むらに頭まですっぽり隠れた。
ぴきんっ。
また聞こえた。さっきより近い。頼む、気づかれないでくれ。クマって匂いとかわかるのか? やべぇ、俺餃子食ってきちまったよどうしよう。俺は草むらの奥に尻を押し込み、体を縮めた。
「はぁ、はぁ」
誰かが走っている。落ち葉を踏みしめる音がせわしない。しかしもう一つ、落ち葉をかき分ける音がなっていた。
俺は葉と葉の間から目をこらした。まさか、と。でも、目の前を人の足が一瞬通り過ぎ、次に黒いナニカが通った時、それはどうしようもなく畜生な現実だと確信した。
クマ……?!
しかも、誰かが餌食になろうとしている。
俺は思わず立ち上がっていた。そして、薄暗くてよくわからないがクマと思われる黒いナニカに、後ろから近くにあった小石を投げつけた。さらに大声で
「おうい! クマ鍋にしちまうぞ!」
と、幼稚なセリフで注意を引いた。よく考えると恥ずかしく、そしてなぜこんな危険なことをしたのかわからない。一銭の得にもなりはしないのに。
黒いナニカは足を止めた。よく見ると、一mほどの背丈だ。顔や胴の様子はわからないが、なにより、クマにしては少し小さくないか?
黒いナニカが体の向きを変えようとしたので、俺は一目散に走り出した。倒すって? 冗談じゃない。人がクマに勝てるわけがない。道具なしでは。
植物をかき分けて歩いてきた道を、悪いなとは思いながらも蹴っ飛ばして走り抜ける。ごめんなさい、不可抗力です。後ろを振り向くと、そのナニカはもう追ってきていないようだったが、なぜか嫌な予感が消えなかったので走り続けた。もし、あの元々追われていた人の方をまた追ったのだとしても、俺はできるかぎり時間を稼いだ。あの時間を有効活用できたかどうかが、その人の運命の分かれ目だ。そうだよな……警察、呼んだほうがいいかな? まあいいか。携帯もつかえないし、きっとあの隙に逃げただろう。途中で息がきれ、もう走れなくなっても、後ろや辺りを十二分に気にしながら家路についた。
何か怖い。気配がする。見られている?
やっと車が通るような道に来て、足を止めた。気にしすぎかもしれない。でも、用心に越したことはないんじゃないか。そう思って、家に行く道とは反対の方に十分ほど歩き、適当なマンションの中にもぐりこんだ。エレベーターで上まであがり、しゃがみながら降りた。外から見えないようにするためだ。そのエレベーターに乗るおじさんが汚れた豚でも眺めるかのように俺を見たけど、特に気にしなかった。
しばらくそうしていた。何分かもしれないし、何時間かもしれない。
ふっ、と嫌な気が消えた。
俺は立ち上がり、マンションの七階から外を見た。月と太陽が両方見える時刻のようだった。こんなことをしていられない。帰らないと!
また、俺は走り出した。




