第7話 弱さを許す強さ
1
カフェに着くと、私は額の汗をハンカチで拭った。そのハンカチを右手にぎゅっと握りしめたまま、アンティーク調のシックな椅子に座り、柏木くんと向き合った。店内は温かみのある照明が吊るされ、控えめな明るさになっていた。ジャズ調の音楽が流れ、カウンターも壁や床も、深紅と黒の色調で統一されている。
「おしゃれなカフェだね」
私の言葉に、彼の顔がぱあっと明るくなった。
「そうでしょ!? ゴシック風で、何か不思議の国のアリスっぽくない? 木の香りも漂ってくるし」
男の子の口から不思議の国のアリスが出てくるなんてと目を丸くしそうになったが、顔には出さずにふふっと微笑むだけにした。年頃の男子は、女子が思っている以上にデリケートだろうから。
私と柏木くんは、アイスカフェラテを選んだ。
「あったかい方のカフェラテ頼むとラテアートしてくれるんだけどね。クマの顔みたいなやつ。でも、こんだけ暑いとホット飲む気にならないよね」
「ラテアート! すごいね。でも、確かにこの真夏にホットは飲みたくないね」
「冬にも、来れたらいいね」
そう言って、にこりと笑う柏木くん。その言葉に、私の心臓がどくんと大きく跳ねた。動揺しているのがバレたくなくて、私は何気ないふりをして季節限定メニューが書いてある表に目を落とすふりをした。
飲み物が来るまでの間、私たちはとりとめのない会話をした。本当は自分の話を切り出したかったのに、その一歩を踏み出すのは、途方もないほどの勇気がいるものだ。当たり前だ、私はずっと自分のことを話すという行為から逃げ続けてきたのだから。自分自身を直視することから、目を逸らし続けてきたのだから。
ゴシック・ロリータのようなシックながらもフリルの可愛い制服を着た店員が、飲み物を私たちの前へ置いた。私はストローに口を運ぶ。冷たくて、甘くて、ほろ苦い味が喉を通過していく。その幸せな刺激に突き動かされるかのように、私は柏木くんをまっすぐ見て、口を開いた。
2
「……私ね、ずっと、勉強頑張ってきたんだ」
脈絡のない切り出し方に、彼は眉をぴくりと動かしたが、全てを包み込むような優しい表情をたたえたまま、「……うん」と頷いてくれた。
「頑張って勉強して、東山第一に入ることが出来た。――でもそこは、大分背伸びして入ったところだった。だから、入学してすごく大変になった。初めてのテストで、順位がすごく悪くて……すごく、ショックだった」
あのときの気持ちが、みぞおちの奥からこみ上げてくるようだった。見たことのない点数の答案たちが返ってきた段階で、嫌な予感しかしていなかった。それでもわずかな希望を抱きながら順位表を開いたときの、つま先から胃の辺り、そして頭のてっぺんまで血の気が引いていくようなあの感覚。教室の床が歪んでいき、身体ごと呑まれてしまうんではないかと錯覚した。
私はその夜、成績のことで初めて泣いた。
そのときのことを思い出すと、息が詰まりそうになる。柏木くんの顔に心配げな色が浮かんだ。
「それは、すごく辛かったよね。今まで沢山頑張ってきて、頑張ったからこそ東山第一に入ることが出来たのに……それなのに、頑張りが足りないって言われるような成績だったら、誰だってショックだと思うよ」
彼の優しい声かけに、カチカチにこわばっていた心が緩んでいく。柏木くんに、申し訳なかった。私は、彼に気を遣わせてしまっている。
でも、ここで話すのをやめたら負けだと思った。自分の弱さに、勝ってみたかった。
「……私のお母さんは、私に期待をしていない人なんだ。順位がよくても『あら、すごいわね』って一言言うだけ。順位が下がっても『それでも上の方だからいいんじゃない?』って言うんだ。だからそのときも、『やっぱり進学校入ると大変ね。もっと下のところ入れば楽だったのにね』って言われた」
順位表を見せたときのお母さんの言葉と、苦笑いを思い出す。
「自分の努力が否定されたような気がして、次の日の朝、いつも通り六時に起きたんだけど、何か身体が変だなって思ったの。ふわふわする感じで、低血糖かな? って思って、食欲なかったけど朝ご飯少し食べて。でもその感覚は治らなくて……。七時半に家を出て、いつもと同じ時間の電車に乗った。いつもと同じ車両に乗ったら、急に汗が出てきて、呼吸が上手く出来なくなったんだ」
あのときの感覚は、今でも鮮明に思い出すことが出来る。得体のしれないものに乗り移られたかのような、強い恐怖とどうしようという焦りは、これまでの人生で味わったことのないものだった。
柏木くんの眼鏡の奥に、鋭い光が宿った。全てを察したかのように何度か小さく頷き、
「――それが、初めてのパニック発作だったんだね」
と言った。
「……うん。そこからは、本当に大変だった。発作って、ホント空気読めなくて。授業中でも友達と話してても容赦なく襲ってきて、それが段々回数も程度も増してきて――誤魔化しきれなくなった。今思えば、最初から誤魔化せてなんていなかったんだろうけどね」
そう言って私は笑った。でも、柏木くんは笑わなかった。
だから私も笑顔を引っ込めて、続けた。
「友達の前でなったとき、困った顔されちゃって。先生も、発作のこと知らない人や理解のない人もいて。『規則正しい生活をすればよくなるんじゃないか』って言われたこともある。悪い順位だったときと比べものにならないくらい、生きづらくなったんだよね。発症してから」
生物のおじいちゃん先生にその台詞を言われたときのことを思い出し、みぞおちにチクリと痛みがはしった。あまりに悪気なく言うものだから、私もあのときは笑って流したっけ。心の中では、泣き出しそうだったのに。
「私は、今でも東山第一に入学したことに一点の後悔もないんだ。自分がもっと頑張ればいいと思った。……でも、発作だけは頑張ってもどうにもならなかった。私はこれからどう生きればいいのか、答えが見つからないまま、毎日を過ごしているの」
私はそう言うと、グラスに口をつけた。
カフェラテの甘みが喉を通り、身体の奥へと落ちていく。
3
「……僕の姉も、病気になってからずっと生き方に悩んでいた。悩んで悩んで、心がポキッと折れてしまうことが何度もあった。取り乱しているのを僕が必死に止めて、母親が半ば無理やり入院させて。――丁度一昨日、姉はまた入院したよ」
柏木くんはそこで言葉を切り、目を伏せた。
テーブルの上で組まれた手が、微かに震えていた。
「ごめんね、柏木くん。そんな大変なときなのに……」
「いや、もう慣れっこだから大丈夫だよ」
乾いた笑いを浮かべる彼の瞳は、すごく寂しそうだった。
「……私も、いつか入院しなきゃいけなくなるのかな」
私がぽつりと呟くと、
「そんなことないよ」
と、すぐさま柏木くんは否定した。
「そんなこと、僕がさせたくない。僕に出来ることなんて、こうやって時々会うくらいしかできないけど……一緒にいるときは藤原さんを楽しませたいなとは思ってる。そんなに楽しいネタ持ってるわけじゃないけど」
真剣な瞳が、私を見つめている。
それでもよかった。
それだけで、充分だった。
「……ありがとう。そんな風に言われたことあまりなくて。――柏木くんと出会えてよかった。病気になって唯一得られたメリットかもね」
私が冗談めかすと、柏木くんも笑ってくれた。
4
「僕には持病はないけど、前言ったように生まれつき弱視だからさ、生きていて多少の不便はあるんだ。前の高校では体育がすごく苦手で。弱視だと物との距離が測りづらくて、球技が壊滅的だったんだ。クラスメイトに運動音痴ってからかわれたりするのが窮屈でさ。――だから、通信に編入したっていうのもあるんだ」
彼は一気に喋った。
けれどさらりと話した内容が、私にとっては衝撃的だった。
弱視にそんな不便さがあるなんて全く知らなかった。それに、もし柏木くんがそのようなハンデを持っていなかったら、通信に入ることも、私と出会うこともタイミング的になかったかもしれない。
「柏木くんも、沢山大変な想いしたんだね。――自分の知らないことって、いっぱいあるんだなあ。そんな風に他人には分からない不便さを抱えながら生きている人って、沢山いるんだろうね」
「そうだね。通信通っている人も皆何かしらわけありだから、だからこそ、人間関係は築きやすいなって思うよ。人並みに出来ないことがあっても馬鹿にする人はいないからね」
柏木くんが語る通信高校の世界。
私もそちらの世界に行けたらどんなに楽になるだろう。
――けれど、それは許されない選択だ。
私のプライドが、楽な方に逃げることを許さない。
「……ねえ、柏木くん。一つだけ、お願いごとしてもいいかな?」
私は真顔で彼に尋ねた。グラスを包む両手に力が入る。
「何?」
彼は小首を傾げた。さらりと揺れる前髪と、眼鏡の奥の穏やかな眼差し。
他人にお願いごとをするのは、本来得意じゃない。断られたらどうしようとドキドキするし、下手に出ること自体あまり好まなかった。
でも――彼になら、言える気がする。
私は唇を開いた。
「……柏木くんのお姉さんのお見舞いに、行かせてほしいの」
そう言うと、柏木くんの肩がぴくりと動いた。
柔らかな照明と静かなカフェミュージックだけが、私たちを包んでいた。




