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第十一章 選ばれた静寂

あの午後、ゆあまーとのバックヤードで時間が止まったとき――

伊沢美紀の中で、確かに何かが静かに、けれど確かに始まっていた。


ふたりきりの、音もない世界。

早田晃市の体温は、ためらいがちに、しかし確かな優しさで彼女の肌に触れた。


その手は大きく、毛深く、それでいて驚くほど丁寧だった。

触れられるたび、美紀は“女”としての輪郭を、久しぶりに取り戻していった。


甘い香り、呼吸の重なり、こぼれる吐息――

ふたりの空気が交わるなかで、美紀は彼にすべてを預けた。


それが現実だったのか、それとも幻だったのか。

今でも区別はつかない。けれど、彼の存在は確かに、深く、身体の奥に残っていた。


数日後のある夜。

娘は友人の家に泊まりに行き、家には久しぶりに夫とふたりきりの時間が訪れた。


その夜、家の空気は妙に張りつめていた。

食事を終えても、夫はテレビをつけなかった。

蛍光灯の白い光の下、美紀をじっと見つめている。


美紀の不貞を確認する前、夫は普段飲まないビールを立て続けに開けた。

落ち着くためだったはずの苦味が、逆に心を荒立てていった。


「……この前さ」


沈黙を破ったのは、夫だった。


「夜のウォーキング、ずいぶん長かったじゃないか」


美紀は一瞬だけ手を止めるが、すぐに平静を装う。


「いつもより、少し歩いただけだよ」


「一人で歩いたのか?」


夫の声が、わずかに低くなる。


「橋のほうまで行っただろ。

そこから先も一人で歩いたのか?」


美紀は顔を上げ、はっきりと言った。


「ダイエットのために歩いてるだけよ。

一人のときもあるし、たまには誰かと一緒に歩くこともある。それだけ」


言い切りだった。

逃げも、言い訳もない。


だが夫は引かない。


「最近、雰囲気も変わった。

スマホを見る回数も増えたよな……」


疑念が、言葉になって滲み出る。


「何勝手に思い込んでるのよ」


美紀は静かに言った。


「私はウォーキングしてるだけなのに、

勝手に話を膨らませないで」


その強気な態度が、夫の神経を逆撫でした。


「……そうやって、いつも俺を突き放す」


立ち上がる音。

距離が一気に縮まる。


「ちゃんと、俺を見ろよ」


腕を掴まれ、美紀は息を呑んだ。


「やめて」


拒絶は、はっきりしていた。

だが、夫は止まらなかった。


「本当に、やましいことがないのか確かめてやる」


それは愛情ではない。

疑いと焦りが、衝動へと形を変えただけだった。


短く、荒い時間が過ぎる。

夫は美紀の中に、己の精一杯の熱を押し付けた。


終わると、夫は黙って衣服を身につけ、背を向けた。

満足とも後悔ともつかない沈黙だけが、部屋に残る。


美紀は乱れた着衣のまま天井を見つめ、涙をこらえながら静かに呼吸を整えていた。

胸の奥には、冷たく澄んだ決意が、ゆっくりと沈んでいく。

――この人を、もう許さない。


たとえ夫婦であっても、力づくで抱かれた屈辱を忘れることはできない。

この夜を境に、心は完全に切り離された。


妊娠がわかったのは、それから二週間後の朝だった。


気づいたのは、ほんのわずかな体調の変化だった。

眠気、微熱、そして違和感のある下腹部の重み。


まさか、と思いながらも、自宅のトイレで市販の妊娠検査薬を使った。


スティックに浮かび上がる、はっきりとした「陽性」の印――


美紀は数秒、言葉を失った。

そして、ぽつりとつぶやいた。


「妊娠したみたい……」


自分の声が、自分の耳に届くまで、時間がかかった。


数日後の夜、夫に報告した。


「……妊娠したみたい」

一瞬、夫の表情が固まった。


夫は言葉を失い、次いで戸惑ったように頷いた。

翌日、二人は並んで産婦人科を訪れた。


診察室で告げられた妊娠週数は、はっきりしていた。

医師の説明を聞きながら、夫の表情が徐々に変わっていく。


計算は、合ってしまったのだ。


――あの夜。

疑いに駆られ、力づくで美紀を抱いた時期と、ほぼ一致している。


待合室に戻ったあと、夫はしばらく俯いていたが、やがて低い声で言った。


「……疑ったこと、謝る。

酷いことをした」


酔った勢いで野島を抱いたことなど、口にできるはずがなかった。

夫に残されたのは、美紀に頭を下げることだけだった。


美紀は何も言わず、ただ頷いた。

許したわけではない。ただ、否定もしなかった。


夫は言葉を重ねる。


「俺の子だ。

全力で愛情を注いで、大切にする」


その声を聞きながら、美紀の胸の内は奇妙なほど静かだった。

彼女の中では、答えはすでに出ている。


この子は、晃市との子だ。

理由は説明できない。

確証もない。

けれど、確信だけがあった。


それは、美紀の中では揺るがなかった。


それでも、美紀は夫の子として産むことを選んだ。


あの夜、拒んでいたにもかかわらず踏み越えられたこと。

疑われ、押さえつけられ、意志を無視されたこと。


それに対して、美紀は怒鳴りもしなかったし、恨み言も言わなかった。

ただ、償うべき責任だけを残すことにした。


晃市は、アルバイトで生きるだけでも精一杯だ。

彼に父という重さを背負わせることは、愛ではなく罰になる。


だから、この子は夫の子として生まれる。


逃げられない責任を、

夫には、父として、生涯背負ってもらう。


夫は安堵したように、美紀の肩にそっと手を置いた。

だが、その温もりは、もう彼女の心には届かない。


美紀は窓の外を見つめながら、静かに思った。


――この子は、私が守る。


誰のものでもなく、

自分の意志で。


次の日、美紀の夫は野島にスマートホンでメールを送った。内容は、短かった。


画面に表示された名前を見た瞬間、野島は察した。

だが、それでも指は自然にメッセージを開いていた。


「妻が妊娠しました。

医師の診断も受けました。

間違いなく、僕の子です」


行間のない、断定的な文面。

そこに迷いはない。


少し間を置いて、続きが届く。


「もう、これ以上お会いすることはできません。

これで終わりにしてください」


野島は、しばらく画面を見つめたまま動かなかった。

指先が、わずかに震える。


――終わり。


それだけの言葉で、すべてを切り捨てられた。


喉の奥が、ひくりと鳴る。

胸の内で、何かが音を立てて崩れた。


失敗したのだ。


家庭を壊すことも、引き離すこともできなかった。

自分が踏み越えさせたはずの男は、結局、元の場所に戻った。


野島はスマートフォンを強く握りしめる。

爪が掌に食い込み、鈍い痛みが走る。


「……ふざけないで」


声は低く、押し殺されていた。

怒鳴ることも、返信することもできない。


――間違いなく、僕の子。


その一文が、何度も頭の中で反響する。


あの夜の手応え。

確かに、掴んだはずだった感触。


それでも、結果はこれだ。


野島はゆっくりと息を吸い、吐いた。

怒りは、外に出せば終わってしまう。

ここで爆発させるわけにはいかない。


スマートフォンを伏せ、目を閉じる。


――まだだ。


敗北は認める。

だが、終わったとは限らない。


野島の唇が、わずかに歪んだ。

それは笑みとは呼べない、冷えた表情だった。


怒りは、胸の奥で静かに煮え続けている。


後日、伊沢美紀は早田晃市を職場近くの大きな公園に呼び出した。

空は高く、視界の開けた芝生が遠くまで続いている。

彼女は周囲を一度だけ見回し、人の気配がないことを確かめると、晃市の前で足を止めた。


言葉は、準備してきたはずなのに、すぐには出てこなかった。

それでも、美紀は小さく息を吸い、低い声で言った。


「……妊娠しました」


美紀は一度だけ、言葉を濁した視線を晃市に向けた。

その瞳の奥には、言葉にならない感情が揺れていた。

けれど、すぐに視線をそらし、微笑みを抑えた。


「主人の子です。……晃市さんには、関係ないこと……のはずです」


そこで一度、言葉を切る。

その沈黙が、晃市の胸を締めつけた。


美紀は、もう一度だけ視線を伏せた。


それが決定事項であることは、

その仕草だけで、はっきりと伝わっていた。

迷いはない。揺れもない。


けれど、美紀は続けた。


「……それでも、私の気持ちまで変わったわけじゃありません」


ほんの一瞬だけ、晃市を見る。

すがるでもなく、訴えるでもない、静かな目だった。


「あの時間が、私にとって大切だったことは……今も同じです」


晃市は何も言えず、ただうなずいた。

喉の奥で、何かが引っかかったまま動かない。


主人の子。

その言葉を、頭では理解できた。


けれど、胸の奥は別だった。


(……してたんだ)


晃市は、どうしようもない考えを振り払えずにいた。

美紀が、あの家で、夫と触れ合っていたこと。

自分の知らない場所で、知らない時間を過ごしていたこと。


分かっていたはずなのに。

既婚者だと、最初から知っていたのに。


それでも――


(嫌だな)


嫉妬だった。

情けないほど、はっきりとした嫉妬。


思考はそこで止まり、先に進まなかった。

落胆も、安堵も、嫉妬も、同時に胸に湧いては絡まり合う。

夫婦なのだから、そういうこともある――

そう自分に言い聞かせながら、納得したふりをするしかなかった。


美紀は視線を伏せ、ほんの一瞬だけ口元を緩めた。

それは笑顔というには短く、感情を押し込めるための、ぎこちない表情だった。


「……じゃあ、また職場で」


それだけ言って、踵を返す。

足取りは早く、振り返ることはない。

立ち止まれば、気持ちがこぼれてしまうと分かっているかのようだった。


残された晃市は、その背中を見送ることもできず、視線を地面に落とした。

言葉を選ぶ時間は、最初から与えられていなかった。

美紀は、晃市に選択を委ねるつもりなどなかったのだと、遅れて理解する。


それから二人は、また同じように「ゆあまーと」で顔を合わせるようになった。

レジに立ち、品出しをし、客には変わらぬ笑顔で応対する。

表向きは、何も変わっていない。


けれど、確かに一つの関係は終わっていた。


それでも――

ふとした拍子に、晃市は美紀の視線を感じることがあった。


仕事の合間、レジ越しに向けられるその目は、以前よりも距離を保っている。

だが冷たさはなく、むしろ静かで、穏やかで、どこか満ち足りている。


晃市は、そこに気づいてしまう。

美紀の気持ちは、変わっていない。

ただ、抑え込まれているだけだということに。


胸の奥に、温かさと同時に小さな痛みが広がる。

嬉しさと、踏み込めない苦しさが、同時に押し寄せる。


それでも晃市は、何も言わなかった。

ただ、いつものように小さく微笑みを返す。


それが今の二人に許された、精一杯の距離だった。


――それでいい。


そう言い聞かせなければ、立っていられなかった。


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