第五章 同僚
晃市はその日、朝から閉店までの通し勤務だった。
昼のピークが過ぎ、売り場が静まり返る頃には、レジの中にいるのは自分と野島の二人だけになる。
野島は晃市の職場にいる同僚の一人だ。
同じ時期に入社し、パートながらキャリアは長い。年は晃市より二歳若いが、大学生になる息子が二人いる既婚者だと聞けば、多くの人は落ち着いた家庭人を想像するだろう。
だが、実際に目の前に立つ彼女は、その想像から少し外れていた。
ショートカットの髪に、やや吊り上がった大きな目。
口角は下がり気味で、感情を隠す気のない顔立ちだ。
丹念に施されたメイクは柔らかさよりも輪郭を際立たせており、気の強い女性を好む人なら、美人だと感じるかもしれない。
身長は百六十センチほどで体は引き締まっており、足も細い。その一方で、細身の体つきには不釣り合いなほど胸が大きい。
野島が好んで着る制服のポロシャツは、いつも体にぴったりしていた。
特に胸元は強調される形になり、動くたびに否応なく視界に入る。本人が意識しているのかどうかは分からない。ただ晃市には、それが計算なのか無自覚なのか、判断がつかず、余計に落ち着かないのだった。
野島は、長野で働く夫に嫁いでこちらへ来たらしい。出身は関西だが、職場では関西弁を使わない。言葉遣いは標準語に近い。ただし言い回しは率直で、遠慮や曖昧さを好まない。
「それ、後回しにしないで。今やっといたほうが楽でしょ」
業務上はもっともな指示でも、語尾に柔らかさはなく、言い切るような口調になる。
機嫌がいいときは冗談めいた一言が増えるが、少しでも気に障ることがあれば、それがそのまま声に乗った。
晃市は、野島と会話を避けているわけではなかった。
ただ、できるだけ必要以上に踏み込まれないよう、距離を保とうとしている。それでも野島は、その距離を測るように、時折ぐっと近づいてくる。
「早田くんさ」
レジ締めの作業中、不意に声をかけられる。
「はい?」
「最近、なんか雰囲気違わない?」
何気ない世間話のようでいて、視線は晃市の表情を逃さない。
晃市は一瞬だけ言葉に詰まり、曖昧に答える。
「そうですか?」
「うん。別にいいけど」
そう言いながら、野島は胸元に腕を寄せるようにして体を傾ける。距離が近い。
晃市は視線を作業台に落とし、必要以上に反応しないようにした。
野島は感情の起伏を隠さない。
探るような視線も、苛立ちも、関心も、そのまま表に出る。晃市にとってそれは、やりにくさの原因だった。
同じシフトに入ると、無意識に神経を使う。
言葉を選び、表情を抑え、余計な誤解を生まないように振る舞う。
正直に言えば、野島がいない時間帯のほうが、ずっと気が楽だった。
それでも、細身の体に不釣り合いな胸元だけは、どうしても視界に入ってしまう。
そのたびに、晃市は自分自身に小さな苛立ちを覚えた。
野島は、そうした視線や間の揺れを、見逃さない女だった。
夕方が近づき、野島の退勤時間が来る。
バックヤードへ向かう前、彼女は何気ないふりで入口の方を見た。
そのとき、チャイムが鳴った。
伊沢美紀が店内に入ってくる。
いつもの仕事着、控えめな身のこなし、穏やかな表情。
美紀は明るく二人に挨拶した。
「おはようございます」
晃市の返事は、ほんの少しだけ声の調子が違った。
自覚する前に出てしまった、柔らかさだった。
野島はその変化を見逃さなかった。
レジ台にもたれかかるように立ち、二人のやり取りを横目で追う。美紀がレジに近づき、晃市と並ぶ。その距離が自然であることが、野島の目には妙にくっきりと映った。
「早田さん今日は通し?」
美紀がそう尋ねると、晃市は小さく頷く。
「朝からです」
「そっか。じゃあ、もう少しだね」
その短いやり取りだけで十分だった。
晃市の表情は、明らかに緩んでいる。
野島は鼻で小さく息を吐いた。
「へえ……」
独り言のように漏れた声は低い。
「本当、分かりやすいよね」
晃市ははっとして野島を見るが、彼女はもう視線を逸らしていた。
胸元を強調するように腕を組み、ぴったりした制服越しに身体の線を際立たせながら、淡々とレジ締めの続きをする。
「じゃ、私はここまで」
事務的な口調でそう言い、野島はエプロンを外した。
「お邪魔虫は帰りますね」
最後の一言だけ、わずかに棘があった。
美紀は一瞬きょとんとした顔をしたが、すぐに軽く野島に会釈する。
「お疲れさまでした」
「はいはい、お疲れ」
野島は振り返らない。
バックヤードの扉が閉まる音が、やけに大きく響いた。
レジの中には、晃市と美紀だけが残る。
静まり返った売り場で、晃市はようやく息を整えた。
胸の奥に溜まっていた緊張が、ゆっくりとほどけていくのを感じながら。
「野島さんと一緒の勤務、お疲れさまでした」
美紀の声が、柔らかく響く。
張り詰めていたものが、少しほどけるのを感じる。
柔らかな声。穏やかな笑顔。
何気ない挨拶なのに、胸の奥がわずかに熱を持つ。
晃市から尋ねた。
「最近はどうです? ダイエットのほうは」
「ちょっとサボり気味だったけど、また動き出そうかなって思ってます」
何気ない会話なのに、美紀の顔はなぜだか少し熱くなる――
美紀は視線をずらすと、思い切って口を開いた。
「早田さん、もしよかったら……今度の夜、一緒に歩きませんか? ダイエットも兼ねて。それに、ボディガードもお願いできたら……ちょっと心強いかな、なんて」
一瞬驚いたような表情を浮かべた晃市だったが、すぐに微笑んで頷いた。
「もちろん。伊沢さんの護衛役、光栄です」
その笑顔を見て、また胸の奥が不思議な温かさで満たされていくのを、美紀は感じていた




