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七つの鍵の物語シリーズ

七つの鍵の物語現代編-白闇の夜-

作者: 上野文

七つの鍵の物語外伝 現代編 -白闇の夜-




 しんしんと、しんしんと雪が降り積もる。

 普段さびれた繁華街の店員達は、冬の寒さに負けないように声を張り上げて、喧騒の中を恋人達はつかの間の聖夜を楽しむ。

「あははっ」

 賑やかな表通りの裏側は、惨めで侘しい寒風の吹き溜まり。男物の黒いトレンチコートを羽織った一人の少女が、喧騒に背を向けて、喧騒から逃れるように走っていた。

 荒い呼吸が白い息となって、夜の風に吹かれ、ぽたりと、額からこぼれる雫が、道を紅く染めた。

 凍りつくような風にさらされて、かじかむ指の間から、じくじくと熱い血が流れてゆく。

「ははっ。ははははっ」

 少女、苅谷近衛かりや・このえは嗤う。声を殺し、背を震わせ、しかし、嗤わずにはいられなかった。

 幸せ、幸せ。幸せ!

 どいつもこいつも馬鹿馬鹿しい。愛なんて幻想だ。残されるものはいつだって、冷たい錆の浮いた鉛色の感情だけ。

 路地裏に堕ちた赤い血が、降り注ぐ雪の中に消えるように。すべては、真っ白い何かに飲み込まれてゆく。

(本当に、馬鹿馬鹿しくて、嫌になる)

 雪が降る。

 近衛の肩で切り揃えた黒い髪も、愛用の黒いトレンチコートも。

 華やかなアーケードを、寂れた路地裏を、白く、重く、ただ一色に染めてゆく。

 息は熱く、傷は痛く、心臓は燃えるように。

(せめて、傘でも買うべきだったか)

 濁ってゆく意識の中で、そんなことを考えた自分が、酷く可笑しかった。

「……どうし…っ? 大…夫か?」

 耳が焼け付くように痛かった。誰かが、耳元で怒鳴っている。

 寒さで貼りついた目を開けて、笑い出しそうになった。

 そこに居たのは、クリスマスにお馴染みの、赤服と白髭のサンタクロースだったから。

(最低だ)

 流石は救世主の生まれ出る日、皮肉の効いたプレゼントもあったものだ。 

「な……よ、こ…怪我……。苅谷っ。……しろ!」

 声は遠く、息は白く。

 聖夜の変人は、わけのわからぬ言葉を大声で喚いている。

「待……。……んに」

 それでも、虚ろな意識の中で、彼の言葉が理解できたのは、幸運だったのだろう。

「やめろ。けいさつにも、いしゃにも」



――

――――

 


 苅谷近衛が意識を取り戻したのは、着衣のまま熱湯に叩き込まれてからだった。

 実際には、そこまで熱くはなかったのだろうが、冷え切った身体に、浴槽の湯はまるで焔のように感じられた。

まどかっ、タオル持ってこいっ!」

「うんっ、兄さんっ!」

 慌しい声と足音、吹きつけられるシャワーの湯が、凍りついた意識を揺るがせる。

「死ぬなよ、苅谷。死んだら祟ってやるからな!」

 気付けのつもりなのか、頬を何度も叩かれた。

 ザーザーと、湯が雨のように降りかかり、濡れたシャツと下着を、身体を暖めてゆく。

「……」

 目を、開けた。

 湯気と痛みでにじむ視界に入ったのは、特徴的な撥ねた短髪の、まだあどけなさの残るひとの良さそうな顔の少年と、青いリボンで二つ結んだお団子の髪の、山のようなタオルを抱えた穏やかな雰囲気の少女だ。

 二人は、心配そうに湯船の中を覗きこんでいた。

 近衛の視界が滲む。今、顔から滴り落ちているアツい湯は、果たしてシャワーなのか。あるいは。

「高城?」

 普段から学校を自主休校サボタージュすることの多い近衛だが、二人の顔には見覚えがあった。

 先月の学園祭で、気まぐれに見た演劇部の芝居に出ていた男と女。

 同級生の高城悠生たかしろ・ゆうきと、彼の妹、高城円たかしろ・まどかだ。

「苅谷ぁっ。このっ、心配っ、かけやがって」

 なぜだろう。

 近衛にはわからない。

 高城悠生とは、特別親しかったわけではない。

 高城円は、それ以前に、接点の無い自分のことなど知りもしないはずだ。

 なのに、なぜ、こいつらは泣いているんだろう?

(痛い)

 ずきりと、近衛の額がうずいた。

 閉じていた傷が、再び開いたのだろう。

 慌てふためき、濡れた床に足を取られて転ぶ高城兄。

 少し恥ずかしそうに、タオルを渡してくれた高城妹。

 なぜ、彼らは自分を助けたのだろう?

 なぜ、彼らは……

(俺は死に損なったのか?)

 少しだけ熱い湯の中で、近衛は呆然と命の恩人達を見つめていた。




 高城妹が高城兄を浴室から追い出して傷口を消毒し、近衛はシャワーを浴びなおした。

 下着は、心苦しかったが、このアパートの一階にあるという、コンビニで買ってきてもらうことにした。

 衣服は、彼らの母親のものを貸してもらえるらしい。

 近衛は浴室から出て、およそ数年ぶりにスカートを穿いて、ブラウスとカーディガンに袖を通した。

 ひどく落ち着かないが、近衛の着ていたジーンズもシャツも、今は乾燥機の中だ。

 少なくとも、あと2時間は我慢が必要だ。そうして、風呂場から居間に入ると、なぜか食事が用意されていた。

「お腹空いたでしょう? 食べていってください」

 高城円は、そう言って微笑むと、マグカップに豆や野菜を煮込んだトマトスープを注いで差し出してくれた。

「遠慮するなよ。バイトで貰った余りものだから」

 高城悠生は、黄色い4割引のシールが張られたトレイから、フライドチキンを取り出して、銀紙をひいたトースターに並べている。

「……」

 断るべきだったのだろう。

 否、普段の近衛なら間違いなく断っていただろう。だが。

 近衛は、高城円から思わずマグカップと皿を受け取っていた。

 柔らかな彼女の笑みが、先月見た学園祭の舞台を思い起こさせたからかもしれない。

「メリークリスマス」

「メリークリスマス」

 グラスに注いだ林檎ジュースで乾杯し、売れ残りだというチキンとパン、高城円が作ったというミネストローネを食べた。

 暖かかった。臓腑ぞうふが、熱さで軋むほどに。

「苅谷、どうする? やっぱり病院に」

「帰る」

「そうか。じゃ、通りまで送ってく。円。ちゃんと鍵、閉めとけよ」

「うん」

 愛用の黒いコートを着て外に出ると、雪はもう止んでいた。凍りつくほどに透き通った空の上で、星が瞬いていた。

「ホワイトクリスマスも終わりか。味気ないなあ」

「高城。お前、両親は?」

「親父とお袋なら出稼ぎ中。正月には戻るんじゃないか?」

 マフラーとジャンパーで重武装した高城悠生はあっけらかんと答えた。

「そうか、……邪魔をしたな」

「気にするなよ。毎年妹と二人きりってのも変わり映えなくてなあ」

「何故俺を助けた?」

「雪ン中に倒れてたんだ。なんとかしようと思うだろ?」

「どうかな?」

 少なくとも、近衛の知る者たちはそうではない。

 面倒ごとは極力避けるか、あるいは、何かを腹の中に隠しているか。

 ああ、と近衛は理解した。それ――が目的だったのか。

「高城」

「おう?」

 不意打ち気味に、唇を重ねようとした。

「そういうのは、よくない」

 高城悠生は近衛の肩を抱いて、ポンと背を叩いた。

「聞いていいか? ……その怪我、どうした?」

「母親に、殴られた。ゴルフクラブで」

 だから、警察にも、病院にも行けなかった。

「重いな」

「そうでもない」

 近衛は、雪を踏みしめ、歩き出す。高城悠生にその気がないなら仕方がない。今夜は駅の待合室か、マンガ喫茶で過ごそう。

「なあ、高城。お前、子供だなっ」

「はあ!?」

 それは、ある白い雪の降った夜のこと。

 苅谷近衛と高城兄妹の腐れ縁は、この日から始まった。




―――

―――――


 幼い頃から、苅谷近衛の父と母の仲は悪かった。

 母は些細な事で癇癪を起こしたし、父は仕事ばかりで家庭には無関心だった。

 家はいつもぴりぴりして気の休まる暇もなく、近衛は学校と塾から帰るのが嫌だった。

 破綻は見えていたのだろう。

 愛のない結婚。

 情のない日常。

 絆のない家族。

 惰性と見栄という僅かな糸で結ばれた虚像は、近衛が中学の時に遂に断ち切れた。

 母は仕事を辞めて、満たされぬ思いを晴らすかのように、ある宗教団体に出入りするようになったのだ。

 団体の発行する機関紙を何部も購入し、貯金を切り崩してまで寄付に当てた。


「”徳”を積むのよ。寄付すれば寄付するほど、私の業<カルマ>が晴れるのよ。幸せになれるのよ!」


 まっとうな宗教関係者が聞いたら額に青筋を立てそうな理屈を喚き、寄付の名目で定期的に大金を収奪される母に、父はようやく愛想を尽かしたのだろう。

 父とは母は離婚し、近衛は母の元に引き取られた。

 本当は、近衛は父に引き取られるはずだったらしい。だが、母は自分を引き取ると言って聞かず、父は宗教団体と争うのを辞めてあっさりと身をひいて、近衛は母と一緒に田舎の祖父の家に引っ越す事になった。

 中学を卒業するまで、近衛の生活は平穏だった。

 祖父は昔、佐々鞍流とかいう柔剣道の道場を営んでいたらしく、田舎とはいえわりあい広い土地と、母の寄付もどうにか賄えるだけのお金を持っていたのだ。

 祖父は近衛には厳しかったが、優しくもあった。毎朝早くから畑の手入れをし、暇があれば剣道と合気道の型を手ほどきしてくれた。

 近衛が叩き込まれたのは、むしろただひとつ。

 ――絶対に闘うな、だったが。

 武道は一歩誤れば、ただの暴力に変わる。そして、近衛は女だ。純粋な暴力で男とぶつかれば、骨格の差から圧倒的に不利になる。

 だから、闘うな。

 けれど、もし命の危険に晒されるときがあれば、身を守るしかなくなる。その時の選択肢を増やすためにと、祖父は護身術を教えてくれた。


 中学の三年が終わる頃、祖父は死んだ。

 葬式に駆けつけたのは祖父の昔なじみの友人達ではなく、なぜか宗教団体の関係者達だった。

 その宗教団体にとっては、神道も仏教も基督教も邪教だったのだ。

 彼らは祖父の友人達を締め出して、葬儀を執り行い、香典と家中の家財道具を引っぺがして持っていった。

 家も、道場も、土地も、故人の意思で宗教団体に寄付されるらしい。

 ……何も無くなった、からっぽの道場で、近衛は祖父を悼んだ。

(爺さん)

 ここには、彼の半生があった。

 それはたとえ奪われても、その残滓は、思い出は、近衛の内にある。

 それは、それだけは、奪わせはしない。


「広めるのよ、教義を。この国の半分が教祖様に帰依すれば、理想郷が生まれる。次は世界中に広めるの。そうすれば、世界は新しく生まれ変わるの。貧困も、戦争も無い、平和で平等な世界が出来るのよ!」


 近衛たちは、再び都会に引っ越した。

 秋津島市白椛町白椛学園<あきつしまししらかばちょうしらかばがくえん>。

 そこが、新しく近衛の通う高校。

 引越しには、なんらかの宗教団体の意図があったようだが、近衛には関係ない。

 ただ、母が級友を連れて来るたび、団体に勧誘し、機関紙を渡すのには閉口した。

 母の活動は精力的だった。

 宗教団体と掛け合った結果、どういうわけか苅谷家には生活保護が降りるようになり、食事の心配の無くなった彼女は市民活動とやらに励むようになった。


「武器を捨てよう。平和を。もっと平和を!」


 そうやって声をあげ、練り歩く市民団体の半分がなぜか外国人だったが、近衛はもう気にならなかった。

 近衛の周りには壁が生まれていた。

 日常との間に打ち込まれた見えない障壁。

 母は、それを選ばれた者が持つカリスマだと勘違いしているようだが、近衛にはそうは思えなかった。

 友達になれば勧誘される。

 家に居れば、宗教団体の集会と市民活動とやらに動員される。


(私は、異質だ)


 近衛は自然、周囲と距離を取る様になり、衣服の趣味も変わった。

 男装。

 それは、夜の集会や市民活動の合間に男を連れ込む母への反発だったのかもしれないし、

 あるいは……自分を守ろうとする無意識の防衛本能だったのかもしれない。


「教祖様の教えに帰依する事が、奉仕することが幸せなのよ!」

 

 母にとっての幸せの定義と近衛にとっての幸せの定義は懸け離れており、交じり合う事はなかった。

 そうして、母娘の仲は険悪化し、時には流血沙汰となった。

 高城兄妹とであったのも、そんな日のことだった。 

 近衛は夜の街を歩く。

 家には宗教団体の人たちが詰めていて、もしも帰れば巻きこまれてしまうから。

(寒いなあ)

 夜空は高く、星は輝き、自分には何も無い。

 家も、学校も、生きている実感も、何も無い。

(なんで生きてるかなあ、俺……)

 

 


 年明けから、白椛町の天気はよくなかった。

 いつ雪が降り始めるか分からない曇天。それでも、人々は年の始まりを祝い、正月を謳歌する。

 苅谷近衛は、人ごみが苦手だ。苅谷家では相変わらず宗教団体の関係者達が集まって、地区集会がどうの、今年の勧誘はどうの、教祖様に感謝をと騒いでいる。

(苦手……)

 だから、近衛はぶらつく。

 厚いコットンシャツに皮のつなぎを着て、ジーンズを穿く。愛用の黒いトレンチコートをすっぽりと被り、安全靴を履けば防寒対策も防犯対策も万全だ。

 繁華街をさけ、雪の積もった路地裏を、ぎゅっぎゅっと踏みしめながら歩く。いつもはたむろして、時には絡んでくる不良も、正月はお休みのようだ。きっと、家族と過ごしているのだろう。

「くす」

 ちゃらちゃらした茶髪のロッカーが、こたつで寝転んでみかんを食べる風景を想像し、近衛は笑った。

(家族ね。俺にはわからないけれど)

 近衛には家族のイメージがない。

 父と母は喧嘩ばかりだった。祖父は、家族というよりは師だった。

 今の家は、家なんかじゃない。

(普通の家族は、どんな風に……)

 気がつけば、高城家のある古ぼけたアパートの前に来ていた。

(ばかばかしい。俺は何を考えて)

 自分の馬鹿さ加減を笑い、立ち去ろうとしたとき、見慣れない奇妙なものが階段を駆け降りて来た。

「兄さん。携帯忘れてる!」

「俺はいらん!」

「いらないわけないでしょう。お仕事なんだから」

「ああもうっ。無料にならんのかっ」

 階上から降りてきたソレは、なんとゆうか、荷物だった。

 どうやって背負ってるのかわからないほど、大きなリュックを背負い、ビニル袋や段ボール箱を積み上げ持った少年と、白い着物と緋色の袴を穿いた少女が喋っていた。

(見なかったことにしよう)

 ひどく場違いなものを見てしまった気がする。近衛は見つからないうちに去ろうと踵を返したのだが。

「苅谷さん? 明けましておめでとうございます!」

 遅かったか、高城円に見つかってしまった。

「苅谷? どこだ。見えないぞ?」

「あっちあっち」

「わからん。つーかちっとは持てよ!」

 どんちゃん騒ぎの末、ようやく高城悠生の顔が荷物の隙間から出た。

 はっぴのような衣装の上に、臙脂色のパーカーを着込み……、彼の頭は、相変わらず、妙に髪がつんつんと立っている。

「苅谷! おめでとさんっ」

「おめでとう。で、いったい何の騒ぎなんだ? 高城……。特に妹さんの格好は」

「おう、バイトだ。バイトっ」



――――

―――――


 高城円は白椛神社で巫女を、高城悠生は出店で焼き蕎麦を焼くらしい。

「主催してる町内会の車が、昨日エンストしてさ。今日で出店も終わりだから、荷物は自力で運べって、間違ってると思わね?」

「そういうのって、町内会がやるものなのか?」

「昔はテキ屋の兄ちゃんらがやってたそうなんだけど、色々あったらしくてさ。組が潰されたとか、なんだかんだ危ないらしいんで、10年前からな」

「ふうん」

 日本の裏社会も、バブル崩壊後に随分と変化した。

 朝鮮系右翼・左翼団体の強大化、中国マフィアの進出で、日本のヤクザ達も否応なしに犯罪結社化を余儀なくされたためだ。

 古き良き時代のノミ屋、テキ屋は姿を消し……、大掛かりな海外渡航者窃盗団を雇った犯罪行為などがシノギの主流になった。

 それを裏付けるかのように、日本の外国人犯罪検挙者数の1位は中国が、2位は韓国が、10年以上に渡って独走している。

 近衛の母が市民活動を始めてから、良くも悪くも外国人の人たちが多く訪れるようになった。彼らは同胞の犯罪行為に敏感だ。ポスターや機関紙の準備に勤しむ間、どこそこの地区長の娘とどこの誰それが恋仲だとかいった噂話の中に、まれにそういった犯罪に関する話題が紛れ込んでいた。

「で、だ。聞いていいか? 高城? どうして俺が鉄板を焼いてるんだ?」

「頼む苅谷。中村のじっちゃと佐藤のばっちゃがぎっくり腰で倒れた。人手が足りないんだ! 手伝ってくれ!」

「無茶を言うな。俺は素人だぞ!」

「俺だって素人さっ」

「ユウ坊、ハナさん家のお好み焼きとヨウ爺のフランクフルトを運んでくれ」

「とっ、呼ばれてる! つーわけで、頼んだ!」

「頼むなっ」

 10年もやってるのなら、もうちょっと準備を何とかしてくれと近衛は思う。

 町内会の会長が変わり、出店の責任者も昨年引退したらしく、試行錯誤の経営という悪夢が目前で展開されていた。

 人手は圧倒的に足らず、新しい助っ人が応援に来たのは、午後三時。朝の6時から働きづめで、ようやく近衛は解放された。

「悪ぃ。助かった。今度埋め合わせするからさ。これ、町内会からのバイト代」

「二度とやらないぞ」

 薄い、哀しいかな薄い封筒を貰って、近衛は神社と反対方向に歩き出す。

「あれ、初詣行かねえの?」

「初詣?」

 高城悠生に言われて気がついた。出店から少し離れた、白椛神社の朱い鳥居が目に入る。


『私達が帰依するのは聖人の再来である教祖様だけ。鳥居なんてくぐったら天罰が下るわよっ』


 そんな気はなかった。

 縛られてなどいないつもりだった。


(俺は、どうして)


 手が震える。腕が震える。つま先から髪の毛まで、何かが伝ってくる。


(俺は違う。母とは違うのに)


「苅谷?」

「今日は、いい」

「そっか。じゃあ、明日一緒に行かね? 俺も円も今日で、神社のバイトが終わるんだ」

「わかった。明日の朝、10時にアパートの前に行く」



―――

―――――

 


 それが偽りであると知っていた。

 それが誤りであると知っていた。

 客観的な数値と事象は、虚偽を打ち砕き、真実を顕わにする。

 それでも、教え込まれた嘘は呪いとなって、この身を蝕む。


(俺は、普通と違うから。だから)


 近衛と日常の間に穿たれた楔は、決して外れない。

 日の光を遮る様に、灰色に曇って、地を隔てる。


 翌朝、近衛は9時に起きた。

 母はいなかった。いつものことだ。

 なのに、それなのに、酷く嫌な予感がした。

 だから、食事もとらずに駆け出した。

 近衛は、化粧なんてしない。

 寸刻を惜しんでひたすら高城のアパートへ走る。

「ハア、ハア」

 荒い息が喉に焼け付くが、気にならない。

 もっと、もっと恐ろしいことが…ある。

「クリスマスにね。近衛ちゃんがお世話になったでしょう? だから、遅くなったけど、お礼に来たの」

 紫に染めた髪、キツすぎるアイシャドウ。

 けばけばしいカラフルな洋服。

 じゃらじゃらとした金に光る真鍮のアクセサリ。

 機関紙とパンフを阿呆ほど詰めたブランドものの鞄。

 高城の部屋の前、廊下に立っているのは母だ。

 近衛は、間に合わなかった。

 力が抜ける。耳を塞ぐ、目を閉じる。


 見えない。

 見たくない

 聞こえない。

 聞きたくない。


 消えてしまいたいっ。



「近所のお友達から聞いたのだけど……、高城君のお祖母さま、ずっと入院されているんでしょう。だから、ご両親は遠くの方に働きに出られて、高城君も、円ちゃんも、バイトが大変なんでしょう?」

 どんなに耳を塞いでも、母の声は聞こえてくる。

 大丈夫。

 貴方の辛さはワタシが一番知っているから。

 苦しくて、悲しくて、寂しかったでしょう?

「だから、ね。ワタシは貴方達の力になりたいの。ワタシ達の仲間には、迫害された人や、苦しんでいたひとがいっぱいいるわ。でも、皆教祖様に救われたのよ。ワタシもその一人」

 だから、助けてあげる。救ってあげる。

「貴方達が今不幸なのは、罪を背負っているからよ。その罪がある限り、何度生まれ変わっても不幸になる。貴方だけでなくて、貴方に関わる人全てが不幸になるの。身に覚え、あるでしょう?」

 世界の中で正しいのはワタシ達だけ。

 ワタシ達は選ばれた存在。

 だから、嫉妬される。だから、謂れのない弾劾を受ける。

 でも、それは、ワタシ達が正しい証拠。

 可哀想なワタシ達はそれでも世界を救おうとするの。

 なんてなんて美しい生き方。

 なんてなんて素晴らしいワタシ達。

「でも、もう大丈夫。お祖母だってきっとよくなるわ。この聖なる書には、希望が溢れる言葉がたくさん書かれているの。この箱の中には神様がいらっしゃって、この家を守ってくれる。だから、貴方もワタシ達の仲間になって」

 感謝なさい。貴方も素晴らしいワタシ達の――


「俺、幸せですから」


 予期せぬ高城悠生の反応に、母と、近衛と悠生の間、見えない何かが割れる音がした。

「今、何て言ったの?」

 猫を被った声は消え、聖母じみた笑いは消え、ガラガラと地金が姿を見せてゆく。

「俺、幸せなんですよ。父さんも母さんもいて、妹もいる。1日には、久しぶりに皆集まったんです。おや、…父さんったら酔っちまって。母さんと妹は餅を食べ過ぎて」

 開く瞳孔、震える唇、跡形もなく崩れる仮面。

「で、でも、貴方達は不幸でしょう?お祖母さんが入院で、高校生なのにアルバイトばかり。もっといい仕事につきたいでしょう? 世間に認められたいでしょう? それは、貴方達が罪深いから!」

 まるで般若のように、母はヒステリックに叫び、高城悠生を弾劾した。

「ばあちゃん、ひょっとしたら、発作で亡くなってたかもしれない。それでも、生きているのは、生きてくれているのは、死んだじいちゃんが守ってくれたからだと思ってます。俺は、その箱の中にいる神様より、じいちゃんを、ばあちゃんを、父さんと母さんを信じます」

 けれど、高城悠生の声音は、決して揺るぐことなく。

「…………」

「あ、でも、神様や仏様を信じてないわけじゃないんです。入試ん時にはばあちゃんに、大宰府天満宮の鉛筆もらいましたし。小さいけど家には仏壇と神棚があって、今日も初詣に……」

「お黙りなさい。邪教の徒めっ」

「はぇっ」

「呪われなさい。正しいのは教祖様だけ。貴方達は穢れている。血が穢れているわっ! 罪深いまま地獄に落ちなさいっ!!」

「はあ」

 母はジャラジャラと真鍮のアクセサリとブランドのバッグを鳴らして、向かい側の階段を降りてゆく。

「どした、苅谷?」

 見つかったのは、油断としたしか言いようがない。

 逃げたかった。消えたかった。

 高城悠生が近づいてくる。気を奮い立たせろ。ちんぴらどもにやるように、睨み付けて。

「ヘビイな母さんだな。大変だろ?」

 つんつんと撥ねた髪、栗色のジャンパーと、内側から見える臙脂色のパーカー、濃茶色のコットンパンツ。

「ほら、行こうぜ。初詣」

 どうして、こいつは?

「高城、いいのか?」

 こんな風に。

「え?」

 自然に。

「だって今、俺の母が」

 声を掛けて来るんだ?

「苅谷。お前は、お前だろ?」



――

―――


 気がつけば、高城悠生を、穴があくほど見つめていた。

 顔の高さは、近衛と同じくらいで、男にしては低いほうか。

 厚着をしてなお痩身に見えるが、

 マフラーの奥から見える首も、袖から出た手首も筋肉質で、鍛えている事を伺わせた。

 決して格好いいわけではない。

 でも、通った鼻筋と、厚めの眉、

 強い意志を感じさせる瞳が、ひどく魅力的に見えた。

(なんだ。俺、高城の顔、今はじめてちゃんと見たんだ)

 壁を作っていたのは、母だけではない。

 近衛にとって、周囲はすべからく自分を害するものだった。

 だから、ろくに顔も見ず、話もせず、深入りを避けて。

(ははっ、はっ)

 高城悠生の瞳に映った近衛は、微笑んでいた。

 女にしては少し背が高く、肩で乱雑に切りそろえた髪。

 化粧っけは零で、いつもはきつくつりあがった眉が下がっている。

 細い顎の上、桜色の唇は、確かに柔和な笑みを描いていたのだ。

「じゃあ、行くか」

「おう、行こうぜ」

 近衛は歩き出す。

 階段を一歩ずつ降りて、外の世界へ。

「そう言えば、妹さんは?」

「ン? 友達と行くって先に出た。

 兄貴甲斐のない妹だよ」

「高城。携帯は持ったか?」

「……忘れた。取ってくる」



―――

―――――


 白椛神社は3ヶ日を過ぎてなお、混雑していた。

 苅谷近衛は人ごみが苦手だ。

 でも、今日は、あまり気にならない。

 昨日出店でてんてこ舞いだった道を歩き、二人で朱色の鳥居をくぐる。



『鳥居なんてくぐったら天罰が下るわよっ』

  

  

 一歩。

 たった一歩。

 それが長く縛っていた近衛の鎖を、砕いた気がした。

「おぅ、晴れたのか?」

 高城悠生が天を仰ぐと、相変わらずの曇天に、しかし一筋の光がさしていた。

「ああ、晴れると、いいな」

 それは、ある曇り空の日のこと。

 苅谷近衛と高城悠生は、のんびりと白椛神社を散策した。 


                               END


拙作をお読みいただきありがとうございました。

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― 新着の感想 ―
[一言] 苅谷近衛や高城悠生など、七つの鍵の物語シリーズは登場人物が繋がっているのですね。 その中で大長編を書き上げたなんて、凄すぎます……( ; ・`д・´)ゴクリ 私は読んだ順番が逆なので、これ…
[良い点] 転移前も部長は心のイケメンで、女子にやさしい。 (^▽^)/
[良い点] ・部員皆を唖然とさせた苅谷母に『ヘビイな母さん』で済ます部長のイケメン度 ・随所に散りばめられている円ちゃんの出来の良さ ・何度読んでも近衛ちゃんかわええ [気になる点] 浴室の中からコン…
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