二度ある事は三度ある……とはなりませんわ。
一部修正をしました。
クライネは知っていた。
婚約者バリードが浮気をしていることを。しかも一度きりではない。二度もだ。
一度目は、偶然だった。
バリードが外出しているはずの時間に、侍従が慌てた様子で屋敷を走っていくのを見かけた。何事かと問いただせば、彼は目を泳がせながら「い、いえ……」と答えるばかりで、歯切れが悪い。
数日後、バリードの執務室から一通の手紙が見つかった。クライネ宛てではない女性の名前が書かれ、香水の匂いがふんわりと漂っている。
それでも、クライネは黙った。婚約者を疑う自分が嫌だったし、何より彼の評判を傷つけたくなかったからだ。
二度目は、もっと露骨だった。
夜会の場で、バリードが来ていると耳にしたのに、翌朝彼は「急用で行けなかった」と言い訳をした。
そしてその夜会に参加していた友人が、決定的な言葉を呟いた。
「……すごく親しげに腕を取られていたわ。見間違いじゃないと思う」
胸の奥で、何かが沈んでいく。疑いたくなくて見ないふりをしてきた事実が、ゆっくりと彼女の前に姿を現した。
だが、クライネは怒鳴らなかった。
周囲に訴えたり、泣いて縋ったりもしなかった。
なぜなら、誰も信じてくれないと分かっていたからだ。
バリードは妙に人望があった。
礼儀正しく、愛想がよく、困った者には手を差し伸べる。外面だけ見れば、完璧な紳士だった。
そんな男を咎めたところで、「クライネ様の勘違いでは?」と返ってくるに決まっている。
実際、何度か遠回しに相談したときでさえ、令嬢たちは皆バリードを庇った。
この状況で”浮気をしている”などと言えば、噂好きな貴婦人たちがどんな顔をするか……想像しただけで背筋が冷えた。
だから、クライネは独りで抱え込んだ。
けれど、耐えるつもりはなかった。
彼の裏切りを黙って飲み込み、未来を捧げるつもりなど毛頭ない。
(いつか必ず……婚約を破棄してみせますわ)
しかし決定的な証拠がない以上、動くには早すぎた。糾弾すれば、反対にクライネが悪者扱いされかねない。
そんなもどかしい思いで、ここ数ヶ月を過ごしていた。
◇
そんなある日のお茶会だった。
「ねぇ、クライネ様。バリード様のお誕生日、もうすぐでしょう?」
紅茶を口に運ぼうとしたクライネの手が、そこで止まった。
言われてみれば、確かにそうだった。
バリードの誕生日──表面上は祝わねばならない立場の、あの男の。
(……あぁ、そうでしたわね。すっかり忘れていましたわ)
誕生日の準備。贈り物。段取り。
本来なら婚約者として率先して動くべきなのだろうが、胸の中で嫌悪がふつふつと沸き上がる。
(浮気している相手の誕生日を祝うだなんて……皮肉よね)
彼女は小さくため息をついた。
「何か準備しなくては……とは思いますけれど」
そう言いながらも、内心では葛藤が渦を巻いていた。
浮気を繰り返す男に誠意を尽くす義務などない。
それなのに、世間体という鎖が彼女の足を縛っていた。
しかし──次の瞬間、クライネの脳裏にある考えがよぎった。
(……待って)
誕生日。準備。屋敷。
それをバリード本人に知らせずに行う方法。
もしも当日、彼がいつものように誰かと逢っていたとしたら?
その現場へ大勢の令嬢が揃って突入することになる。
そこまで思考が至った瞬間、クライネの胸の奥に、久しく感じたことのない熱がふっと灯った。
「そうね……」
ゆっくりと扇子を閉じ、周囲の令嬢たちへ微笑みかける。
「今回は──サプライズパーティーにするのは、どうかしら?」
令嬢たちは、ぱっと花が咲いたように明るい顔をした。
「まぁ素敵! バリード様、きっと感激なさいますわ!」
「予告なしで邸宅へ伺うなんて、なんてロマンチック!」
無邪気な声が重なる。
誰ひとり、彼女の真意など理解していなかった。
(ええ……ロマンチックでしょうとも。それは、あなた方が想像する類いのものとは違うけれど)
「準備はわたくしにお任せくださいませ。きっと……忘れられない一日になりますわ」
そう告げるクライネの微笑みは、誰よりも美しく、そして残酷だった。
◇
バリードの誕生日当日。
クライネは、いつもと変わらない様子で身支度を整えた。
白に近い淡い水色のドレス。
髪は肩の後ろで緩やかにまとめ、宝石は控えめに。祝いの席としては申し分ない装いだった。
(さて……今日はどの顔を見せてくれるのかしら、バリード)
約束の時刻。クライネは数名の令嬢たちと共に、バリードの邸宅へ馬車を連ねた。
「きっと驚かれますわね!」
彼女たちは浮き足立っていた。バリードの裏の顔を知らない彼女らにとって、今日はただの社交的な娯楽に過ぎないのだろう。
だがクライネは、彼女たちを責める気はなかった。
知らないのは彼女らの罪ではない。
罪があるとすれば、それは彼女たちを欺き続けた男だけだ。
邸宅に着くと、侍従たちは驚いたような表情を見せた。
「こ、これはクライネ様……それに皆さま……」
「お静かにね。サプライズなのですもの」
クライネは微笑み、指先を口元に当てた。
侍従は一瞬だけ困ったように眉を寄せたが、すぐに礼をして案内に入る。
どうやら”バリードには告げていない”という条件は守られているらしい。
淡い予感が胸を掠めた。
静かな廊下を進む。
扉の向こうからかすかに笑い声──いや、それよりもっと柔らかな、含みのある声が聞こえた。
令嬢たちは顔を見合わせ、くすくすと笑いながら囁く。
「まあ……誰か客人が?」
「用意の良い方ですわね、バリード様ったら」
だがクライネだけは、笑わなかった。
(……間違いなさそうですわね)
「こちらがリビングルームでございます」
侍従が扉の前で一礼する。
クライネは一歩前に進み、皆に声を掛けた。
「皆さま、準備はよろしくて?」
「もちろんですわ!」
「せーので開けましょう!」
令嬢たちは扉に手を掛け、声を揃えた。
「せぇの!」
勢いよく扉が開く。
その瞬間、空気が凍りついた。
白いシーツの乱れたソファ。
慌てて身なりを整えるバリード。そして彼の隣、髪を乱したままの若い侯爵令嬢。
互いにそうしているような体勢のまま、こちらを見て固まっていた。
「きゃあああああっ!!」
令嬢たちは一斉に叫び声をあげた。失望、羞恥、衝撃──すべてが混ざった甲高い悲鳴だった。
「ど、どういう状況ですの!?」
令嬢のひとりが泣き出し、別の令嬢は怒りで顔を真っ赤に染めていた。
中には、ショックのあまりよろめく者までいる。
その喧騒の中、当のバリードはというと──。
「ち、違うっ、これは……!」
必死に弁明をしているが、目の前の光景が全てを物語っていた。
隣の侯爵令嬢は、顔を伏せて小さく震えている。彼女もまた、今日がバリードの誕生日だとは知らなかったのだろう。
クライネは一歩、ゆっくりと前へ出た。
「皆さま、どうか落ち着いてくださいませ」
その一声に、ざわめきが少しずつ引いていく。
クライネは乱れたソファを見つめ、そしてバリードへ視線を移した。
「……誕生日のお祝いに伺ったのですけれど。随分とお楽しみの最中だったのですわね?」
「ち、違う! これは本当に誤解だ、クライネ! 聞いてくれ!」
バリードが縋りつくように叫ぶ。
「誤解……? まぁ」
扇子を少しだけ持ち上げ、目だけで微笑む。
「では、説明していただけますか? この部屋の状態を。そして私達の前にその姿で現れた理由を」
「そ、それは……っ」
バリードの喉がひくりと震えた。言い訳が詰まり、声にならない。
「こんなの、誤解のしようがありませんわ! クライネ様がどれほどお辛かったか……!」
罵声があがるたび、バリードは青ざめ肩を震わせた。
◇
その日を境に、社交界からバリードは破廉恥な男として語られるようになった。
もともと人望があった分、落差は激しかった。
表では誰にでも微笑んでいた彼が、裏では複数の令嬢に手をつけていた、そんな事実は社交界にとって格好の餌だった。
しかもそれを暴いたのが、誰あろうクライネ本人だ。ここまで来ると、もう誰もバリードを庇おうとはしない。
あれほど愛想の良かった彼の周りは、気づけば閑散とし、社交場で声を掛ける者すら激減したとの事だった。




