第七章 選ばれなかった夜
野島は夫の運転する車に乗っている。
夫の帰宅後、二人で車に乗り、買い出しに出かけていた。後部座席には日用品の袋が積まれ、車内には生活の匂いが満ちていた。野島は助手席で、何気ない顔を装いながら窓の外を眺めている。
会話は取りとめもない。
安売りの話、天気の話、明日の予定。野島は適当に相槌を打ち、思考を空にしているふりをしていた。
橋に差しかかったとき、夫は自然にアクセルを緩めた。
前方の街灯が、橋のたもとの歩道を白く照らしている。
その瞬間だった。
光の輪の中に、二つの人影が浮かび上がる。
野島の心臓が、強く跳ねた。
——嘘でしょ。
反射的に身を乗り出しかけ、慌てて体をこわばらせる。
視線だけを動かし、息を殺す。
男の横顔。
街灯に照らされた輪郭、大きな体躯。
見間違えるはずがなかった。
早田晃市。
そして、その隣に立つ女——伊沢美紀。
喉の奥がひくりと鳴る。
胸の内で、何かが崩れ落ちる音がした。
だが、声は出せない。
顔にも出せない。
野島は咄嗟に視線を逸らし、何事もなかったように窓の外を眺める。
まばたきの回数だけが増え、指先が膝の上でわずかに震えた。
「……どうかした?」
夫の声が飛んできて、背筋が凍る。
「何でもない」
即座に答えた。
声は思った以上に平静で、自分でも驚く。
車はそのまま橋を渡り切る。
バックミラーの中で、街灯の光と二人の影が小さくなっていく。
野島は唇を噛みしめた。
——見てしまった。
偶然では済まされない距離だった。
夜に、二人きりで、待ち合わせている。
胸の奥で激しい動揺が渦を巻く。
それでも野島は、最後まで夫に悟られないよう、何事もなかった顔を保ち続けた。
家に着くなり、野島は靴も揃えずに言った。
「……酒、買い忘れたから。ちょっとコンビニ行ってくる」
吐き捨てるように告げ、返事も待たずに家を出る。
胸の奥では感情が荒れ狂っている。それでも、声には出さない。
夜風が、顔に当たる。
野島は歩き出した。
足は自然と、川の方へ向かっている。
——まだ、いるかもしれない。
その考えが胸を締め付ける。
期待と不安が、区別のつかない形で混じり合う。
河原に降り、視線を走らせる。
いない。
街灯の光は途切れ、川面は暗い。
人の気配はどこにもなかった。
野島は散歩道を彷徨いながら、低く呟き続ける。
「……渡さない。早田くんは、渡さない」
叫びたい衝動を必死で押し殺し、歯を噛みしめる。
見てしまった。
確かに、見た。
あの立ち位置。
あの距離。
あの沈黙。
胸の奥で、何かが静かに、決定的な形を取る。
——奪われた。
その事実が、遅れて胸に落ちてくる。
怒りはない。涙も出ない。
ただ、冷たい理解だけがあった。
自分ではない。
美紀だった。
晃市は、迷わずそちらを選んだ。
野島は唇を引き結ぶ。
ここで騒いでも意味はない。詰め寄っても、得るものはない。
壊すなら——
正面からではない。
奪い返すのでもない。
野島は唇を引き結ぶ。
踵を返す。
川の音が、背後に遠ざかっていく。
歩きながら、頭の中で一つずつ整理していく。
美紀の家庭。
夫。
家にいる時間。
雑談の中で聞いた、断片的な情報。
点が、静かにつながっていく




