第六章 遊歩道の先
――長野の住宅街を縫うように流れる、穏やかな川べり。
昼間は散歩する人も見かけるが、夜になると人の気配はすっかり消え、静けさに包まれる。
夏の空気と水音だけが、周囲にひっそりと漂っていた。
遊歩道の舗装は、昼の熱をわずかに残し、ほんのりと温かい。
茂みの奥からは、虫たちの声が静かに響きつづける。
ジジジ……という音が、夜の静寂と重なり、空気を震わせるようだった。
川は緩やかに流れ、対岸の街灯の光が水面に細く揺れている。
まるで川そのものが、眠りの中でゆっくりと呼吸しているかのようだった。
空には星が散らばり、風は湿り気を含みながらもどこかやさしい。
草と川の匂いがほのかに混じり合い、夜は静かに香っていた。
――美紀は、黒のジャージ姿で鏡の前に立っていた。
伸縮性のある生地は身体にぴたりと沿い、胸のふくらみや腰のくびれ、丸みを帯びた尻のかたちまでも、ぼんやりと浮かび上がっている。
特にヒップまわりでは生地が張りつき、パンティのラインさえもはっきりと透けて見えた。
肩から胸元にかけてもぴったりとしたシルエットが続き、やわらかな起伏をそのまま映し出していた。
鏡に映る自分の姿を見つめながら、美紀はほんの少しためらうように目を伏せた。
「これ、ちょっとぴったりすぎるかも……」
そうつぶやいて着替え直すことも一瞬考えたが、時間も気持ちもその余裕を許してくれなかった。
「変じゃないよね、多分……」と自分に言い聞かせた。
娘はすでに寝かしつけ、夫には「ダイエットのためにウォーキングしてくる」とだけ伝え、髪をまとめて玄関を出た。
ぴったりとした生地の感触が、妙に落ち着かず、胸の奥に小さな波紋を広げた。
やがて、待ち合わせ場所の小さな橋のたもとに差し掛かると、早田晃市の姿が見えた。
――紺色のTシャツにグレーのスウェットパンツという控えめな装い。
飾り気はないが、離れた場所からも目立つ背の高くがっしりとした体つきには、どこか安心を覚える存在感があった。
広い肩幅と厚みのある胸板が、静かな佇まいに穏やかな力強さを添えている。
橋のたもとの街灯に照らされたその姿には、誠実さと落ち着いた温かみがにじんでいた。
履き慣れたランニングシューズも含め、晃市らしい素朴さと丁寧さが全身から伝わってくる。
その姿を目にした瞬間、美紀の胸に、ごく小さなときめきがふっと灯った。
まるでずっと前からそこにいてくれたような安心感と、今夜だけの特別な空気が、そっと胸を満たしていく。
車が時折通るだけで、そこには二人だけしかいない。
彼は美紀に気づくと、やわらかく会釈をした。
美紀も歩みをゆるめ、微笑んで頷き返す。
街灯の光がほんのりと降りそそぐ中、美紀は晃市のもとへと静かに歩み寄っていく。
ぴったりとした布地が体のラインを際立たせているのを、自分でも意識していた。
夜風が肌をかすめるたびに、その輪郭が露わになるようで、どこか落ち着かなかった。
一方、晃市の目は、近づいてくる美紀の輪郭を自然と追っていた。
(……こんなに、魅力的だったなんて)
静かな川辺にはそぐわないほど胸が高鳴り、体の奥に熱が宿るのを感じる。
街灯に照らされた彼女の姿は、涼しい夜気のなかで、ひときわ鮮やかに映っていた。
「今日は……ウォーキング付き合ってくれて、ありがとう」
美紀が少し照れたように言う。
「いやあ、こちらこそ。ウォーキングなんて、本当に久しぶりですから」
晃市も穏やかに笑い返した。
ふたりはあいさつを交わし、歩き出す。
基本的には並んで歩いたが、道幅の関係で、晃市がときおり後ろにつくこともあった。
そのたびに、美紀の尻が晃市の視界いっぱいに広がった。
ジャージ越しに下着のラインがくっきりと浮かび、柔らかな肉の動きもはっきりと伝わってくる。
晃市の視線は、気づけば何度も同じ場所へと引き寄せられていた。
悟られぬよう努めていたが、胸の奥では鼓動が激しくなり、何度も唾をのみ込んでいた。
美紀は、すぐ背後から感じる晃市の気配に、ふと胸がざわめいた。
足音のリズム、呼吸の間合い――視線のようなものが、そっと背中に触れる。
(早田さん、私を見てる……)
根拠はない。でも、なぜかそう思えてしまった。
そして、それが少しだけ嬉しかった。
(こんなふうに感じてしまうなんて……やっぱり、私は……)
自分でも言葉にできない感情が、心の奥でそっと揺れていた。
視線を夜空に向け、心をそっと落ち着かせる。
美紀は星を見上げたまま、小さく笑った。
「こうして歩くの、なんだか不思議ですね」
「不思議……ですか」晃市が横顔をうかがう。
「まさか、早田さんと夜に川沿いを二人でウォーキングなんて……ちょっと不思議です」
晃市は少し間を置き、言葉を選ぶようにして答えた。
「……僕もです。不思議だけど、こういうのもいいものですね」
美紀はそっと指さす。
「……あれ、わかりますか? こと座のベガです」
「こと座……ですか」晃市は夜空を見上げる。
「じゃあ、あの三つ並んでるのが、はくちょう座のデネブ。そして、あっちの一番明るいのがわし座のアルタイルです。夏の大三角、って言うんですよ」
「夏の大三角……星は好きなんですか」晃市は尋ねる。
「はい。子どもの頃からずっと。名前を覚えると、星空が急に身近に感じられるんです」
川沿いの暗がりを歩きながら、今度は晃市が耳を澄ます。
「……聞こえますか。チッチッチッと硬貨を打ち合わせるような音。あれはカネタタキです」
美紀は目を瞬かせ、「そんな音、初めて意識しました」と笑う。
「それと、少し低くガチャガチャと鳴っているのがクツワムシです。昼に鳴く虫ですが、長野では夜にも鳴くことがあります」
「ガチャガチャ……これですね」
「はい。夏の夜だと、わりと身近な声なんです」
「早田さんって……虫のこと、すごく詳しいんですね」
「いや、子どものころから慣れ親しんでいただけです」晃市は少し照れくさそうに笑った。
やがてふたりの手と手が、そっと近づいていく。
触れそうで、触れない。
とうとう、かすかに指先が当たった――
「あ……」
美紀と晃市から思わず小さく声がもれ、二人は顔を見合わせた――
晃市はそっと美紀の手を包み、そして指を絡め、しっかりと握り直す。
しばらくして、自然と二人は足を止め、
橋の下、薄暗い影の中へとそっと身を寄せ合った。
美紀がゆっくりと背伸びをして、晃市の首に手を回す――
互いの体温が伝わる。
迷いも言葉もなく、唇が重なる。
強く抱きしめ合いながら、激しくお互いの唇を吸い合った。
夜の川の音だけが静かに流れ、ふたりはその影の中で長い時間、ただ互いを感じ合っていた。
「……別に、こうなるのが嬉しいとか、そんなふうに期待してたわけじゃないですよ」
そう言いながらも、美紀の声には、はっきりと弾むような響きがあった。
言葉とは裏腹に、その抑えきれない調子が、胸の内にある気持ちを滲ませていた。
晃市は微笑んで、「うん、わかってる」とだけ答えた。
本当は――「好きです」と伝えたかった。けれどそれを口にした途端、何かが壊れてしまう気がして、それ以上は言えなかった。
ほんの短いやりとりだった。
けれどその夜、ふたりの心は、そっと近づいていた。
その視線と体温と沈黙が、すでにすべてを語っていた。




