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最終章 春風の置き手紙

春が、柔らかな陽を連れてきた。

街路樹の芽は膨らみ、制服姿の子どもたちが笑い声を立てながら通りを駆けていく。


ゆあまーとのバックヤード。

かつて美紀と結ばれたその場所で――早田晃市は、変わらぬ日々の中、変わらぬ作業をこなしていた。

段ボールを静かに開き、商品を一つひとつ棚に並べながら、ふとした瞬間に思い出す。


美紀のことだ。


彼女は、あれから数週間は変わらず出勤していた。

ただ体調を気遣いながらの勤務であることは、他のパートにもはっきりと分かっていた。

そしてある日を境に、静かに産休へ入った。


晃市は、その事実をなるべく意識の外に置こうとした。

ただ黙々と作業を繰り返すことで、日々をやり過ごした。


美紀が産休に入ってから、ゆあまーとの夕方は目に見えて静かになった。

レジの奥に立つのは、晃市と野島の二人きりになることが多い。


その沈黙を、野島は待っていた。


業務の合間、彼女は少しずつ距離を詰める。

商品の補充、伝票の確認――理由はいくらでもあった。


「最近、店も静かになったね」


野島はそう言いながら、晃市のすぐ横に立つ。

意図的な距離だった。


「……そうですね」


晃市は視線を合わせず、手を止めない。


野島は、そこで一歩踏み込んだ。

言葉ではなく、行動で。


「伊沢さん、もういないよ」


その瞬間、野島は晃市の手を取り、自分の身体へ引き寄せた。

強引だった。

拒まれる可能性を、最初から織り込んだうえでの動きだった。


だが次の瞬間――


晃市は即座に手を振りほどいた。


「やめてください」


低く、はっきりした声。

そこに迷いは一切なかった。


「ちょっと……何マジになってるのよ」


野島は笑おうとしたが、口元が引きつる。


「冗談に見えません」


晃市は一歩下がり、距離を取る。


沈黙が落ちた。


野島の胸の奥で、何かが音を立てて切れる。


「……あんたは、そんなに伊沢美紀がいいの?」


抑えていた感情が、声になって跳ね上がる。


「私がいるでしょう。

あの女がいなくなっても」


晃市は困ったように眉を寄せ、それから静かに、決定的な言葉を口にした。


「あなたのことは、最初から見ていません」


短く、逃げのない否定。


「同僚としてしか、見ていない」


野島は、その場に立ち尽くした。

言い返す言葉は、もう残っていなかった。


――見ていない。


利用したつもりだった。

奪ったつもりだった。

だが、ここには何も残っていない。


その日の勤務が終わる頃、野島は店長に退職を告げた。

理由は言わなかった。


数日後、彼女は夫と子供達を残して関西の実家へ戻った。

ここに留まる意味が、完全になくなったからだ。


野島は、ゆあまーとから、晃市から、そして伊沢美紀から――

完全に姿を消した。


その数か月後――


「咲良ちゃんっていうんだって」


レジ奥から聞こえてきた何気ない会話に、晃市の手がふと止まった。


晃市は、近くで作業をしていたパートの主婦に声をかける。


「女の子なんですね」


「うん。伊沢さんそっくりらしいよ。よく笑う子でね。

赤ちゃんなのに目鼻立ちがはっきりしてて、すごく可愛いって」


「……旦那さんは?」


「目の中に入れても痛くないって、本気で言ってたってさ」


明るい声に相槌を打ちながら、晃市は静かに微笑み、手元の商品を整えた。


――よかったな、美紀さん。


無事に出産を終え、夫と娘と、新しい家族としての日々を送っている。

それを思い浮かべるだけで、胸の内が少しだけ和らいだ。


「目鼻立ちがはっきりしてて……」


その言葉が、晃市の胸にほんの一瞬だけ引っかかった。

ありえない考えが、かすめる。


(……まさか)


だが晃市は、すぐにその思考を手放した。

深く息をつき、静かに気持ちを整える。


美紀が母となり、笑って生きている。

それだけでいい。

それだけで、十分だった。


ある日、晃市のロッカーに一通の封筒が差し込まれていた。

差出人の名はない。

だが、封筒に書かれた文字を見た瞬間、晃市には分かった。


――伊沢美紀。


中には、一枚の便箋が折られていた。



晃市さんへ


もし、あなたと出会っていなかったら、

私は、誰にも見せられない自分のまま、

女としても、母としても、自信を持てずにいたと思います。


あの日々は短くて、不思議で、

現実だったのか夢だったのか、今も分かりません。

でも、私にとっては確かな「始まり」でした。


私は今、母になりました。

娘の顔を見た人たちは「私にそっくり」と言います。


でも、私は知っています。

この子の輪郭に、あなたの面影があることを。


誰にも言いません。

知らせることもありません。

ただ、この子を一生愛していきます。


そして、あなたと過ごしたあの時間も、

誰にも語らず、私の中に大切にしまっておきます。


「私でいい」と思わせてくれたあなたに、

心から感謝しています。


ありがとう。


さようならとは、書きません。

「さようならを告げない」別れを、あなたに贈ります。


伊沢美紀



手紙の最後に残されていたのは、「さようならを告げない」別れだった。

消えゆく言葉ではなく、静かに息づく想い。


「この子の輪郭に、あなたの面影があることを」


その一文を読んだ瞬間、晃市の胸が、はっきりと音を立てて震えた。

遠回しな言葉だった。

それでも、意味を取り違える余地はなかった。


――この世界に、自分の子がいる。


驚きと同時に、熱いものが胸の奥に込み上げる。

言葉にならない感情が、息を詰まらせた。


産んでくれた。

何も言わず、何も求めず、ただ一人で決めて――それでも産んでくれた。


晃市は、しばらく便箋から目を離せずにいた。

胸の奥に、感謝と喜びと、どうしようもない衝動が渦を巻く。


会いたい。

子どもの顔を、この目で見てみたい。

ほんの一瞬でいい。声を聞いて、確かめてみたい。


だが、その考えはすぐに胸の奥へ押し戻された。


――それは、美紀の望んだことじゃない。


彼女は、あえて知らせなかった。

晃市に何も背負わせないために。

この生活を、静かに守るために。


晃市は、深く息を吸い、ゆっくりと吐いた。


たとえ、会釈ひとつ交わすことができなくてもいい。

遠くから想像するだけで、十分だ。


想いは語られなくても、生き続ける。

言葉にせず抱え続けること――それが、今の自分にできる唯一のやさしさだった。


美紀が妻として、母として、自分らしく歩いている。

その姿を思い浮かべるだけで、胸には静かな喜びが満ちていく。


自分の存在が、そのきっかけのひとつであったなら――

それで、もう充分だった。


「……ありがとう、美紀さん」


その呟きは春風に溶け、誰にも届かず消えていった。


ゆあまーとの自動ドアが開き、やわらかな光と風が吹き込む。

晃市は手紙をそっとロッカーにしまい、売り場へ戻った。


目の奥が、ほんの少しだけ熱くなる。

それは別れの涙ではなく、

“生きてきた”ことへの、静かな感謝だった。


特別なことはなかった。

ただ誠実に働き、誰かを想い、少しの奇跡に触れただけ。


――それで、十分だった。


冷蔵ケースの扉を開け、晃市は深く息を吸い込む。

そして、いつものように品出しを始めた。


(……この人生も、悪くなかったな)


夕方、勤務を終えた晃市は、ゆあまーとを出た。

冷たい外気を胸いっぱいに吸い込み、ゆっくりと歩き出す。

美紀の手紙を読んでから、胸の奥が落ち着かない。


理由は分かっている。

考えないようにしても、どうしても美紀のことを思い出してしまう。


そんなことを考えながら歩いていた、そのとき――


「……晃市さん」


背後から、不意に声がかかる。


振り返ると、美紀が立っていた。


左手には幼い娘の手。

娘は屈託なく「こんばんは」と挨拶をし、

ベビーカーの中では赤ん坊が静かな寝息を立てている。


眠っているはずなのに、その目鼻立ちの輪郭ははっきりしていた。

晃市は、そこから視線を逸らせなかった。


美紀は、少しだけ戸惑ったように、

それでも確かに笑った。


その笑顔に宿る、懐かしさと安堵。

それだけで、胸の奥が強く締めつけられる。


春風が、二人のあいだをそっと吹き抜ける。

夕暮れの光が、言葉にならなかった時間ごと、静かに包み込んでいた。


晃市は、何も言わなかった。

聞きたいことは山ほどあった。

伝えたい想いも、消えたわけではない。


それでも――言わなかった。


美紀もまた、何も語らない。

ただ、穏やかな目で晃市を見ている。


それで、充分だった。


二人は、短く会釈を交わす。

それだけで、すべてが伝わった気がした。


それぞれの人生は、すでに動き出している。

もう交わらない道だとしても、

あの時間が確かに存在したことだけは、消えない。


街灯の下、ほんのわずかな再会は、

言葉にならない温度を残したまま、夜へと溶けていった。


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