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SF作家のアキバ事件簿250 世界マスク剥ぎ連盟

作者: ヘンリィ
掲載日:2026/03/22

ある日、聖都アキバに発生した"リアルの裂け目"!

異次元人、時空海賊、科学ギャングの侵略が始まる!


秋葉原の危機に立ち上がる美アラサーのスーパーヒロイン。

ヲタクの聖地、秋葉原を逝くスーパーヒロイン達の叙事詩。


ヲトナのジュブナイル第250話「裏アキバの地下リング」。さて今回はヒロインに敗れた"頭巾ズ"の遺書から"世界マスク剥ぎ連盟"なる組織が浮上します。


消印から裏アキバの寂れた町内会を探し当てた主人公らは、町会会館の地下にあるリングで謎の儀式"バトルロイヤル"をするコトに…


お楽しみいただければ幸いです。

第1章 世界マスク剥ぎ連盟


御屋敷(メイドカフェ)のバックヤードは、客席とは別の意味で騒がしい。湯気、香水、洗剤、秘密。

そういうものが、すべて混ざった匂いの中で、スピアは低く声を潜める。


「ミユリ姉様、大丈夫?」

「大丈夫。ちょっと寝不足なだけ」


即答。けれどその声は、

薄いガラスみたいにひび割れている。


「もうショックでズタボロって感じだけど…

 あら、それって私のコトじゃん」


わざとらしく、おどけて見せるスピア。

ミユリさんは小さく笑う。


笑うというより、

笑顔の形を思い出しただけの表情だ。


「今日、テリィ様に会った?」

「やっぱりテリィたんのせいなの?」

「違うわ…ちょっとね。でも話せないの」

「話せない? 親友の私にも?」


スピアの声が一段低くなる。

ミユリさんは視線を落としたまま言う。


「テリィ様の様子を知りたいの。

 でも、私が気にしてたって、言わないで」


その瞬間、スピアの背後から声が割り込む。


「スピア。話があるわ」


マリレだ。因みに3人ともメイド服。


ココが戦場ではなく御屋敷(メイドカフェ)だという事実だけが、

逆に現実感を薄くしている。


「話しかけないで。聞きたくない」

「コニィが…」

「なおさら聞きたくないわ。無理」


ロッカーを開ける音が鋭い。

だがマリレは退かない。


「いいから聞いて」


扉が閉まる。振り向いたスピアの目は、

怒りというより防御の色をしている。


「OK? 貴女はコニィの魔の手に引っかかった。

 彼女が安っぽい尻軽メイドだなんて、

 今ごろ気づいたの?

 私に言い訳するのはやめて」


マリレは1拍置いて、静かに告げる。


「コニィは"頭巾ズ"だった」


空気が止まる。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆


ヲタッキーズ(と僕が勝手に呼んでいるだけだけだが)が集合する。僕&スーパーヒロインズ。

話を引き取ったのはマリレだ。


「前から怪しいと思ってた。

 バネサ議員のところで写真を見つける前から」

「今、彼女はどこに?」

「それが…追いかけたんだけど…」


「パンティを下ろしたママで追えなかったのね?」


スピアが一刀両断。

場の空気が凍る。ティルが溜め息をつく。


「そういう痴話喧嘩は後にして。

 コニィはやっぱりバネサ議員とグルだったの?」

「"頭巾ズ"が2人、

 偶然同時に現れるなんてありえない。

 コニィは最初から私たちの正体を知ってたのよ」


エアリが淡々と補強する。

次の瞬間、マリレが机を蹴飛ばす。


「ミユリ姉様! 心ここにあらずね」


びくっと肩を揺らすミユリさん。

すぐにティルが前に出る。


「姉様は辛いことがあったのよ」

「そうなの?

 じゃ早速みんなに話して共有しましょ?

 それがみんなの力になるんでしょ?」


マリレの声は鋭い。優しさの形をした刃だ。

沈黙。数秒。やがてミユリさんが口を開く。


「…とにかく。

 もしコニィがバネサと組んでたとしたら、

 どうして彼女は、

 バネサが死んだコトを知ってるのかしら」

「少なくとも"今"はみんな知ってるわ」


マリレはモニターのボリュームを上げる。

地上波ニュースの音声が部屋に流れ込む。


「…速報です。秋葉原特別区(D.A.)の議員死亡のニュースが入りました。バネサ議員が亡くなりました。詳しくはCMの後で…」


全員が立ち上がる。


第2章 エアリとマリレの場合


「…夫バネス議員の遺志を継ぐ形で立候補したバネサ議員は、過去15年間で最大票差を記録して当選。しかし昨日、故郷である裏アキバの路上で単独事故を起こし死亡しました。政治家としても、実に短い生涯でした…」


ティルがおうむ返し。


「交通事故?」


ニュースは次の話題へ移る。

マリレが音量を落とす。


「バネサ議員が死んだのは2週間前よ」


エアリの声は静かだが断定的だ。


「姉様の"雷キネシス"に敗れた議員が

 ナゼ今頃、交通事故で死ぬの?

 灰になったハズでしょ?

 誰かが真実を隠蔽してるってこと?」

「"頭巾ズ"はあの2人だけじゃない。

 仲間がいるはずよ。

 当局に追及される前に事故をでっち上げたのね」


マリレが言い切る。

ティルが僕の肩に手を置く。柔らかい重み。


「テリィたんはどう思う?」

「聞くだけ無駄よ。

 どうせ"様子を見よう"って言うに決まってる。 まるで水戸黄門の再放送ね」


マリレが嘲る。

みんなの視線が集まる。逃げ場はない。


僕は、喉の奥に未来を押し込んだまま口を開く。


「ミユリさんは、どう思うかな」


☆ ☆ ☆ ☆ ☆


バネサ議員のオフィス。


昼だというのに窓の外の光は薄く、電話の呼び出し音だけが現実の輪郭を保っている。

メイド服で受話器を肩と頬で挟み、ミユリさんは秘書の声色を作っている。


「ええ。私たちも本当にショックで…いいえ、葬儀の日取りはまだ…はい、決まり次第すぐご連絡いたします」


受話器を置く。指先がわずかに震えている。

背後ではヲタッキーズがロッカーの書類を漁り、紙の擦れる音がせわしなく空気を切っている。


「問い合わせの電話が、ひっきりなしよ」


ミユリさんは、議員の椅子に座り込んでるマリレに愚痴をこぼす。


僕は静かに話す。


「誰かが隠蔽工作をしている」

「どうしてでしょう、テリィ様」

「ミユリさん。最近、誰かにバネサ議員の行方を聞かれなかった?」

「聞かれました。休暇中だと答えたけど」

「それでも"頭巾ズ"は彼女の死を知っていた。なぜだ。誰が漏らした?」


空気が止まる。

ミユリさんの瞳が、ほんの少しだけ揺れた。


「…私を疑っているのですか?」

「待って。これを見て」


ティルが差し出した封筒には、滲んだ消印。

裏アキバ町。


「差出人は"世界マスク剥ぎ連盟"ですって」

「なにそれ。美味しいの?」

「名前からして悪役臭しかしないわね」


親展、と赤字で印字されている。

ミユリさんはためらわず封を切る。紙を開く音が、妙に大きく響く。


「"タッグパートナーへの報告なき行動は反則。25日までに連絡がない場合、タッグ資格を剥奪する。至急連絡を"…何これ。新しいプロレス団体?」

「昨日が期限だわ」

「差出人は"レイラ計画 責任者ローサ"」


その名を聞いた瞬間、エアリの呼吸が止まる。


「レイラ…?」


僕はエアリを見る。


「心当たりがあるのか?」

「いいえ。別に。電話してみたら?」


視線は逸らしたままだ。

ミユリさんは受話器を取り番号を回す。


「はい。もしもし。

 "世界マスク剥ぎ連盟"さんですか?」


沈黙。

回線の向こうで誰かが息をしている気配。


「私、バネサ議員の秘書です。

 今朝そちらのお手紙を開封しまして、

 ご連絡が遅れたお詫びをと」


"それで?"


声は低く、性別すら判然としない。


「実は…残念ながら、

 バネサ議員は昨日亡くなりました」


1秒。2秒。


"ご連絡どうも"


突然、通話は切れる。

受話器を見つめたまま、ミユリさんが呟く。


「切られちゃったわ」


その一言の中に、直感と確信が同居している。

突然、顔を上げるエアリ。


「私、裏アキバへ行ってみる」

「あ。姉様、私はコニィを追うから」


防衛線を張るマリレ。


「わかった。マリレは残って」

「良いの?」

「YES」

「珍しく意見が一致したわね。

姉様はどーするの?エアリに任せる?」


ミユリさんは、首を振る。

僕が察する。


「ミユリさんは、バネサ議員の後処理があるから、

 当分オフィスを離れられないょ。

 裏アキバは、僕とエアリの2人で行ってくる」


小さくうなずくミユリさん。

僕は釘を刺す。


「とにかく用心するんだ。

 ここから先は誰も信用しちゃダメだ。

 僕がいない間は、単独行動も禁止。OK?」

「わかりました、テリィ様」

「はぁい、テリィたん」


僕とエアリは出掛ける。

ドアが閉まる。


御屋敷に残されたのは…ミユリさんとティル。

居心地の悪い沈黙。


「姉様。カレルと寝たんですって?」


先に口を開いたのはティルだ。

声は静かだが、刃物みたいに細い。


「ええ」


ミユリさんは、うなずく。


「私もカレルから聞いたんだけど、あなたと彼、最近かなり接近中だったそうね」

「別に、それは気にしないで」


ティルは窓の外を見る。明後日の方角。

表情は読めない。


「ごめんなさい」


小さく言うミユリさん。

ティルが視線だけ動かす。


「なぜ謝るの?私に謝ることないわ。

 姉様はカレルと寝た。それだけ」


1拍置く。


「で、どうだったの?」

「どうだったって…」


ミユリさんは少しだけ考え、


「私たちは…なんていうか、とても素敵だった」


沈黙。

そして。


「ふぅん」


ティルの口元が歪む。


「それは…ごちそうさま」


☆ ☆ ☆ ☆ ☆


真昼の首都高を真っ赤なケッテンクラートが滑る。


高架の継ぎ目を踏む度、車体は規則正しく震える。

その振動は、眠りの深さを測る分度器のようだ。


運転している僕だけが起きている。

後席のエアリは寝てるのか身動き1つしない。


そのとき


エアリのまぶたが、

内側から押し上げられるように開く。


声がする。

僕には聞こえず、彼女にだけ届く声。


"あなたの名前はレイラ。

今の貴女より、もっと美しかった頃の名前"


ささやきは湿っている。思い出ではなく、

記憶そのものが湿度を帯びている。


"あなたは恋に落ちた。激しく、愚かしく、

 取り返しがつかないほどに。

 そして、選んだ。恋人のために。

 そして、私たちの世界線のために"


エアリの指先が、わずかに痙攣する。


"家族を裏切り、自らの世界線を裏切り、

 実の兄を犠牲にして、最後には、

 自分自身まで差し出した"


沈黙。

タイヤ音だけが走る。


"よく聞いて、エアリ。

 歴史は、繰り返すのよ"


最後の言葉だけ、声は妙に艶を帯びる。

懇願の形をした誘惑。拒絶を許さない甘さ。


エアリはまばたきをしない。

ただ前を見ている。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆


月光を切り裂くように、ドアは音もなく開く。


ティルの部屋。主を欠いた空間は、

呼吸を忘れた生物のように静まり返っている。


「ねぇ私たち、なんだかX2ファイルみたいね」


忍び笑いを漏らすスピア。

その声を、闇がやさしく呑み込む。


「静かに」


マリレは低く言い、LEDライトの円を床へ落とす。

光は慎重に這い、家具の輪郭をなぞる。


「誰もいないわね」


机の前にしゃがみこんだスピアが、

古びたCDを指先で弾く。


「カルチャー・クラブ。ワム…

 時空テロリストにしては趣味がレトロね」

「真面目に探して」

「はーい。でも何を?」

「手がかり。アドレス帳、カレンダー、通信記録。 残骸でもいい」

「確かにメモ帳なら"隠れ家はこちら"って

 書いてあるカモね」

「イヤミを言う暇があったら動いて」


言葉を返しかけたスピアの指先が、不意に止まる。


「マリレ。これ、なに?」


白いものを摘まみ上げている。

ライトがそこへ寄る。


薄い膜。乾いた曲線。

人の頭の形を模した、抜け殻の一部。


「皮膚よ。"頭巾ズ"は、頭皮が脱皮するの」

「いや触っちゃったじゃないの私!」


反射的に放り投げ、慌てて手を拭う。

拭う先はマリレのメイド服だ。


「ちょっと!」

「なんで彼女が"頭巾ズ"だって分かったの?」

「剥けるところを見たから」

「どこの皮膚?」


ライトが尋問灯みたいに顔を射る。


「いい加減にして」

「あぁ分かった。あそこね。

 私ってしつこくて悪かったわね、この浮気女」

「あなたが想像してるようなことは1つもないわ」


その時だ。


チェストの引き出しが、音を立てて開く。

次の瞬間、スピアが悲鳴を飲み込む。


駆け寄るマリレ。

光が内部を暴く。


そこには…


ハート型の枠に収められたマリレの写真。

周囲を埋め尽くす無数のブロマイド。

角度違い、距離違い、季節違い。


壁一面、祭壇のように貼られている。


「なにこれ」

「やった!私の祭壇だわ」

「感心してる場合?」

「だって、ここまで来ると物販で売れそう」

「気持ち悪いでしょ普通!

 あの子、ストーカーよ。

 何週間も尾けて盗撮してたってことよ」


マリレは答えない。

1枚を指で摘み、光へ透かす。


「ねぇ、静かに」


声の質が変わる。


「これ全部、同じ高さから撮られてる」

「だから?」

「背景」


写真を並べ替える。

窓枠。電柱。屋根の角度。反射光。


「全部、私のアパートの向かい側」


沈黙。


スピアの瞳が、遅れて意味を受け取る。


「…まさか」

「YES」


マリレは写真を束ね、結論だけを置く。


「隠れ家は、そこにある」


闇の中で、ようやく何かが動き出す。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆


裏アキバの寂れた商店街。


真っ赤なケッテンクラートが滑り込む。

エンジン音がシャッターの降りた商店街に響く。


通りの一角。


倉庫を無理に店舗に仕立てたような洋品店がある。マネキンの肩のホコリをタオルで払う女。


ジャージ姿だが、橙色の派手なマスクをしている。

プロレスの練習生か何かかな?


「すみません」


僕が声をかけると、女はゆっくり振り向く。


「何?」


愛想はゼロだ。


「ここが裏アキバ商店街?」


助手席のエアリが身を乗り出す。


「そうだけど」


女はホコリを払っていたタオルを肩に掛け直す。

所作だけは、妙に几帳面だ。


「この街のメインストリート?」

「わずか数百メートルだけどね。ここよ」


エアリが眉をひそめる。


「でもガイドブックには…」

「ガイドブック?昭和の遺品?」


女は即答する。


「首都高から外れて、人の流れも消えた。

 この街はもう死んでるわ」


風が吹く。紙くずが転がる。

遠くでカラスが1羽、乾いた声を落とす。


僕は1歩近づく。


「"世界マスク剥ぎ連盟"はどこかな?」


その瞬間、女の目が妙に輝く。

身を乗り出す。


「明日の"バトルロイヤル"で来たの?」

「何ソレ?何か試合でもあるの?」


エアリ。


「試合っていうか…プライベートなリーグだから、

 貴女達が行ってもリングには上がれないわ」

「明日の招待状があるの」


エアリが封筒を見せる。

白い紙が夕方の光を反射する。


「招待状?」

「YES」


彼女は僕に目配せし、手紙でぱたぱたと風を送る。


女は少しだけ間を置く。

それから肩をすくめる。


「でかくて古いビル。この通り沿い。すぐ分かる」

「この通り沿い?」

「何しろ…」


女は口角だけで笑う。


「ここがメインストリートだから」


またカラスが鳴く。


「どうも」


僕はアクセルを踏む。


ケッテンクラートのエンジンが低く唸り、

ゆっくりと走り出す。


バックミラーの中で、

女はもうこちらを見ていない。


倉庫みたいな店の奥へ戻りながら、

ポケットからスマホを抜く。


発信。

短い呼び出し音。


「…2人行ったわ。会員じゃない」


通話を切る。

店の奥は暗く、外よりもずっと静かだ。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆


細い路地の奥に、古びた建物が立っている。

銀行の支店みたいな外観だ。


看板にはこう書かれている。


"裏アキバ町会会館"


エアリが立ち止まる。


「ここ?」


僕は手紙を取り出して確認する。


「たぶん」


エアリは建物を見上げる。

少しだけ首を傾げる。


「変ね」

「何が?」

「初めて来たのに」


彼女はドアノブに触れる。


「とても懐かしい気がする」


僕は笑う。


「そんなわけないだろ」


エアリは少し考えてから言う。


「そうよね」


僕はドアをノックする。


コン、コン。


重い足音が近づく。

扉が開く。


そこに立っていたのは…


覆面の女子プロレスラー。

黒と銀のマスク。


肩のラインがはっきりと出る、

派手なセパレートのコスチューム。


僕は思わず1歩引く。


覆面の女子レスラーは、

爪ヤスリをコスチュームの中にさりげなく隠し、

こちらを見る。


「裏アキバ町会へようこそ。

 今、町会では"マスク剥ぎ"で

 町おこしを図っています。

 何かご用ですか?」


僕は一歩前に出る。


「突然すみません。

 マッチメーカーのローサさんは

 いらっしゃいますか?」


覆面の奥で、相手の目がわずかに細くなる。


「私がローサです。

 "バトルロイヤル"なら明日ですが」


少し間を置いて続ける。


「それで、私にどんな御用でしょう?」

「少しお話を伺えればと思いまして」


エアリが一歩踏み込む。

しかし、ローサは静かに手を上げる。


「ここは町会の会館です」


柔らかい声だ。


「部外者の方はご遠慮ください」

「どういう町会なんですか?」


僕は尋ねる。

ローサは少し肩をすくめる。


「プロレスのマスク剥ぎで、

 町おこしを行っています。ただし、

 リングに上がれるのは町会員のみです」


さらりと言う。


「インバウンドの皆さんには、

 もっと楽しい名所をご案内しますが…」


いきなり、扉を閉めようとする。


「申し訳ないですが、お引き取りを」


僕は抗議する。


「でも、ご町内の他の名所は、

 全部閉鎖されているみたいですが」


ローサは少し考える顔をした。


「でしたら」


軽く指を立てる。


「"ムーンシャイン60"まで足を伸ばしてみては?

 この町内会より、よっぽど面白いですよ。

 夏は盆踊りもありますし」


夏は、遥か先だ。

そのとき、エアリが唐突に割り込む。


「レイラ計画って何かしら」


瞬時に空気が変わる。


ローサは、立ち去ろうとしていた足を止める。

ほんの数秒の沈黙。


僕とエアリは顔を見合わせる。

ローサは振り返る。


覆面の奥で、表情は読めない。


「何処でその名を?」


通りの奥で、風が少しだけ動く。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆


マリレの部屋を見下ろす場所。


それは地下アイドル通りに面した雑居ビル。

その踊り場。手すりは冷たく、夜の湿気を含む。


「いつまで見張るの?」


スピアが言う。


「今さら、この隠れ家にのこのこ現れるとは、

 とても思えないんだけど」

「あなたのアイディアでしょ」


マリレは双眼鏡から目を離さずに答える。


「私のせいにしないでよ」


しばらく沈黙がある。

それから小さく火花が散る。


「じゃあ私のせい?」


マリレが言う。


「そうよ」


スピアは即答した。


「今までのこと、全部?何から何まで?」


風が吹く。

メイド服のスカートの裾がわずかに揺れる。


「そんなに退屈なら、時間を早めてあげるけど」


マリレは言う。身を乗り出すスピア。


「マジ?どうやるの?」

「それは…」


マリレは言葉を濁す。


「その…」


スピアは小さく溜め息をつく。


「ねえ、普通に考えたら」


彼女は言う。


「コニィはもう秋葉原にはいないわよ」

「いるわ」


マリレは即座に返す。


「だって彼女、私に執着してるもの」

「ずいぶん大した自信ね」

「とにかく、そのうち現れる」


マリレは再び双眼鏡を覗く。

そのときだ。


「もう現れてるし」


背後から、声がする。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆


"町会会館"の奥には階段がある。


古い銀行の金庫室を思わせる石の階段だ。

僕とエアリは音を立てずにそれを降りる。


地下の空気は冷たい。

湿ったコンクリートの匂い。


少しだけ鉄の匂いが混ざる。階段の終わりには、

細い廊下が続く。


その突き当たりに鉄扉があり、

そこから光が漏れている。僕はそっと覗く。


そこにあったのは、リングだ。


天井の低い地下室の中央に、四角いリング。

ロープは古く、少し黄ばんでいる。


スポットライトが1つだけ上から吊るされ、

マットの白さを照らし出している。


リングの周囲に簡素な折りたたみ椅子。

そこに10数人ほどの女性が静かに座っている。


奇妙なのは、

全員が仮面をつけ、ガウン姿であることだ。


白いもの。

黒いもの。

無表情な仮面。


誰も喋っていない。


ただリングを見ている。


その沈黙は、

まるで礼拝堂の祈りの時間のようだ。


エアリが僕の袖を軽く引く。


「始まるわ」


リングの下から2人のレスラーが上がってくる。


1人は花柄ワンピに赤いマスク。

もう1人は銀色ワンピに蝶のマスク。


決して、若くはない。

少し肥えた肢体は丸みを帯びでいる。


ゴングは鳴らない。


2人はしばらく向かい合って立っている。

蝶マスクのレスラーが静かに言う。


「名前は?」


赤いマスクが答える。


「今はまだあるわ」


蝶マスクはうなずいた。


「じゃ始めましょう」


次の瞬間、

2人は組み合う。


激しい技ではない。


静かなプロレスだ。

関節を取る。

体をひねる。

ロープに押し込む。


観客は一言も声を発さない。

シューズがマットを擦る音だけが響く。


そして突然、

蝶マスクが花柄ワンピを投げる。


鈍い音。バウンドする肢体。


花柄ワンピが起き上がる前に、

蝶マスクは膝で胸を押さえつける。


花柄ワンピは逃れようともがくが、

バストにヒップを落とされて観念する。


蝶マスクが、ゆっくりと手を伸ばす。

赤いマスクの縁に指をかける。


地下室の空気が少し変わる。


観客の誰かが、

小さく息を飲む。


蝶マスクが言う。


「いい?」


花柄ワンピは、対抗をやめ、四肢を投げ出す。


「好きにして」


その声は妙に落ち着いている。


まるで、

人生を諦めた人間の声のようだ。


蝶マスクは

ゆっくりとマスクを引き上げる。


その瞬間、

観客の1人が小さく拍手する。


パチ。


それが合図だったみたいに、

地下室に静かな拍手が広がる。


しかし、僕はその顔を見ることができない。

リングの照明が突然落ちたからだ。


暗闇の中で、

誰かがつぶやく。


「ひとつ、消えたわ」


そして別の声。


「次は誰なの?」


エアリの指が、僕の腕を強く握る。

彼女は小さくささやく。


「ここ…」


少し震えている。


「普通の女子プロレスじゃない」


僕は答えない。

リングの上ではもう次のレスラーが上がっている。


今度のマスクは…黒い虎。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆


再び、地下アイドル通りの雑居ビル。


「もう現れてるし」


背後からの声にマリレは振り向く。

右手を構えて、超音波攻撃のポーズ。


「待って、マリレ!」

「動くな、コニィ」


踊り場の暗がりに、コニィは立っている。

灰色のメイド服。光を吸い込むような質感。


顔は半分、影に沈んでいる。


「何もしないわ」


コニィは静かに言う。


「待ってたんでしょ?私のこと」


マリレは答えない。


「写真から、この場所を辿ったの?」


コニィは続ける。


「さすがね、マリレ。思っていた以上よ」

「やめてよ」


スピアが噛みつく。


「そういうの、寒いから」


少しの沈黙。


「座って」


マリレが言う。

コニィはうなずき、手すりのそばに腰を下ろす。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆


地下リングの拍手は、静かに止む。


リングの上には、もう1人が立っている。

黒い虎のマスクの女子レスラーだ。


スポットライトが、ゆっくりと彼女を照らす。

観客は再び沈黙する。


彼女はリングの中央に立ち、

しばらく天井を見上げている。


そして言う。


「私の相手は?」


低く、落ち着いた声。


リングサイドに立っていたローサが、

ゆっくりと観客席を見渡す。


仮面の観客たちは誰も動かない。


ローサの視線が、

ゆっくりとこちらへ向く。


そして止まる。

エアリのところで。


「あなた」


静かな声だが地下室の空気が、 

少しだけ重くなる。


僕は、抗議する。


「彼女はメイドだ。レスラーじゃない」


ローサは僕を見ない。

ただエアリを見ている。


「リングに上がって」


エアリは動かない。


僕の袖を握ったまま、

リングを見ている。


その顔には、奇妙な表情が浮かんでいる。


恐怖ではない。

戸惑いでもない。


どこか懐かしいものを見たときの顔だ。


「私は…」


エアリが言う。


「試合なんてできないわ」


黒い虎のマスクのレスラーが

リングのロープにもたれた。


「大丈夫。カラダが覚えてるから」


エアリは首を振る。


「覚えてないし」


ローサが静かに言う。


「覚えているわ」


地下リングは静かだ。

遠くで、どこかの配管が鳴る。


ローサは1歩前に出る。


「あなたは昔、このリングに立っていたの」


エアリは何も言わない。

ローサが続ける。


「スポットライトの下で。

 このリングの上で、名前を呼ばれていた」


エアリの手が、少しだけ震える。

僕は小さく言う。


「エアリ」


彼女は僕を見ない。リングを見ている。

スポットライト。ロープ。マット…


そして、マスク。


「ねえ」


エアリが小さく言う。


「どうして」


ゆっくりと1歩前に出る。


「ここ…懐かしいの?」


地下室の客たちがざわめく。

ほんの小さく、黒い虎のレスラーが笑う。


「ほらね。思い出した?」


ローサは言う。

エアリは首を振る。


「違う。私は…」


そしてリングを見上げる。

少しだけ間が空く。


「エアリよ」


ローサはしばらく黙っている。

それから、ゆっくり言う。


「そう。"今"はね」


小さく頷く。

そしてリングを指さす。


「でも1度だけ、確かめてみたら?」


地下室の空気が重くなる。

黒い虎のレスラーがロープを叩く。


パシン、と乾いた音。


「上がって」


ローサが言う。


「レイラ」


その名前が地下室に落ちた瞬間、


エアリの目が、

一瞬だけ見開かれる。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆


地下アイドル通りの雑居ビル。


「あなた、バネサ議員と同じ"頭巾ズ"ね?」


マリレは腕を組む。


「議員のこと、どこで知ったの?」


コニィが問い返す。


「質問に答えて」


スピアが割り込む。


「そもそも、なんで秋葉原に来たの?」


マリレが続ける。


「他の"頭巾ズ"はどこ?」


1拍おいて、少しだけ声の温度が変わる。


「それより」


マリレは言う。


「なんで私のハニーにそんなに夢中なの?」


スピアが肩をすくめる。


「まあ、かっこいいとは思うけどね」


コニィは2人を見る。

それから、ゆっくりと言う。


「私はあなたを追ってきたの。

 純粋に、政治的な理由からね」

「政治的な理由?」


スピアが眉をひそめる。


「私は彼を支持している」


コニィは言う。


「でも、それ以上に…」


言葉を選ぶように、少しだけ間が空く。


「あなたを神と崇めている」


☆ ☆ ☆ ☆ ☆


地下リングは静まり返っている。


誰も動かない。

誰も声を出さない。


スポットライトの下で、リングだけが明るい。

エアリはゆっくりと階段を上がる。


ロープの前で1度止まる。

手をかける。


少し考えてから、体をすべり込ませるように

リングに入る。メイド服のまま。


マットの上に立ったとき、

彼女は小さく息を吸う。


まるで空気の重さを確かめているようだ。


黒い虎のマスクのレスラーは、

リングの中央で待っている。


ローサがリングサイドから何かを差し出す。

それは、マスクだ。


白いマスク。

目の穴だけが静かに空いている。


ローサが言う。


「これを」


エアリは受け取らない。

ただマスクを見ている。


僕はリングの下から彼女を見上げている。


「エアリ」


もう1度、呼ぶ。

しかし、彼女は振り向かない。


ローサが静かに問う。


「怖い?」


エアリは少し考えてから答える。


「違うわ」


手を伸ばす。マスクに触れる。

その瞬間だ。


彼女の指が、ほんの少し震える。


エアリはそれを見つめている。

まるで自分の指じゃないみたいに。


観客席のどこかで、誰かが椅子を動かす音がする。

ローサが言う。


「カラダが思い出しているのよ」


エアリは首を振る。


「思い出してない」


しかしその声は、少し遠く聞こえる。

エアリはマスクを持ち上げる。


軽いはずなのに、

なぜか重そうだった。


ゆっくりと顔の前まで持ってくる。

スポットライトが白い表面を照らす。


彼女は1度、目を閉じる。


そして…


マスクをかぶる。


地下室の空気がわずかに揺れる。

観客の誰かが、小さく息を吸う。


エアリはしばらく動かない。

ただリングの中央に立っている。


その姿は、さっきまでの彼女とは

どこか違って見える。


ローサが静かに聞く。


「どう?」


少し間が空く。

エアリはゆっくりと顔を上げる。


白いマスクの奥から、

こちらを見ている。


そして言う。


「変ね」


少し首を傾げる。


「初めてなのに」


リングのロープを軽く触る。


「全部知ってる気がする」


黒い虎のマスクのレスラーが

1歩前に出る。


ローサが静かに言う。


「始めましょう」


地下室の観客が、同時に立ち上がる。

椅子が一斉に鳴る。


そして誰かが言う。


小さく。


はっきりと。


「レイラ」


その名前が地下室をゆっくりと回る。

僕はリングの下で立ち尽くす。


そのとき初めて気づく。


白いマスクの奥で、エアリの目が…

ほんの少しだけ、別の誰かの目になっている。

 

☆ ☆ ☆ ☆ ☆


地下アイドル通りの雑居ビル。


「説明して」


マリレが迫る。


「できるだけ短くね」


すかさず、スピアが念を推す。

コニィは、うなずく。


全員、メイド服だ。


「私たちの世界線は、黄金期を迎えた後に

 静かに壊れていった。


 内乱が起きた。


 もしあなたがいたら、統一できた。

 でも王はあなたじゃなかった」


「ミユリ姉様だったの?」


スピアがつぶやく。

コニィは、曖昧にうなずく。


「あなたはミユリに忠誠を誓って戦い…

 そして、死んだ」


言葉は軽い。重さは後からやってくる。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆


地下リングの観客は、全員立っている。


椅子が少しだけ後ろに押され、

金属の脚が床を擦る音が重なる。


リングの中央で、

白いマスクのエアリ…


いや、レイラが立っている。


黒い虎のマスクのレスラーが、

ゆっくりと近づく。


ゴングは鳴らない。

ただ沈黙があるだけだ。


ローサがリングサイドで告げる。


「始めて」


2人は、しばらく向かい合っている。

黒い虎のレスラーが聞く。


「覚えてる?」


白マスクのメイドは少し首を傾げる。


「何を?」

「この感じ。スポットライト。観客。ロープ。

 マットが吸った私達の汗の匂い」


黒い虎のレスラーが両腕を広げる。

白マスクのレイラは答えない。


しかし足が少し動く。

半歩前。


黒い虎のレスラーが小さく笑う。


「ほら。カラダは覚えてるわ」


その瞬間、2人は同時に動く。

組み合う。マットがわずかに沈む。


静かなプロレスだ。


腕を取り、

体を押し合い、

重心を崩す。


観客は一言も声を出さない。

ただ見ている。


まるで何かの儀式みたいに。


黒い虎のレスラーが腕をひねる。

エアリの体が回る。


しかし次の瞬間、

彼女は自然な動きでロープへ逃げる。


そして振り向く。

黒い虎のレスラーは少し驚く。


「やっぱり。レイラだわ」


白マスクのメイドは強情だ。


「違うわ。私はエアリ」


そして一歩踏み込む。低いタックル。

黒い虎のレスラーの足が浮き、マットに倒れる。


鈍い音。


地下室の観客がざわめく。ほんの少しだけ。

エアリはマウントをとる。


膝で相手の腕を押さえる。

黒い虎のレスラーが笑う。


「とてもいいわ。それよ」


次の瞬間、黒い虎のレスラーは体をひねり、

立ち上がってエアリの腕を取る。


ロープへ投げる。


白マスクのエアリがバウンド。

戻ってくる。2人のカラダがぶつかる。


マットが鳴る。


静かな激しさだった。

ローサがリングサイドで腕を組んでいる。


その目は少し細くなっている。

黒い虎のレスラーが突然言う。


「思い出した?」


エアリは息を整えながら応じる。


「何を?」

「あなたの名前」


白マスクのエアリは答えない。

しかしその瞬間、黒い虎のレスラーの手が動く。


マスクの縁に指をかける。


地下室の空気が凍る。

観客が一斉に前のめりになる。


エアリの動きが止まる。

黒い虎のレスラーが言う。


「これが終われば、全部戻るわ」


指がマスクを引く。ほんの少し。

白い布が持ち上がる。


そのとき…エアリが動く。


体を回転させ、

相手の腕を逆に取る。


黒い虎のレスラーのカラダが崩れる。

マットへ落ちる。


エアリはそのままマウントをとる。

そして、ゆっくりと手を伸ばす。


今度は、彼女の指が

黒い虎のマスクに触れる。


観客席の誰かがささやく。


「剥がすつもり?」


地下室のスポットライトが、

リングの中央を白く照らしている。


エアリは静かに言った。


「ねえ」


黒いレスラーが答える。


「何?」


白いマスクが少し傾く。


「もしマスクを剥がしたら」


少し間がある。


「あなたは誰になるの?」


地下室は完全な沈黙だ。

黒い虎のレスラーは笑う。


「いい質問ね。とても、いい質問だわ」


そして言う。


「試してみる?」


エアリの指が、黒いマスクの縁をつかむ。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆


地下アイドル通りの雑居ビル。


「私たちは"頭巾ズ"の中でも反逆者なの」


コニィは静かに言う。


「そして今でも思ってる。

 あなたがリーダーになるべきだったって。

 ミユリではなくて」

「リーダー?何のリーダー?」


マリレは繰り返す。


「私たちの世界線の」


風が止む。

時間が、ほんの少しだけ重くなる。


「何も覚えてないの?」 


コニィが言う。

マリレは何も答えない。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆


裏アキバ町会会館のリング。


エアリの指が、虎のマスクの縁をつかむ。

地下室の空気が止まる。


観客は誰も動かない。

ただリングの中央を見ている。


白いマスクのエアリは、

しばらくそのまま動かない。


まるで考えているみたいに。

黒い虎のレスラーが言う。


「どうしたの?マスクを剥がして」


エアリは静かに答える。


「わからない」

「何が?」

「あなたの顔を見たら」


少し間が空く。


「何かが終わる気がする」


黒い虎のレスラーは小さく笑う。


「終わるのよ」

「何が?」

「あなたの"今"が」


地下リングのどこかで水滴が落ちる音。

エアリはマスクを少し引き上げる。


黒い布がゆっくりと持ち上がる。

観客の誰かが小さく息を飲む。


そのときだ。

リングサイドから声。


「そこまでよ」


☆ ☆ ☆ ☆ ☆


地下アイドル通りの雑居ビル。


「だからお願い」


コニィは言う。


「もう1度、私たちを導いて。

 正しい世界線へと」


スピアがすぐに遮る。


「マリレ、聞くな。

 彼女は、ただのストーカー」

「そうよ」


マリレも声を上げる。


「そんな話、信じるわけないでしょ」


コニィは小さく息を吐く。


「まだ早かったみたいね」


☆ ☆ ☆ ☆ ☆


リングサイドから声が飛ぶ。


「そこまでよ」


ローサだ。エアリの手が止まる。

黒い虎のレスラーは動かない。


ローサがロープをくぐり、リングに上がる。

スポットライトの下に立つ。


エアリを見つめる。

そして語る。


「あなたにはまだ早い」


エアリはマスク越しに彼女を見る。


「どうして?」


ローサは少し考えてから言った。


「だって」


小さく肩をすくめる。


「あなたはまだ私になってないから」


地下リングが静まり返る。

エアリは言う。


「意味がわからないんだけど」


ローサはゆっくりと手を上げる。

そして、自分のマスクに触れる。


観客がざわめく。

小さく。波みたいに。


ローサは言う。


「よく見て」


そして、マスクを持ち上げる。

黒い布が上がる。


顎が見える。唇。そして…


顔。


エアリの手が震える。

白いマスクの奥で、目が大きく開かれる。


リングの中央に立っているのは、


エアリ。


年齢だけが違う。


少しだけ大人の顔。

でも、間違いなく同じ顔。


地下リングの観客が同時にささやく。


「レイラ」


☆ ☆ ☆ ☆ ☆


地下アイドル通り。

こちらも終焉を迎えつつある。


「最後にひとつ」 


マリレが言う。


「裏アキバ町って、何?」


コニィは少しだけ考えた。


「古い町よ。

 時空から取り残された場所」

「そこには何があるの?」


コニィは首を横に振る。


「私なら、行かないわ」

「どうして?」


スピアは身を乗り出す。

コニィは、まっすぐマリレを見る。


その目には、さっきまではなかった、

ある種の感情がある。


それは、静かな、確信のようなもの。


「だってその町には」


1拍置く。

夜がわずかに軋む。


「あなたの"今"を覚えている人間は…

 1人もいないから」


☆ ☆ ☆ ☆ ☆


地下リングを戦慄が覆う。

ローサ…未来のエアリが沈黙を破る。


「やっと会えたわ。私に」


白いマスクのエアリは動けない。


「どうして」


声がかすれる。


「あなたが」


未来のエアリは答える。


「簡単な話」


リングのロープに軽く寄りかかる。


「ここに残ったのよ」

「残った?」

「YES」


未来のエアリは観客席を見渡す。

仮面レスラーの人々。静かな地下リング。


「あなたもいつかここに残る」

「どういう意味?」


未来のエアリは笑う。

少し寂しそうに。


「この町のリングはね」


スポットライトを見上げる。


「町会員を戦わせるための場所じゃない」


少し間が空く。


「時空を閉じ込める装置なの」


白いマスクのエアリは動かない。

未来のエアリは続ける。


「誰かがリングに立つ。マスクをかぶる。

 人格が変わる。試合をする。そして残る」


エアリは言う。


「私は残らない」


未来のエアリはうなずく。


「みんな、最初はそう言うの」


その目は優しい。

少しだけ悲しそうでもある。


そして最後に言う。


「でもね」


リングの中央で、2人のエアリが向かい合う。


「ここは」


観客席の仮面たちが静かに見ている。

未来のエアリが言う。


「レイラのいないリングだから」


☆ ☆ ☆ ☆ ☆


白いマスクのレスラーが立っている。

観客がざわめく。誰かが小さく言う。


「レイラはもういないはずだ」


そのとき僕は思う。


そうだ、ここにレイラはいない。

ただ、彼女が何度もここにいるだけだ。


だって、レイラのいないリングを

僕は1度も、見たことがないのだから。


そしてたぶん、これからも。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆


試合は終わっている。


いつ終わったのか、

僕にはよくわからない。


地下リングの観客はもういない。


椅子だけが、

リングの周りに静かに並んでいる。


スポットライトも消えている。

天井の裸電球がひとつだけ揺れている。


エアリはリングのロープに腰掛けている。

白いマスクは脱いでいる。


彼女はそれを膝の上で回している。


「変な夜だったね」


エアリが笑う。

僕は、うなずく。


「そうだね」


しばらく誰も話さない。

地下リングには水滴の音だけが響く。


やがてエアリが立ち上がる。


「明日の"バトルロイヤル"、どうする?」

「テリィたんは、どう思う?」

「エアリ次第さ。エアリの未来だから」


町会会館の扉を開けると、

夜の空気が流れ込んでくる。


裏アキバの通りは静かだ。

ネオンの光がアスファルトに揺れている。


エアリは夜空を見上げる。


「ねえ」

「うん?」

「さっきの人」

「誰?」


僕は少し考える。


「ローサ?」


エアリは首を振る。


「違う」


少し笑う。


「もう1人の私」


僕は答えない。


エアリはポケットから何かを取り出す。

それは、黒いマスクだ。


リングに落ちていたものだ。

彼女はそれをしばらく見ている。


「ねえ」

「うん?」

「もし」


少し考える。


「私がここに残ったらどうする?」


僕は笑う。


「残らないよ」


エアリはうなずく。


「そうね」


そしてマスクをくるくる回す。


街の風が少し吹く。

町会会館の窓が、かすかに鳴る。


エアリは黒いマスクを見つめながら言う。


「でもさ」


僕を見る。

その目は少しだけ遠い。


「さっきリングに立ったとき」

「うん」


エアリは少し首を傾ける。


「変だったの」

「何が?」

「懐かしかった」


僕は何も言わない。

通りをタクシーが通り過ぎる。


エアリはマスクを見つめたまま言う。


「初めてなのに」


少し笑う。


「全部知ってる気がしたの」


そのときだ。

町会会館の扉が、


ゆっくりと内側から閉まった。


誰も触れていないのに。

重い音が夜に響く。


エアリは振り返る。


しばらく建物を見ている。

そして小さく言う。


「ねえ」

「うん?」


エアリは少し困った顔をした。


「変なこと聞くけど」


僕を見る。


「私たち」


少し考える。


「今日ここに来たのって」


沈黙。街灯の光が揺れる。

エアリは言う。


「初めて…だよね?」


僕は答えない。

ただ町会会館の方を見ている。


その地下室には、

スポットライトに照らされたリングが、

さっきと同じ場所にある。


そしてその中央には、

白いマスクが1枚だけ置かれている。


まるで、誰かがまた戻ってくるのを

待っているかのように。


第3章 ミユリの場合


コニィは後部座席で、かすかに震えている。


声は、涙で濡れている。

どこか遠くから聞こえてくるみたいだ。


「お願いだから、考え直して。

 みんな、殺されるわよ」


翌朝。


ピンクのキューベルワーゲンは、

首都高を滑るように走っている、


空は妙に青く、現実感を欠く。


ミユリさんは、議員オフィスを片付け、

遺品を遺族に届けることにする。


マリレが同行を申し出て、コニィも、

溜め息をひとつ落としてから乗り込む。


「こんなことで無駄死にするために、

 50年もあなたを探してきたわけじゃない」


コニィはそう言う。

その数字の重さに、車内の空気がわずかに歪む。


スピアは目を丸くして、それからすぐに笑う。


「50年?それじゃあんた、

もう、おばあちゃんじゃない。

 最初から私の敵じゃなかったわ」


鼻で笑う。軽い、けれど刃のある笑い方。


「でもボディは若いままよ」


コニィは淡々と続ける。


「私たちの外皮装甲は、歳を取らないの。

 ただし頭皮だけは例外。急速に剥離する」

「だから何?」

「つまり、私は永遠にナイスバディってこと」


少し間を置いてから、コニィは言う。


「50年後のあなたはどうかしらね」


ミユリさんがため息をつく。

その音は、妙に現実的だ。


「いい加減にして。頭が痛くなるわ」


それから静かに尋ねる。


「その外皮装甲って"頭巾ズ"特有のもの?」

「そう。環境から身を守るためのもの」

「亀の甲羅みたいな?」


スピアが茶化す。

ミユリさんがチラ見すると一瞬で黙る。


「宇宙服に近いわ」


コニィは言う。


「地球の大気は、私たちの"波動"にとって有害。

 だから人間に似せた外皮に寄生して、

 はじめてこの星で生きられる」

「生きた装甲服ってこと?」

「木の皮みたいなものよ」


少しの沈黙。

スピアがぽつりと訊く。


「なんで頭皮だけ剥けるの?」

「そこだけ寿命が短いの。

 50年くらいで限界が来る」


コニィは窓の外を見た。


「だから、私は、もう長くない」


スピアが眉をひそめる。


「つまり放っておけば死ぬってこと? 

 外皮がなくなれば"波動"も止まるんでしょ」


誰も答えない。

視線だけがコニィに集まる。


「何かあるなら言いなさいよ」


コニィは、ポツリとつぶやき、目を閉じる。


「"バトルロイヤル"」


その言葉だけが、妙に乾いた音で車内に残る。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆


「私たち、バネサ議員の友人だったんです。

 ご家族に遺品をお渡ししたくて」


ミユリさんは、そう説明する。


理由としては十分で、

同時にまったく不十分だ。


「議員のお宅なら、青いポストの家ですよ」


そう言って、ローサは"町会会館"の扉を閉める。

ミユリさんは閉じた扉に向かって、お礼を言う。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆


赤い郵便受けの家だ。

現実はだいたい、そういうふうに食い違う。


ミユリさんが声をかける。


「すみません。

 故バネサ議員のお宅はこちらですか?」


戸口には年配の夫人が立っている。

普段着の上に、場違いなほど派手なマスク。


「私、ミユリです。議員の秘書でした」


夫人の肩がわずかに揺れる。


「ミユリさん? あなたなのね」

「このたびは、ご愁傷様です」


言葉は正しいのに、どこか遠く感じる。

夫人は遺品の箱を受け取ると、嬉しそうに言う。


「まあ、わざわざここまで。

 裏アキバのこんな奥までね」


そして何のためらいもなく、

彼女たちを家に招き入れる。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆


応接間のソファは、少し小さすぎる。


4人が座ると、世界がぎゅうぎゅうに

圧縮されたみたいだ。


「明日がお葬式なの」


夫人は料理を並べながら言う。


「町内会が全部やってくれるのよ」


料理の匂いは、妙に家庭的だ。


「ぜひ来てちょうだい」

「直接来るべきだと思ったんです」


ミユリさんは静かに言う。


「最後のお別れですから」


夫人は満足そうに頷く。


そのとき、ミユリさんの視線が止まる。

部屋の隅に、小さな影。


「こんにちは」

「トキナ、こっちへいらっしゃい」


夫人が呼ぶ。

けれど幼女は小さく首を振る。


「いいわ。やめとく」


そして、音もなく消える。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆


僕とエアリは、再び裏アキバ町を訪れる。

エアリが、"バトルロイヤル"に参戦する。


「ミユリさん!」


街に入ったところで人影を見かける。

僕はケッテンクラートを急停止させる。


「待ってょ!」


彼女は振り向かない。

僕が腕を掴むと、ようやく彼女は振り向く。


「テリィ様」


その目は、ひどく冷たい。

水の底に沈んだ魚みたいに。


「話すことは何もありません」

「カレルのことは?」


彼女の呼吸が止まる。


「あれは違うの」


僕は言う。


「説明してくれ」

「怒鳴らないで」


彼女は小さく言う。


「怖いの」

「嘘だ」


言葉は、思っていたより鋭い。


「ミユリさんは、何か隠してる」


ミユリさんは首を振る。何度も。


「違うわ。何もないの」


沈黙。


「僕達の間では、隠し事をしない約束だったね」


彼女は少しだけ笑う。

それは、悲しい種類の笑い。


「テリィ様は私を美化しすぎてるのよ」


静かに言う。


「私は、そんなに立派じゃない」


そして1歩、後ろに下がる。


「帰るわ」


僕は何も言えない。

彼女の背中が、ひどく遠く見えたから。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆


部屋の中で、トキナは微笑む。


「世界線は続くって、姉さんは言ってた」

「本当なの?」


ミユリさんが訊く。


「嘘よ」


即答だ。

それから。


「レイラって、知ってる?」


その名前に、少女の身体が小さく震える。


「どうしてその名前を?」

「あなたのお姉さんから聞いたわ」


沈黙。


扉が開き、スピアが入ってくる。

空気が変わる。


ほんの少しだけ、決定的に。

ミユリさんは目を伏せる。


何かが、すぐそこまで来ている。

そんな予感だけが、はっきりと残っている。


第4章 バトルロイヤル


"バトルロイヤル"の会場は、町会会館の地下だ。


リング、と呼ぶには少しだけ現実離れした空間だ。簡素な照明と観客席。仮設のようでいて、長く使われてきた気配もある。


僕達が入ったとき、そこにはすでに裏アキバの町会員達が集まっている。


老若女女。女子限定だが年齢層は幅広い。

全員がマスクをつけ、ガウンを羽織っている。


色とりどりのマスク。

統一性はないが、不思議とひとつの群れに見える。


ガウンの下が何かは、見なくてもわかる。

ここはそういう場所だ。


入り口で、グリアが誰かと握手を交わしている。

その隣に、小さな影がある。


トキナだ。


子ども用の、小さなマスク。

そのサイズのせいで、逆に表情が読めない。


「まるで町ぐるみのショーね」


ティルが僕の耳元でささやく。


「いや」


僕は首を振る。


「これはもうショーそのものだ」


ちょうどカメラクルーが目の前を通り過ぎる。

見慣れた地上波のロゴ。


なるほど、と僕は思う。


「大々的に見せることで、

 逆に疑われなくするってことか」

「そんなこと、ありえる?」

「さあな。でも、ここではそれが普通なんだろう」


入り口付近で、エアリがトキナに軽く会釈する。

トキナはそれに応えず、ただ僕を見ている。


「すぐ戻るわ」


エアリが言う。


「待て」


僕は言う。


「1人で行っちゃダメだ」

「大丈夫」


短くそう答えて彼女は歩き出す。

トキナのあとを追うように。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆


通りを横切り、古びた洋品店に入る。

昼間なのに、店の奥は妙に暗い。


トキナは立ち止まり、ゆっくり振り返る。


笑っているようにも見えるし、

そうでないようにも見える。


現実の輪郭が、少しだけ曖昧になる。


エアリはそのまま奥へ進む。

階段がある。


地下へと続いている。

躊躇は、ほとんどない。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆


地下は、まるで別の場所だ。


細いチューブが壁を這い、

白い蒸気が絶えず噴き出している。


空気は湿っていて、

機械の低い唸りが響いている。


どこか、実験施設に似ている。


「トキナ?」


声は、すぐに吸い込まれていく。

階段を降りきると、視界が開ける。


そこにあったのは、整然と並ぶシリンダーだ。

ひとつひとつの中に、人が入っている。


町内の人々だ。


見覚えのある顔。

名前を思い出せる人もいる。


全員が、普段着のまま、まっすぐ立っている。

目を閉じ、微動だにしない。


まるで時間だけが止まっているみたいだ。

蒸気が上から降り、ガラスを曇らせる。


「…何よ、これ」


エアリは、つぶやく。


指でガラスに触れる。

冷たい。


中の人間は、生きているようにも見えるし、

もうそうではないようにも見える。


思わず1歩後ずさる。


そのとき。


「エアリ」


背後から声がした。振り向く。

トキナが立っている。


ガウンを脱いでいる。


その下の姿は"バトルロイヤル"の日に相応しい、闘うための装いだ。


年齢に似つかわしくない、というより、

年齢という概念が意味を持たないように見える。


「来てくれて、うれしいわ」


トキナは言う。

その声には感情が乏しい。


ただ事実を並べるだけの響き。


「これ、何なの?」


エアリは問いかける。


トキナは答えず、ゆっくりと手を上げた。

指先が、空間をなぞる。


その瞬間。


エアリの身体が弾かれる。

見えない力に押し飛ばされ、壁に叩きつけられる。


呼吸が途切れる。

視界が白くなる。


そのまま、意識が遠のいていく。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆


トキナは、ゆっくりと近づく。

倒れたエアリを見下ろす。


しばらくのあいだ、何もせずに。

それから、小さく首をかしげる。


「…もう終わり?」


独り言のようにつぶやく。


その声は、さっきまでと同じだ。

ただ少しだけ、空虚が混じっている。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆


地下室には、規則正しくシリンダーが並んでいる。


エアリは床に倒れている。

意識はゆっくりと戻り、まず天井が見える。

次に、自分の呼吸の音。


そして、ガラス越しの顔。


見上げると、シリンダーの中にグレアがいる。

その隣に、バネサ議員の母親。


さらに、その向こうにも

同じように、誰かがいる。整然と。静止したまま。


奥から、光が漏れている。

白く、やわらかい光だ。


エアリは立ち上がる。

身体はまだ完全には戻っていない。


それでも、その光の方へ歩く。扉を開ける。

その先にも、同じ光景が続いている。


シリンダー。

人間。

沈黙。


果てが見えないほどに並んでいる。


「…」


もはや言葉が出ない。

1歩後ろに下がる。


そのとき。


「レイラ」


声がする。すぐ近くから。

トキナが、シリンダーの影から姿を現す。


「会えて嬉しいわ」


その声は、やはり平坦だ。感情というものが、

どこかに置き忘れられているような響き。


エアリは動こうとする。

身体が動かない。


見えない糸に縛られたみたいに、完全に静止する。

トキナが人差し指を、ほんの少しだけ動かす。


それだけだ。

次の瞬間。


衝撃が来る。


エアリの身体が宙に浮き、壁に叩きつけられる。

呼吸が一瞬で奪われる。


音が消える。

視界が揺れる。


それでも、トキナの姿だけは、はっきり見える。


「まだ、始まったばかりなのに」


幼女は、小さくつぶやく。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆


"バトルロイヤル"は、予定通り始まる。


地下リングには、すでに観客が座っている。

全員が、静かに僕達を見ている。


僕とヲタッキーズは、中央の通路を歩く。

まるで式典の入場みたいだ。


視線が集まる。誰も声を出さない。

ただ、見ている。


リングの上には祭壇がある。


僕たちは立ち止まり、順番に焼香する。

そこに、遺体がある。


確かに、そこに。

ティルが息を呑む。


「…ありえない」


小さく言う。


「灰になったはずなのに」


ミユリさんも、何も言わない。

ただ、見ている。


ティルがそっと手を伸ばす。

触れる。その瞬間。乾いた音がした。


ぱきり。


遺体の手の甲が、わずかに崩れる。

中は空洞だった。


ティルは何も言わず、献花でそれを隠す。

その一部始終を、周囲の者たちは見ている。


誰も驚かない。


視線を感じて振り向く。

グレアが立っている。


自分の顔の皮膚を、ゆっくりと剥がしている。


まるで日常の動作のように。

その奥にあるものは、まだ完全には見えない。


グレアは僕を見る。

そして、何事もなかったように手を止める。


「…では」


穏やかな声で言う。


「始めましょうか」


その口調は、式の司会者そのものだ。

周囲の人々が、同時に動く。


頭をかく者。

顔に触れる者。


かすかな、規則的な動き。

ミユリさんが低く言う。


「様子が変よ」

「私達、ここから逃げられる?」


ティルの声は、わずかに震えている。

グレアの声が続く。


「彼女は、町会のためにその身を捧げました…」


その言葉の途中で、僕は気づく。

グレアの手だ。指先が、欠けている。


「ドアだ」


僕は、小さな声で言う。


「急げ」


振り返る。カメラクルーが、カメラを下げている。

記録は、もう必要ないらしい。


「もう、お帰りですか?」


グレアが言う。


その瞬間。


空気が押し潰される。

扉が、閉じる。見えない力で。


後ろから押されるように、僕たちは倒れる。

視界が反転する。


気づくと僕だけがリング上に引き上げられている。


「そんなに急がなくてもいいでしょう」


グレアが、目の前に立っている。

その距離は、現実的すぎるほど近い。


「ずっと探していたのよ」


静かに言う。


「まさか、そちらから来てくれるなんて」

「何の話だ」


僕は言う。


「僕は、ただの…」


言いかけて、やめる。

言葉に意味がないと、わかったからだ。


「知りすぎたのよ」


グレアは微笑む。

その背後で、町会員たちが立ち上がる。


一人、また一人。

ガウンが床に落ちる。


その下の姿が現れる。


色とりどりのリングコスチュームが列を作る。

次々とリングインする。


「貴方が"ヲタクの王"ね?」


グレアは僕を指差す。


「そして、あちらが…」


ティルが大きな胸を張る。


「そうよ」


短く答える。

その声だけが、妙に人間らしい。


「長かったわ」


グレンが言う。


「この瞬間まで」


空気が揺れる。力が集まる。

そのとき。


ミユリさんが前に出る。


何も言わずに、手を上げる。

見えない壁が展開される。


空間が歪む。


「テリィ様は戦わせない」


静かな声だ。


「私が相手よ」


グリアが笑う。

ほんの少しだけ、見下すように。


「いつまで持つのかしらね」


その言葉は軽い。

でも、その奥には確信がある。


ここはもう、逃げ場のない場所だという確信が。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆


地下の実験室は、相変わらず静かだ。

チューブを流れる何かの音だけが、かすかに響く。


トキナが言う。


「20年かかったの」


振り向く。

その目は、どこか遠くを見ている。


「胞子から育てて、

 ようやく収穫できるところまで来た」


エアリは唇を噛んでいる。


何かを思い出しかけている顔だ。

でも、まだ届かない。


「大丈夫よ、レイラ」 


トキナは続ける。


「あなたは私たちといれば安全」

「私はエアリよ」

「それは名前の話でしょ」


トキナは首をかしげる。


「あなたの目の奥にいるのは、レイラよ。

 すぐにわかる」


沈黙。

蒸気が、ゆっくりと降りてくる。


「嘘よ」


エアリは言う。


「嘘じゃない」


トキナの声は変わらない。


「忘れてるだけ。あなたも、私も」


1歩近づく。


「"魔法陣の4人"だった頃のことも」


その言葉で、空気がわずかに歪む。


「あなたたちは今、自分探しに夢中みたいだけど」


トキナは言う。


「それを見たら、民衆はどう思うかしら」


エアリは何も答えない。


「望みは何?」


ようやく口にする。

トキナは少しだけ笑った。


「同じよ」


短く言う。


「思い出すこと」


それから、ゆっくりと指を上げる。


「あなたを、元の世界線に帰してあげる」


間。


「あなたが愛した人の下へ」


エアリの呼吸が止まる。


「彼女は、反乱軍のリーダー」


トキナは淡々と続ける。


「王座に座っている女」


もう1歩近づく。


「ギパー」


名前だけが、異様に重く響く。


「あなたが命を捨ててまで選んだ百合の相手」

「嘘よ」


その言葉は、ほとんど崩れている。

トキナは何も言わない。


ただ、指を軽く動かす。

それだけで十分だ。


エアリの身体が崩れる。


床に落ちる。

呼吸だけが、荒く残る。


彼女は四つん這いになり喘ぐ。

目だけが、生きている。


萌えるように。


「正しい世界線では」


トキナは言う。


「私はもう少し、優しかったの」


少しだけ考えるような間。


「でも、長くやりすぎた」


小さく肩をすくめる。


「この幼女の姿をね」


それから。


「"時空トンネル"はどこ?」


エアリは顔を上げる。


「知らないわ」


間を置く。


「それ、美味しいの?」


☆ ☆ ☆ ☆ ☆


地上では、エンジンの音。

ピンクのキューベルワーゲンが急停止する。


ドアが開く。


2人のメイドが飛び降りる。

何も言わず"町会会館"へ向かう。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆


地下リングでは、均衡が崩れかけている。


ミユリのAT(アキバ適当)フィールドに無数の手が触れている。

推す。重なる。増幅する。光が揺れる。


「手伝うわ」


ティルが言う。力を重ねる。

それでも、足りない。


「テリィたん。急いで姉様にキスを」


ミユリさんの唇に僕を推しつける。

一瞬だけ、光が強くなる。


でも、それだけ。

ATフィールドは、静かに消える。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆


グレアの声は上から降ってくる。


「終わりよ」


その声は穏やかだ。

倒れたまま、僕たちは動けない。


逃げ場は、もうない。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆


地下のシリンダーの前では、エアリとトキナが戦闘ポーズのまま、動かない。

既に、2人の間の緊張は、限界点に達している。先に動いた方が負ける。


その時、背後からメイド服のコニィが現れる。

何処で見つけたか、長い鉄棒を振り回す。


「やめて!」


トキナが叫ぶ。


でも、止まらない。シリンダーを壊していく。

ひとつずつ。粉々に。


そのたびに、何かが切れる。

トキナが頭を抱える。


崩れ落ちる。


幼女の叫びは、途中で途切れる。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆


爆発は、連鎖する。


ひとつが、次を呼ぶ。

地下のシリンダー装置が、順番に爆縮する。


リングでは、同時に異変が起きている。

町会員達が、頭を押さえる。倒れる。崩れる。


まるで、どこかで1本の線が切れたみたいに。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆


地上。


煙が上がる。倉庫が崩れる。

人々が立ち尽くす。


誰も、何が起きたのか理解していない。


ただ見ている。

白いものが降ってくる。


灰のようで、少し違う。

触れると、すぐに消えてしまう。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆


トキナは、立ちすくむ。


白い粒子が、静かに降り続く。

周囲には、顔色を失った町会員たち。


誰も何も言わない。


グリアが、ようやく口を開く。


「外皮装甲が…」


言葉が続かない。


「終わりね」


誰かが言う。


トキナは首を振る。

小さく。


「まだよ」


その声は、さっきよりも少しだけ人間に近い。


「終わってない」


遠くで、何かが回っている。

壊れた荷車の車輪。


理由もなく、ただ回り続けている。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆


エピローグ


夜の裏アキバ。

細い路地の奥。古びた建物。看板。


"裏アキバ町会会館"


エアリが立っている。

僕もいる。


エアリが言う。


「ここ?」


僕は手紙を取り出す。


「たぶん」


エアリは建物を見上げる。

少し首を傾げる。


「変ね」

「何が?」


エアリは言う。


「初めて来た気がしない」


僕は笑う。


「気のせいだよ」


でも、心の中で思っている。

これで、何度目だろう?


エアリは少し考える。


「そうよね」


僕はドアをノックする。


コン、コン。


重い足音。

扉が開く。


そこに立っていたのは…

白い虎のマスクのレスラーだ。


そして彼女は言う。


「ようこそ」


少し微笑む。


「レイラ」


その夜、僕はまだ知らない。


エアリが、いつかあのリングで

僕を迎えることになる夜を。



おしまい

今回は、海外ドラマによく登場する"地下プロレス"をテーマに、異なる世界線をめぐる不思議な体験を描いてみました。


読者に考える余地を残す余韻型の習作となります。最近、色々実験をしていて、SFを描く時間が楽しいものになってきました。


海外ドラマでよく舞台となるニューヨークの街並みを、インバウンドよりも日本人観光客の方がマナーが悪いかもと思える秋葉原に当てはめて展開してみました。


秋葉原を訪れる全ての人類が幸せになりますように。

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