第8話 逃げるように、生きる
1
何を持っていくのが正解か、分からなかった。
結局、『お大事にしてください』と書いた仔猫の柄のミニ便箋をリュックに入れた。
日差しが強い七月末。
夏休みが始まったその日に、私は柏木くんのお姉さんが入院する病院へと向かった。
いつもの駅で待ち合わせ。柏木くんは白いワイシャツにクロックスという、いつもよりフォーマルないでたちをしていた。
私、この服でよかったかな。
首元の丸襟についたリボンを縛り直し、唇を舌先で濡らす。
「……お菓子にしようかと思ったんだけど、病院のホームページ見たら食べ物の差し入れ禁止って書いてあって。一言書いたメモしか持って来れなかった。大丈夫かな」
私が恐る恐る訊くと、彼は口元を綻ばせた。
「全然大丈夫だよ。メモありがとね」
日光に負けないくらいの優しい微笑みに、目のやり場に困った。
視線を逸らし、足元を見つめる。いつも体育の時間に履いている薄汚れたスニーカーのつま先が目に入り、否が応でも学校生活を思い出してしまう。
このまま、夏休みが永遠に続いたらいいのに――。
まだ始まったばかりなのにと心の中で自嘲したら、石ころにつまずきそうになる。
「大丈夫?」
熱い手ひらが私の腕を掴んだ。
脈が跳ね上がり、素早く腕を引く。
「あっ……ありがとう」
背中をつーっと流れる汗が、夏の暑さを冷ますかのようだった。
掴まれた腕は、しばらく熱を帯びていた。
2
その病院は、クリーム色の外壁に出窓が所々配置されていた。まるでホテルのような外観だ。精神科病院に陰鬱なイメージを少なからず持っていたので、意外だった。
しかし中に入ると、やっぱり、そこは精神科病院だった。
待合室でうなだれて座る乱れた髪の中年女性、受付の前をうろうろして落ち着かない様子のおじいさん、身なりを気にする素振りのない男性……。そんな中にも、原宿にいてもおかしくないような若い女性なんかもいて、患者層は雑多としていた。
柏木くんは受付に、
「柏木悠衣の面会に来ました」
と告げた。
受付の女性は受話器を取り、病棟に連絡をしているようだった。私は視線を下に落としたまま両手の汗をスカートで拭う。
やがて、看護師とその後ろに髪の毛を一つに縛った女性がこちらに向かって歩いてきた。
橙色の病衣を着た女性は、ぽっちゃりしていて髪の毛が傷んでいて、クマが酷かった。
この人が――お姉さんなのか。
私はぺこりと頭を下げ、視線を逸らした。じろじろ見てはいけない気がしたから。お姉さんは明らかに戸惑いの表情を浮かべながらも、会釈を返してくれた。
「おはよう。一ヶ月ぶりだね。元気?」
柏木くんは微笑みながらお姉さんに声をかけた。看護師が静かに去っていく。
「元気なわけないでしょ」
お姉さんの顔に笑みが浮かび、私はほっとした。彼女の目が私を見つめているような気がしたので、私は唇を開いた。
「あの、突然すみません。私、藤原美羽と申します」
柏木くんとの関係性を説明しようとしたが、出来なかった。
私と彼は、何なのだ?
「藤原さんは僕の友達なんだ」
彼の補足に、私は何故か気落ちした。
それ以外の何物でもないのに、私は何を期待していたというのだ――。
「そうなんだ。いつも悠真がお世話になってます」
お姉さんの声はか細く、かすれていた。
私たちは中庭のベンチに移った。
柏木くんを挟むように、お姉さんと私が座る。柏木くんが缶ジュースを人数分買ってきてくれた。プルタブを押し上げてサイダーを一口飲むと、炭酸が口の中で弾けた。
「あの、私、お姉さんに会ってみたかったんです。私、実は……パニック障害で」
そう言うと、お姉さんは私をじっと見つめた。何度かゆっくりまばたきをしたあと、
「――苦しいよね」
と、一言だけ口にした。
「……私、学校の勉強についていけなくなってきて。適応障害も患ってて。発作起こす度に学校にいづらくなるんです」
私は、お姉さんに何と言ってほしいのだろう。分からないまま、話し続けた。
「学校辞めたい気持ちもあるんです。柏木くんみたいに通信制とかにしたら、もっと楽になるんじゃないかって思ったりもして。けどそれも勇気がいるし、何が正解なのかどんどん分からなくなるばかりで……。パニック障害が治れば一件落着なんですけどね」
そう言ったあとへへっと苦笑いを浮かべたけれど、お姉さんも、柏木くんも笑わなかった。
「……治らないと思うよ」
彼女の消え入るような細い声は、蝉の鳴き声の中でもはっきりと聞き取れた。
「治るなんて、希望を持たない方がいい。治らないと気付いたとき、絶望してしまうから。――私のようにね」
彼女が今まで感じてきたであろう絶望が、静かな声色の中に滲んでいた。
「治らないけど、共存はどうにか出来てる。どうにか、生きてる。学校も大事だけど――一番大事なのは生き抜くこと」
その言葉には、命の危機を経験した者の重みがある。
私が軽々と聞いてはいけないような深さがある。
「姉は、今まで色々大変でさ。……本当に、色々と」
――柏木くんの言葉にも、また、重みがあった。
「生き抜くためなら、辛いことから逃げてもいいんですかね」
私が独り言のように呟くと、お姉さんは前髪をかき上げながら言った。
「私はどうにかまだ生き耐えていられるのは、色々なことから逃げたからこそなのかもね」
喉の奥を刺激するサイダーと真夏の日差しがひりひりと痛い。
けど、彼女の言葉は――。
痛いけど、優しかった。
3
私と柏木くんは言葉少なに帰路についていた。
スマホの着信音が鳴り、私は電話に出た。
「美羽、夜お好み焼き作るから買い物してきて。キャベツとマヨネーズ」
母の声を聞いて、私は動揺した。
私には母がいる。私はまだ子どもで、大きな選択をするときは母の許可がいるものだ。
ドキマギしている自分に気付いたとき、私がしようとしている選択にも気付いてしまった。
だから――電話を切ったあと、私は口にした。
「私、通信制に行こうかなって思う」
柏木くんは肩をぴくりとさせ、私の顔を覗き込んできた。あまりにじーっと見てくるので恥ずかしかったが、私は目を逸らさなかった。
「――本気、なんだね」
柏木くんはそう言うと、目を細めた。
「僕んとこ、来なよ」
近付けてきた彼の顔から、汗の匂いがする。でもその匂いに人間らしさを感じて、全然嫌じゃない。
「帰ったら、お母さんに言ってみようと思う」
「反対されるかもしれないけど、頑張ってね。柏木さんの選択、僕はいいと思う」
彼が拳を目の前に出してくる。
私も手のひらを握り、彼と拳のキスをした。
4
家に帰るや否や、窓際で洗濯物を畳む母の後ろ姿に声をかけた。
「ねえ」
「何?」
「私……通信制高校行こうと思うんだけど」
「……え?」
洗濯物を畳む手が止まる。
「今の学校、キツい。発作も多くなってきてるし」
「え、あんた、学校どうするつもりなの?」
「通信に編入しようかなって。友達が通信通ってて、そこすごくいいみたいで」
「今のところは辞めるってこと?」
「そうなるかな」
母が振り返る。
「せっかく東山第一入れたのに辞めるなんて、そんなのもったいないでしょう。美羽が将来何になるのかなって期待してたのに!」
私はぎょっとした。
母の目には、涙が滲んでいた。
悲しいんじゃないって、分かっていた。母の涙は、怒りの涙なのだろう。悔しさもあるのかもしれない。
「でも、お母さん、いつも私がいい成績とっても反応薄かったじゃない。今更期待してたって言われても……」
「そんな一つ一つに一喜一憂してたらキリがないじゃない。美羽はできる子だったから、いつも成績よかったし。なのに、あの東山第一を辞めるなんて……。人生棒に振るうようなものよ」
「出身校で人生なんて決まらない!」
私も声を荒らげ、跳ねるようにリビングを飛び出した。
5
もういい。
お母さんは分かってくれない。
私は、机の上の写真立てを裏返して留め具を外した。写真の裏に入った、黄ばんたメモ用紙。
そこに書かれた電話番号を、迷わず押していた。
「……もしもし」
……懐かしい声。
「お父さん、私、美羽だよ」
――スマホの向こうで、息を吸う音がした。




