第九章 こわされるもの
河原清掃ボランティアの集合場所は、堤防の下の広場だった。
簡易テントが張られ、自治会の腕章をつけた人たちが名簿を広げている。
その日はよく晴れていた。
雲ひとつない空の下、川面はきらきらと光を返している。
野島は、日頃の仕事中の雑談から、美紀の住まいの場所をおおよそ掴んでいた。
美紀の夫がリモートワークで普段は家にいること、そして近所付き合いを円満に保つため、地域の行事には自ら率先して顔を出す性格であることも、すでに知っている。
ゆあまーとの店内に貼られた一枚のチラシに、野島はふと足を止めた。
美紀のマンション近辺で行われる、河原清掃ボランティアの案内だった。
その文字を目にした瞬間、胸の奥が静かに高鳴る。
――これは、またとない機会だ。
美紀の生活に、そしてその家庭に、自然に入り込める。
偶然を装い、疑われることもなく。
野島の唇が、わずかに歪んだ。
胸に浮かんだのは期待ではない。
破壊の手応えを、先取りするような感覚だった。
子ども連れの家族、年配の夫婦、犬の散歩ついでに立ち寄ったような人もいる。
強い連帯感はないが、顔見知り同士が軽く会釈を交わす、いかにも「近所の行事」という空気だった。
野島は少し離れた場所で立ち止まり、全体を一度だけ見渡した。
胸の内にある目的は、誰にも悟らせない。
ここに来た理由は一つ――それだけを、丁寧に隠す。
その中に、いた。
川の方を向き、自治会の人と何か話している男。
初対面のように見えるが、野島には分かる。
ゆあまーとで何度か目にした横顔と、立ち姿。
今日は明るい日差しの下で、はっきりと顔が見えた。
――間違いない。
伊沢美紀の夫だった。
身長は百七十五センチほどあるが、体重は百キロ近い肥満体だ。脂肪が全体にまとわりついた体つきで、動きに切れはない。顔立ちは特に目立つ特徴がなく、短く切った癖毛に眼鏡をかけている、ごくありふれた印象の男だった。
地元の人間ではない。
この土地に越してきてからの年数は浅く、近所付き合いにもまだ慣れていない。
だからこそ、清掃や地域の行事には積極的に顔を出さざるを得なかった。
ここでは「感じのいい人」でいることが、何よりの保険になる。
今日も家庭を代表して出席している。
野島はゆっくりと集合場所に近づいた。
作業班の割り振りで、自然に同じ一角になるよう位置を選ぶ。
計算はしているが、動きはあくまで無意識を装う。
作業が始まると、二人の距離は自然に縮まった。
黙々とゴミを拾いながら、川の音と遠くの話し声だけが流れる。
「今日は気持ちいいですね」
野島が先に声をかけた。
天気の話。最も安全で、最も警戒されない切り口だ。
「そうですね。晴れてよかったです」
男の声を聞いた瞬間、野島の中で最後の確信が固まった。
少し作業を進めてから、野島は視線をマンションの方へ向ける。
「あのマンション、お住まいですか?
この辺では珍しくて、すごく目立ちますよね」
男は素直に頷いた。
「はい、あそこです」
返事ににじむ、地元ではない者特有の距離感。
野島は、親しみやすい笑みを浮かべた。
「実は、私の職場の同僚があそこに住んでるって聞いたことがあって」
男は少し身を乗り出す。
「伊沢さん、って言うんですけど」
名前を出す瞬間、野島の心は一切揺らがない。
ただの雑談。ただの確認。
男は一瞬だけ間を置き、それから頷いた。
「……ああ、それ、うちの妻です」
その言葉が、野島の胸に静かに沈む。
だが表情は穏やかなままだ。
「へえ、偶然ですね!職場でもよく話題になりますよ。しっかりしてるし、美人だって」
それ以上は踏み込まない。
探りは、もう十分だった。
清掃が一段落し、人々が集めたゴミを渡す為列を作り、渡し終えたら三々五々に散っていく。
河原には、乾いた風が通っていた。
野島はわざと列の最後尾に回る。
集めたゴミ袋を地面に置き、屈み込む。
ポロシャツの前合わせが、計算通りにわずかに開く。
胸元に落ちる影と、はっきりとした谷間。
男――美紀の夫は、反射的に視線を落とした。
ごくり、と喉が鳴る。
すぐに顔を上げ、何も見ていなかったように空を仰ぐ。
慌てた気配は、隠しきれていない。
野島は、気づいている。
その一瞬の視線も、喉の音も。
気づいたうえで、何も言わない。
「暑くなりましたね」
額の汗を指で拭いながら、野島は自然に声をかける。
「思ったより動きました」
美紀の夫も苦笑しながら答える
「ですよね。ちょっと喉、乾きません?」
そう言って、堤防の上の自販機を指差す。
「私、行ってきます。ついでですから」
返事を待たずに歩き出すのも計算のうちだった。
野島は冷えた缶コーヒーを二本選ぶ。
戻ると、男は少し恐縮した顔をした。
「ありがとうございます」
「いえいえ。こういう時は冷たいのが一番です」
指先は触れない。
距離は、あくまで常識的に。
堤防の影に並び、缶を開ける。
静かな音が、場を「休憩」に変える。
「奥さん、今日は来られなかったんですね」
野島は、ゴミ袋を結びながら自然に声をかけた。
業務連絡の延長のような、軽さ。
「今日はバイトで」
「ですよね。土日は入りやすいって言ってましたし」
同僚として“知っていて当然”の距離感。
夫の表情は変わらない。
少し間を置いて、野島が続ける。
「こういうの、ご主人が出られること多いんですか?」
あくまで世間話。
事情を知らない第三者の聞き方。
「ええ、まあ。家にいることが多いので」
「お仕事、外回りじゃないんですね」
探るでもなく、決めつけでもない。
男は少し考えてから答える。
「リモートなんです。ほとんど」
野島は、そこで初めて「ああ」と小さく頷く。
「そうなんですか。
じゃあ、平日も休日も、あまり境目ないですよね」
――“知っているはずなのに、今初めて聞いた”反応。
男の肩が、わずかに下がる。
「そうなんです。
家にいると、楽だろって思われがちですけど」
「分かります」
即答だった。
「時間はあるようで、ずっと誰かの生活音の中にいる感じ、ありますよね」
男は缶を見つめたまま、短く息を吐く。
「……まさに、それです」
野島はそれ以上、仕事の話に踏み込まない。
代わりに、少しだけ視線を外して言う。
「奥さんも、家のことと子どもとバイトで、結構いっぱいいっぱいだと思いますし」
“責めていない”
“味方でもない”
ただの現実認識。
男は、初めて自分から言葉を足す。
「だから、こういう近所のことは、自分がやらないと、って」
「えらいですよ」
即座に否定も美化もしない。
「やらない人も多いですし。
でも、出てきてるだけで、ちゃんとしてると思います」
その一言で、男の表情が緩む。
「そう言ってもらえると、助かります」
野島は軽く笑った。
「同じ立場の人、結構いますよ。
声に出さないだけで」
――理解者。
――安全な相手。
男はもう、野島を“美紀の同僚”以上の存在として見ている。
「また、こういうのあったら話しましょう」
野島がそう言うと、
「ぜひ」
と、男は迷いなく答えた。
「連絡先だけでも、交換しておきません?」
野島が笑顔で言うと、美紀の夫は躊躇する様子もなく頷き、すぐに自分の連絡先を差し出した。
その連絡は、夜になってから届いた。
「今日は、ありがとうございました
例の清掃のあと、少し気になって」
野島は画面を見つめ、すぐには返さなかった。
数分置いてから、短く返す。
「こちらこそ。お疲れさまでした」
やり取りはそれだけで終わるはずだった。
だが、続けて届いた一文が、流れを変えた。
「今度、妻が娘を連れて実家に行く日があって。
その日は、家に一人になると思います」
匂わせ。
相談でも、誘いでもない。
ただの事実の共有。
野島は静かに息を吐き、返信する。
「偶然ですね。
その日、うちも主人は出張で、息子たちは旅行なんです。
私も一人なので、よければ駅の方で軽く飲みませんか」
野島の夫は営業で出張に行く事が多く、遊び盛りの息子達が家にいないのはいつものことだった。
返事は、すぐに来た。
「ぜひお願いします、楽しみにしてます」
駅前の店は、騒がしすぎず、静かすぎない場所を選んだ。
仕事帰りの人間が行き交い、長居を咎められない。
酒が進むにつれ、夫の言葉は少しずつ緩んでいく。
野島は聞き役に徹し、相槌の角度だけを調整する。
「……最近、家の空気が、ちょっと。
妻ともほとんど会話が続かなくて」
野島は首を傾げる。
「忙しい時期、ありますよね」
責めない。
肯定もしない。
グラスが空になった頃、野島は何気ない調子で言った。
「そういえば……
伊沢さん、職場の男性と仲がいいみたいですよね」
“仲がいい”。
それだけ。
夫は一瞬、動きを止めた。
「……そう、なんですか」
「ええ。
たまたまその人と橋のふもとに一緒にいるのを見かけただけなので、気のせいかもしれませんけど」
言葉を引っ込めるように、すぐに話題を変える。
だが、種は落ちた。
店を出る頃には、夫はかなり酔っていた。
足取りが不安定で、野島は自然に言う。
「送りますよ。うちで酔いを醒ましていきませんか。
このまま一人で帰るの、危ないですし」
タクシーではなく、歩く距離。
それが、決定打だった。
野島の家の玄関の灯りの下、部屋に入った途端、夫の足取りが一層危うくなった。
酔いが回っているのは明らかだった。
「少し、座ってください」
野島はそう言って、ソファを指差す。
夫は言われるまま腰を下ろし、深く息を吐いた。
野島はキッチンへ向かい、水を用意する。
戻ってきたとき、上着の前を緩めた。
それは計算だった。躊躇も迷いもない。
野島の胸元がはっきりと開き、大きな胸の谷間が露になる。
夫の視線が吸い寄せられるように落ちる。
喉が鳴り、呼吸が乱れる。
そこにあったのは、迷いではなかった。
欲求だけだった。
「……っ」
短く息を吸い、次の瞬間、夫は立ち上がる。
理屈も、葛藤もない。
ただ、衝動に突き動かされるまま、野島を抱き寄せた。そして野島の胸を強く揉んだ。
野島は抵抗しない。
拒絶もしない。
それが、彼女の選択だった。
唇が触れ、身体が密着する。
夫の動きは拙く、荒い。
そこに感情はなく、あるのは発散されるべき衝動だけ。
野島は、そのすべてを静かに受け止めながら、内心で確信する。
――奪った。
美紀の夫を。
家庭の中心にいるはずだった男を。
これは愛情ではない。
一時の欲望に過ぎない。
それでも、十分だった。
野島の口元に、誰にも見せない微かな笑みが浮かぶ。
勝敗は、もう決まっている。
美紀の夫に覆い被さられ、逃げ場を失ったままソファに押しつけられながら、野島は思った。
――私は、負けていない。
むしろ、ここからだ。




