第6話 君には、言える気がした
1
発作は、夏本番になっていくにしたがって更に増えていった。授業を頻繁に抜け出してしまう。クラスメイトに発作を見られたくないから、少しでも苦しくなりそうなときは早めに教室を立った。柏木くんと時々LINEをし、楽しいことは前より増えたはずなのに。
どうしてよ、と机の下の膝に爪を食い込ませながら、発作が来そうな気配に怯える。誰とも目を合わせたくなくて、唇を噛んでノートの端を睨む。どこかで聴こえる囁き声が、私のことを言っているのではないかと思い、耳を塞ぎたくなる。
発作が増えた理由は、第二中庭が工事中だからかもしれない。
学校内での私の唯一の居場所だったのに。私はこれから、どこに避難すればいいのだろう。
背中に、尖ったものでつつかれた感覚が走る。振り向いている余裕なんてないけれど、私は食いしばっていた歯の力を抜き、平静を装って振り向いた。
席替えで後ろの席になった紗奈が、シャーペンの先をこちらに向けている。小さな目をしばたたかせ、私をじっと見つめていた。
「美羽。だいじょぶ?」
心がぎゅっと締め付けられるような、息苦しさ。発作とは別の、圧迫される感覚だ。
紗奈が心配してくれることが、苦しくなるくらい嬉しかった。
先日の席替えは同性同士、好きな人と班を作っていい決まりだった。紗奈が最近仲良くしていたグループは四人グループでー―六人班を組むにあたって、誰かがあぶれることは確実だった。
紗奈があぶれてくれないだろうかと、祈った。しかし、彼女は余り者にならなかった。
「私、美羽と組むから皆で組んでいいよ」
自ら皆から離れ、私の隣にそろそろとした足取りで近付いてきた。顔を窺うように、上目遣いで私を見つめた。
鼻腔をかすめる、紗奈のシャンプーの香り。酷く、懐かしい気がした。半月ぶり以上に、嗅いだ気がした。
「美羽。私と同じ班にならない?」
紗奈が私から離れていった訳ではない。私が、避けてしまった。発作を見られたのが恥ずかしかった。それ以上に、他人の目を気にしながらうろたえた紗奈といるのが、苦しかった。もし、次にまた発作を起こしてしまったら。相手から去っていくより、自分から離れていった方が苦しくないと思った。
徐々によそよそしい態度をとって避け始めて、傷付いていないはずがない。なのに、彼女は私を自ら選んでくれている。
「……うん」
私は短く頷くことしか出来なかった。声が、震えそうになってしまったから。授業中に発作が起きそうになって席を立つ度、教室のどこかで囁き合う声は、段々増えてきている気がしていた。だから、恥はこれ以上かきたくなかった。
震える声がクラスメイトの耳に届いたら、更に囁き声は増えてしまうかもしれない。それはとてつもない恐怖だった。
紗奈は一瞬表情を曇らせたが、すぐににこりと笑った。――分かりやすい、作り笑顔だった。居心地の悪い雰囲気が私と紗奈の間に漂ったまま、クラス替えの時間は終わった。
またしても、本当に伝えたい言葉が伝えられなかった。
――柏木くんになら、伝えられるのに。
2
柏木くんと再び会う約束した日、私は駅のベンチに座ってスマホに何度も視線を落とした。都合が悪くなって行けないなどとLINEが来たりしないだろうか、悪い想像ばかりが頭を支配した。祈るような気持ちで、スマホを両手で包み、ホームの先を見つめていた。
遠くから、細身の男の子がこちらへ歩いてくるのが目に入る。眼鏡をかけ、まっすぐ向かってくる彼――間違いなく、柏木くんだった。
「ごめんね。少し遅れちゃった」
柏木くんは額の汗をタオルハンカチで拭いながら、本当に申し訳なさそうな顔をした。
「大丈夫。まだ、三分しか過ぎてないから」
腕時計を確認し、私はにこりと笑みを浮かべた。立ち上がり、スクールバッグを手に持つ。ホームで電車を待つ乗客の数は段々増えてきていて、夕方だからか、スーツに身を包んだ大人が多かった。普通に働くことの出来る彼らのように、私もなれるのだろうか。高校で躓いている私なんて、普通の大人にはなれない気しかしなかった。
「いい雰囲気のカフェが、近くにあるんだ。藤原さん、コーヒー飲める?」
「飲めるよ。甘くないとダメだけど」
「僕も。せいぜい微糖が限界。ブラックって、ただの苦水にしか感じないよ。大人になったら、飲めるようになるのかな」
『大人』になるまで、あと二年くらいしかない。二年後の私は、パニック障害も適応障害も治っているのだろうか。社会に『適応』出来ているのだろうか。あ、でも、大学進学する予定だから、まだ社会進出は先かもしれない。――でも、果たして私は大学生活を普通に送れるのだろうか。考えたら胸がざわざわしてきて、口にせずにはいられなかった。
「大人って……すぐだよね」
「すぐ? まだ二年もあるよ。それに、成人は十八だけど、成人式は二十歳だし、お酒も煙草も二十歳だから、実質あと四年あるようなもんだよ」
柏木くんの言葉には全く毒気がなくて、彼の心のまっすぐさが羨ましく、同時に少し眩しかった。
3
カフェまでの道を、セミの鳴き声が降り注ぐ中雑談をしながら歩いた。車椅子の友達の芳樹くんが初対面のときに、「お前、めっちゃ二重だな。コンタクトにしたらすごいモテそう」と声をかけてきた話を、苦笑いを浮かべながら、けれど、すごく優しい目をして聞かせてくれた。
「僕、コンタクトにするとしたら、片目だけ入れれば済むんだよね。弱視は何しても見えないから。それを話したら、芳樹、『めっちゃリーズナブルだな!』って目を輝かせたんだ。皆、弱視の話をすると気まずい表情をするのに、そんなふうに遠慮なく言ってきた人、初めてでさ。だから、この人と友達になりたいって思ったんだよね」
そう話す柏木くんの気持ちは、よく分かる気がした。発作を起こしたとき、うろたえていた紗奈の顔が脳裏に蘇る。世の中、ハンデや病気、障害に触れることはタブーのような風潮があるから、私は自分の病気を他人に話すことはほとんどなかった。いっそのこと、「それってどんな病気なの?」と明るく訊いてくれた方、がお互い気まずい思いをしなくて済むのに。
「藤原さんは、病気のことって友達に話してる?」
気軽に、訊いたつもりだったのだろう。――けれど、私は思わず俯いてしまった。紗奈の顔が脳裏に浮かぶ。私が余りそうになったとき、手を差し伸べてくれた彼女。それがどうしても、私を好きだから選んでくれたのではなく、余り者への慰めのように思えてならなかった。紗奈と一緒の班になってから、発作は更に隠さなくてはいけないものへと変わった。
それがすごく、しんどかった。
「ごめん、何か悪いこときいちゃったかな。……そうだよね、学校で辛いことがあるから、だよね……」
柏木くんは、いつもより少しだけ早口だった。その言葉の奥にある、『言いたくても言えなかったこと』が、静かに胸に刺さった。きっと『学校で辛いことがあるから、病気になったんだよね』と言いたかったのだろう。決めつけられたことに、胸の奥がチクリと痛んだ。でも、その推理は正しい。虚勢を張るのが、私の悪いところだって分かっている。だから、余計に辛くなるのだと。
だから、私は、心配そうな瞳で私を見つめる隣の彼に、カフェで自分の話をしようと決めた。――柏木くんのためでなく、自分のために。
ローファーを踏みしめ、唇をきゅっと結んで前を見つめる。セミの鳴き声が、不意に止んだ。空気を読めるセミたちだな――と、少し顔を上げ、遠くの木々に向かって、誰にも気付かれないくらいの、笑みを浮かべてやった。




