第5話 不良品の私たち
1
「弱視って、聞いたことあるでしょ?」
柏木くんの言葉に、私は無言で頷いた。私の瞳は彼の両目を見つめたままだった。左目だけ見た時は、わずかに濁って見えたけど、右目も一緒に見てしまえば、違和感はほとんど覚えないくらいだ。柏木くんからのカミングアウトを聞くまで、全く気付かなかった。
「弱視って言っても大体の人は、目がすごく悪いという認識しか持ってないんだけどね、弱視っていうのは、視力が悪くて、眼鏡とかかけても見えるようにならないものを言うんだ」
柏木くんに言葉に、疑問が浮かんだ。だって、柏木くんは眼鏡をかけている。私の疑問を読み取ったかのように、彼は眼鏡を外した。裸眼の柏木くんは、整った目鼻立ちがより目立ち、思わずドキッとしてしまった。
外した眼鏡の左側のレンズを、彼は人差し指の第二関節でコツ、コツ、とノックした。
「右目は乱視だから度が入ってるけど、左は度が入ってない。ただのガラスなんだ」
意外な言葉に、私は「え……」と呟いて、眼鏡を覗き込んだ。確かに、左側のレンズの向こう側は、大きくも小さくもなっていない。そんな眼鏡が、世の中に存在するなんて――。
「……弱視って、何でなるの?」
私は疑問を口にした。目が悪いのに、眼鏡をかけても見えないだなんて、何故そんなことが起こってしまうのだろう。眼鏡を外した柏木くんと目が合う。睫毛が長くて、二重がはっきりしていて、まるで仔犬のようだと思った。見つめ合うのが恥ずかしくて、私は目を逸らした。膝の上で握った拳に視線を落とす。私の拳は、少しだけ震えていた。弱視という事実の驚きのせいなのか、彼と目が合った動揺のせいなのか、自分でも分からなかった。
「弱視は多くが生まれつきなんだ。成長過程で目が上手く成長出来なかった、らしい。――普通は、就学前検診とかで発見されるものなんだけどね。普通は親がちゃんと連れて行くからね。弱視は、八歳くらいまでに気付いてトレーニングすれば、多くの人が視力回復するんだ」
柏木くんの声のトーンに影が落ちたのを感じ、私は視線を彼に戻した。彼は俯き、遠い目をしている。彼の言葉が気になった。『普通は親が連れて行くからね』――訳ありなのかも、しれない。
「親が僕の弱視に気付いたのは、小学四年だったんだ。もう手遅れだったよ」
手遅れ――。ということは、これから先どうやっても柏木くんの左目の視力は回復しない、ということだ。片目だけで見える世界は、どんな不便があるのだろう。分からないことが沢山ありすぎて、何から聞いていったらいいのか分からない。
「って言っても、右目は眼鏡でまあまあ見えるから、すごい困るってことはないんだ。片目で頑張ってるから眼精疲労や肩こりはやばいけどね。前、整形外科の先生に肩がゴルフボールみたいだって言われたよ」
柏木くんは、沈んだ表情を吹き飛ばすかのように明るく笑った。でもその笑顔が無理しているように見えて、胸がずきりと痛んだ。
「柏木くんも……色々とすごく大変だね。私だけじゃないんだなあ……」
呟きながら、空を仰いだ。ゆっくり流れる筋雲と、うざったいほどの眩しい太陽。どんなに晴れていても、私たちはそれぞれ、生きてきた道に陰が落ちていた。これから歩んでいく道は、更に日陰となった湿った道なのか、少しでも光が射すのか――。
きっと、誰にも分からない。
2
「色々湿っぽい話しちゃったね。ただ、藤原さんを不安にさせちゃっただけだったかもね。ごめん」
柏木くんは眼鏡をかけ直し、両手を上げて伸びをした。片目が弱視だと聞いたせいで、つい左目を盗み見してしまう。言われてみれば、という程度にすぎないであろう見た目の違和感が、心の底でぐるぐる渦巻いて何だか申し訳なくなる。
「ううん! 色々聞けてよかった。私の話も聞いてもらえて――嬉しかった」
私は笑って小さくお辞儀をした。柏木くんの前で、素直な自分を少しずつ出せるようになっているのを感じた。首に伝う汗が気持ち悪くて、ハンカチで首元を拭った。
「今度は、もっと涼しいところで話そうか。まだまだ暑いもんね」
そう言った柏木くんの額にも、玉の汗が浮かんでいた。「今度」って、今、言ったよね? 柏木くんとのお話に、また次がある。それだけで、明日も学校で頑張れそうな気がした。LINEを交換したのだから、次回があるのは当然のことかもしれないが――LINEを交換したのに遊ぶことのないままの友達も、いる。心がじんわり温まり、色々な話を聞いてドキドキしていた心臓が、いつものリズムへ戻っていく。
「駅まで送るよ。道、分かりづらいと思うから」
柏木くんの申し出に、私は頷いた。本当は道なんてナビを使えば簡単に分かるけど、少しでも長く彼と話していたかった。
そのとき、私のスマホが鳴った。画面を見ると、お母さんからだった。せっかくの和やかな空気に水を差されたようで、「何?」とちょっと不機嫌な声で出てしまった。
『どこにいるの?』
お母さんの声はちょっといらつきながらも、心配げな響きだった。
「あー……ちょっと寄り道。今から帰るから」
早口で説明すると、お母さんはまだ何か言いたそうだったが、私は一方的に電話を切った。
「お母さん。どこにいるのって」
柏木くんに説明すると、彼は少し寂しげな表情を浮かべた。遠くを見つめ、
「藤原さんのお母さんは優しいんだね」
と呟いた。さっき柏木くんは、親との確執を口にしていたような気がする。私のお母さんは心配性で口うるさくて、煩わしく感じる気持ちもあったけど、彼と親御さんには、深い溝があるのかもしれない。けれどそれをまだそんなに親しくもないのに訊くことは出来ず、曖昧に笑うことしか出来なかった。
3
柏木くんと駅までの道を歩く。手を振っても触れないくらいの微妙な距離を保ちながら、彼の少し後ろをついていく。
駅までは十分くらいだった。近くにあるお勧めのカフェの話、通信高校の色々な話を聞きながら、いいなあ、と思う。通信高校はクラスもなく、スクーリングも週に一度くらいしかないらしい。友達は作りづらいけど学校を休んでも誰も何も言わないし、欠席の連絡すら不要とのことだ。色々なしがらみがないことは、間違いなく『自由な校風』だった。
「通信って、いいなあ」
私は思わず口にしていた。柏木くんの足が止まる。振り返って、声のトーンを少し落とす。
「僕らはそこでしか生きられない人なんだ。通信に行くことか正解かって聞かれたら……普通の学校で生きられる力を持ってる人は、そっちの方がいいと思う。通信は、普通になれない人たちが行くところだと思う。世の中では、通信高校なんて底辺だと思われてるからね」
そう言って、目を細めて私の制服を一瞥した。
「僕は、進学校に通ってる藤原さんが本当にすごいと思うよ。誇って、いいと思う」
私は、制服のスカーフを握った。このセーラー服は進学校の証だ。街中でも「あ、東山第一だ」と囁き合う声が聞こえることはある。私だって、進学校に入れたことは誇りだった。――けれど、今はその中の下層にしかいられず、どうにか最下層には堕ちないようにしがみついているだけにすぎない。
「……でも私、壊れ物だもん。適応障害とも言われてるんだけど、それって適応出来ないから病むってことだもんね。私はもう、普通には生きられないんだなあって思う。不良品になっちゃった。それとも、最初から不良品なことに気付いてなかっただけなのかなあ……」
同意を求めているわけじゃない。慰めてほしいわけでもない。ただ、誰かに聞いてほしかった。髪の毛のように頑固に絡まって、心の中で肥大し続ける、私の情けない弱音を。
柏木くんは、デニムパンツのポケットに手を入れ、私をまっすぐ見つめた。夕日で彼の顔は赤く染まり、生ぬるい風が彼の前髪をさらった。
「――僕も藤原さんも、仲間だね。僕は左目に、藤原さんは心に、ハンデを抱えながら生きている。でもそれって、悪いことじゃないと思うよ。健常者の何倍も頑張ってるってことだから」
柏木くんの言葉が、私のかさついた心に沁みる。そっか。私たちは、普通に生きられない分、普通の人より頑張って生きている――。今まで、そんな発想なんてしたことがなかった。彼の、多面的に物事を見られる視野の広さは、通信制高校で養われたものかもしれない。
「また、会おうね」
柏木くんとは駅のホームで別れた。電車に乗る時に手をひらひらと降ってくれて、私も胸の前で小さく手を振り返した。『また』がある。そのことがすごく嬉しくて、電車が動き出してもパニック発作が起きそうな気配はなかった。
スマホを開き、柏木くんのLINEアカウントを開く。スワイプし、押しピンのマークをタップした。
柏木くんのLINEがトーク画面にピン留めされ、いつでも一番上へ表示されるようになった。思わずにやついてしまい、頬を両手で包んで頑張って真顔に戻した。




